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人の「本棚が見たい」のはなぜか?ーー本棚記録サービスを作りたい(1)


人の「本棚が見たい」のはなぜか?

 本好きによる本好きのための月刊誌『本の雑誌』。その巻頭コーナーを飾っているのが「本棚が見たい!」というカラー写真ページだ。脈々と続いているこの連載は、これまで2冊の書籍『絶景本棚』『絶景本棚2』として刊行されているほどの人気ぶりである。本棚のある部屋の雰囲気が伝わる全体像と、背の文字が読めるアップの写真とで構成されていて、知っている本に目を留めながら知らない本の背を読んだり、全体の構成からジャンルの分け方を眺めたりすることで、持ち主の興味のベクトルや意図を想像しながら「本棚を読む」ことができる(『絶景本棚』ではこれを「背表紙読書」と言っている。ぴったりな表現だ)。


『絶景本棚』本の雑誌編集部/編 中村規/写真

 ところで、本好きの人間はどうしてこんなに人の「本棚が見たい!」と思うのだろう。『本の雑誌』の巻頭連載には、まず書店さんの本棚が掲載されていて、その次に個人の本棚が続く構成なのだが、毎号後者のほうが不思議に心が躍る。登場するのは著名な作家さんや編集者さんばかりではない。初めて知る人の本棚だって興味津々、この人と本の話をしてみたい!と自然に思えてくるし、普段自分が興味を持たないジャンルの本も読んでみたくなる。
 この「本棚が見たい」という欲望について考えてみよう、というのが今回の主旨だ。この面白さの源はなんだろう。


『絶景本棚2』本の雑誌編集部/編 中村規/写真

仮説1:「書店とも図書館とも違う独特の並び」が面白い?

 書店も図書館も、基本的に「誰にでもわかりやすい」ことを目指して本が並んでいる。あえてざっくり言えば、新刊書店には刊行から半年以内くらいまでの新しい本が、図書館には過去に刊行されたすべての本の中から司書さんたちに選ばれた本が、古書店には刊行時期を問わず店主の方が買い取って選んだ本が並んでいる(当然例外もたくさんある)。どの本棚も間違いなく楽しいし、新鮮な出会いも常にある。けれど、そういったある種のルールに則った棚を見慣れていればいるほど、いち個人が自分のためだけに私的に編集した本棚の並びが、ユニークで面白く感じられるのではないだろうか。
 これは当然だし誰でも思いつくことなのだけど、これだけではまだ浅いというか、言葉が足りていない気がする。もう少し考えを深めたい。


最新号の『本の雑誌』 488号2024年2月号

仮説2:持ち主の人柄が透けて見えるから面白い

 個人の本棚にはほとんどの場合、その人が汗水垂らして稼いだお金を費やして購入した本が並んでいる。よほどの大金持ちでないかぎり、購入する本の選択は切実かつ真剣に行われているはずだ(仕事柄、献本などで貰う本が中心という人もいるだろうけど少数派だろう)。
 さらに言えば、本が置ける空間だって当然限られているから、際限なく本を増やすことはできない。定期的に整理して、読み終わって再読の見込みが薄そうだったり、買ったけれど何年も開いていなかったりした本は、新しい本に場所を譲るために去ってもらわざるを得ない(この作業は本当につらいので、できるだけやりたくない。選択を誤って何度後悔したことか……)。

 これらの関門を越えてなお手元に置いておきたい本だけが、その人の本棚に並んでいる。仮説1で挙げた面白さは、このプロセスの結果現れる副次的なものだ。繰り返し行う切実な選択には、どうしようもなくその人の価値観や好奇心が現れてしまうので、嘘で貫くのは難しい。嘘や見栄がまったく無いとは言えないが(世の中には見せるためにあるような飾り本や、隠しておきたいポルノ的な本だって山ほどある)、それでも自分の日常生活を楽しく、便利にすることを第一の目的とする自宅の本棚が、全て嘘でできていることはないはずだ。

 そういう点で、本棚に現れる個性や人柄は、当人が完全に意識的に表現しているものではない。これが個人の本棚が面白いと感じる大きな理由ではないだろうか。積極的に自己アピールしてくる暑苦しい意図には辟易してしまうことも多いが(広告の類が苦手なのは私だけではないはず)、とはいえ本来、人は大なり小なり他人に興味を持ってしまう存在だ。知り合いの本好きのなかには人づきあいが苦手、という人もいるけれど、そもそも書籍として結実しているものは、生きている/生きていた誰かの経験や思考から生み出された表現だ。本を読む行為は、紙面を通じて間接的に人と対話することだとも言える。他人に全く興味がないという人でも、本を読むときは著者の思考や人柄におのずと触れている。
 本棚から感じられる人柄は、お金や空間という「しかたなく」課される制限によって、あくまで消極的にあらわれる。嘘や偽りが入り込みにくい、その人本来の姿が現れた、「本棚人格」とでも名付けたいようなもの。それが垣間見えるから、自然に共感を抱くのではないだろうか。だからこそ、本棚を見せることにためらいを覚える人も多いのだろう(昔は私もそうだった)。

仮説2からの派生:人柄を通じた本との出会いが面白い

 買ったり売ったりあげたり貰ったりすることで、持ち主が生きているかぎり本棚は変化する。推理小説のまわりに哲学や言語学があったり、詩歌のまわりに評伝や辞書があったり、写真集や絵本、図鑑も地図もごっちゃにあっていい。本棚という枠の中で見ることで、自然と意味のあるつながりを見出してしまうのが人間だ。こういう本棚の「文脈」には、はっきり言語化できないような、「表現」未満の物語、とでも言いたいようなものが現れる。この「本棚文脈」を通じた出会いが、書店や図書館とは違った興味を引き出してくれるのではないか。
 持ち主当人にもその効果はあるようで、私自身、並べ替えることで違う刺激が得られることも多い。本棚の本は私の記憶の一部を担ってくれており、過去の私を保存してくれているとも感じる。過去の自分を別人格だと考えると(実際、若い頃何を考えていたか思い出せないことも多い)、過去の自分と本棚を通して出会い直すこともあるのだ。自分で言葉にできていない自分自身が、本棚を通すと見えてきたりする。

これまでの「本棚本」ではどのように言われているか

 個人的な意見を先に書いてしまったわけだが、これまで数多出版されてきた読書や本棚をテーマにした書籍では、どのように本棚の魅力が語られているのか、ここで参照してみたい。

『本棚の本』赤澤かおり/著 公文美和/写真

 子供の頃、友人の家に上がり込むと、まず気になったのは本棚の中身だった。小学生のときに、家庭訪問に行く先生にまとわりつき、友人の家をぞろぞろと大人数で訪ね歩いたときにも、私が一人で友人の本棚に見入っていたと、幼なじみが最近になって教えてくれた。そんなふうに振り返ってみると、人の本棚を見たいという欲求は常に私の中にあった。でも、それがなぜなのかはわからないままでいた。(中略)
 2年の月日が過ぎ、気付いたのは、本棚は人生だということだ。ちょっとやそっとでは重ねることのできない、日々が積み重なった自分自身の証のようなものだった。皆、それを知らずして何気なく入れたり、出したり、整理したりしているのだ。ずっと本棚に残っている本は、自分にとっての何かが詰まっているものに違いない。

赤澤かおり『本棚の本』p2-3「はじめに」より

 これは昨年末まで勤務していた出版社で、Web連載から書籍化まで先輩とともに編集を担当させていただいた、私にとって特別な書籍だ。連載時のタイトルは「仕事人の本棚」。レストランのシェフやデザイナー、酒屋、花屋、古書店などさまざまな職業の人の本棚を訪ねる、というユニークな企画である。著書のある著名な方も何人もいるけれど、ふだんは裏方のお仕事をされている方も多い。本棚の写真のほかに、人や場所の雰囲気が伝わる写真がたっぷり収録されていることも特徴だ。
 登場されている19人のうち11人の方の取材に、著者さん・カメラマンさんと同行させていただいた記憶が、今本棚について考える上で重要な道標となっている。無意識的に表れている「本棚人格」を、それぞれの「仕事人」の人柄をよく知る著者が描くことで、それぞれの人生と密着した本棚物語が紡ぎ出されていき、職業や性別、年齢などから浮かぶステレオタイプな本の並びを、気持ちよく裏切られるのはまさに快感だった。どんな人の人生も一筋縄ではない、そのことをまさに本棚が眼に見えるように伝えてくれていると、まずこの本が教えてくれたのだ。

『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』山本貴光

 なぜ人の書棚を見るのは楽しいのか。書棚に本が並んでいる。ただそれだけのことなのに、「ほう」とか「これはこれは……」などと言いながら、ついしげしげと眺めてしまう。「あ、これ読んだことがある」とか「こんな本があるのか」とか。
 ある人の書棚を見て、なにもかもが分かる。ということはないけれど、そんなことでもなかったら分からないこともいろいろある。その人は、なにに興味を持ったのか。どんな本を集め、どう並べたのか。取り出しやすい場所に置かれた本はどれか。どう読んだのか。そう、蔵書はそれ自体がひとつの表現なのだ。

山本貴光『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』p228より

 本の雑誌社から刊行されている山本貴光さんの著書には、本棚を見る楽しさについてこんな風に描かれていた。「蔵書はそれ自体がひとつの表現なのだ」、という言葉に思わず膝を打つ。引用文中の「そんなことでもなかったら分からないこと」というのが、仮説で挙げた「本棚人格」にあたるのではないだろうか。
 同じ連載の書籍化第二弾にもこんな言葉がある。

『マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻』山本貴光

 人の書棚を眺めるのは楽しい。『本の雑誌』を手にすると、なにはなくとも巻頭を飾る「本棚が見たい」に見入ってしまう。棚から棚へ、本から本へとゆっくり眺めながら、「あ、これ、私も読んだ」とか「へえ、こんな本があるんだ」とか「この並べ方はいいなあ」とか、勝手にしみじみと感じ入ったりするわけである。世界中でこれまでどれだけの本や雑誌が刊行されてきたか知らないけれど、どんな書棚もその中から二つと同じ組み合わせはありえない宇宙にひとつのものだ。なんだか奇跡的なことのように思える。

山本貴光『マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻』p226より

 博覧強記で多様な著書があり、ご自宅を図書館(「BRUTUS」2020年5/15号掲載)になさるほど愛書家の山本さん。『絶景本棚2』の巻末には尋常でない”魔窟”ぶりが掲載されていたが、そこから図書館に至るまでの変遷が定期的に記録されていたらどうだろう。見たいと思うのは私だけではないはずだ。「宇宙にひとつ」の組み合わせは、時間的にも一度しか起こり得ないのである。詳細は追って述べるが、だからこそ私は、「本棚を写真で記録するサービス」を作りたいと考えている。
 そのまえにもう一冊、その名もずばり『本棚が見たい!』という書籍が1996年にダイヤモンド社から刊行されているので紹介したい。

『本棚が見たい!』川本 武/著 津藤 文生・大橋 弘/写真

 人それぞれの本棚に並んだ本の背文字に視線を漂わせながら、あれこれ想像力を働かせる。本の好きな人にとって、読書の延長上にあるもう一つの悦楽だといっても過言ではないでしょう。ましてや著名人の本棚ともなれば、著書やメディアを通しては知りえない、その人の意外な素顔がかいま見えたりします。
 だからこそ本棚拝見が雑誌書籍の一つのジャンルとして確立しているともいえますし、しかもこの種の企画の歴史は意外に古くて、明治四◯年ごろの雑誌にもすでに登場しています。(中略)
 とにかく、本好きは他人様の本棚も好き!こういう性癖を、他人の舞台裏を覗きたがる人間の本性、と片づけてしまってはミもフタもありません。たしかに、そうした野次馬根性も否定できないとは思いますが、大げさに言えば本棚拝見の喜びはもっと奥が深い。(中略)
 当然のことながら、本棚には持ち主の世界が意識的ーーあるいは無意識ーーに可視化されています。同じ本であっても本棚のどこに並んでいるかによって、また周囲の本との相互関係によって、その本が特別の意味をもってくる。つまり、並べ置き方それ自体が、その人のいま現在の世界を表現しているともいえるわけで、だから本棚を拝見していると、その人が「まだ書いていない一冊の本」を読んでいるような感覚に襲われることもしばしばあります。

川本武『本棚が見たい!』p2~4「はじめに」より

 文筆を生業としている方が多い書籍だからこその表現かもしれないが、「その人が『まだ書いていない一冊の本』を読んでいるような感覚」という言い方が的を射ていてすばらしい。「本好きは他人様の本棚も好き」なのは「性癖」なのだ。明治時代の末にすでに「本棚が見たい」という欲望は知られていた、ということは書籍を誰もが買って読めるようになり始めた頃、本棚という家具の普及とほぼ時を同じくして認識されていたことなのだ。

本好き同士が、本棚の変遷を記録して見せ合うサービスが作りたい

 冒頭で「本棚が見たい」という欲望について考えてみる、というのが主旨だと書いたが、目的は前述のように「本棚の変遷を写真で記録するサービス」を作ることである。ここでなぜ本棚の記録を残したいのか、単に個人的に本棚の写真を記録するだけではなく、なぜ仕組みとして作りたいのかを、できる限り言語化してみたい。

既存のサービスにないもの

 「ブクログ」や「読書メーター」など、「本棚管理」を謳うサービスはすでに様々に存在する。もちろん私も活用しているし、書評の投稿や相互フォローなどの機能も充実している。だが足りないものがある。それが「本棚人格」の表出だ。
 これらのサービスの多くはAmazonからAPIを通じて書誌情報などを引いており、書影(本の表紙やカバーなど本の「顔」)にはデータベースに登録されている画像が表示される。データは当然劣化しない。古書で買ったか新刊で買ったのか、どれだけ読んだのか読んでいないのか、感覚としてわからない。発売日や登録日はメタデータとして持っていても、「本棚」の並びには現れない。
 現実の本棚にはほとんどの場合、本の「背」が並んでいる。「顔」の並びと「背」の並びでは密度が大きく異なる。情報の圧縮度が違うのだ。読み込んだ本の「背」は歪んだり膨らんだり付箋が飛び出していたり、古書で買った本なら焼けて変色していたりする。「時間」の次元が視覚的に伝わってくるのである。『絶景本棚』で言うところの「背表紙読書」の楽しみが、既存サービスの「本棚」では得られないのだ。

制約=有限性が無意識の個性を露わにする

 デジタルの「空間」は無限であり、現実の制約を受けない。すでに持っていない本も、所有したことがない本でも登録することが可能だ。制約がないから容易に嘘がつけてしまうし、制約がなければ苦しい選択もない(実際私が利用している本棚サービスも手元にない本がそのままになっている。わざわざ削除するモチベーションがないのだ)。費用と空間の制限がない「本棚」には、現実の本棚にあるような選択の積み重ねが現れず、従って自然的な「本棚人格」の現出もない。おそらくわざわざ並べ替えたりする人も少ないだろう(ソートや検索だって簡単にできるのだから)。だからデジタルの「本棚」は現状「本棚が見たい!」という欲望の対象になっていないし、今後もなり得ないのではないだろうか(メルカリで古書を販売しているアカウントの一覧ページは、書影がほぼ写真なので情報量は多いが、「背表紙読書」と比較するとやはり物足りない)。
 つまり、単に本の集積やリストを見たいわけではないのである。書名や著者名が一律に同じフォントで並んでいるのとは比較にならないほど、本の背が並んでいる本棚の情報量は多いのだ。伝達速度も早く、直観的に伝わってくる。デジタル空間の無限性と比較してこそ、有限な物理空間にある本棚の特徴がよく見えるとも言えるだろう。

個人が本棚を自宅に持てるようになったのは歴史上ごく最近のこと

 人類の歴史のほとんどのあいだ、ごく最近まで本は、ほとんどの人が一冊も所有することのできない贅沢品だった。読み書き能力を育てる教育、本の安価な制作・流通を可能にする技術と経済力、市井の人々が学問や楽しみのために時間とお金を使うことができる自由とゆとり……必要な条件を挙げればきりがない(津野海太郎『読書と日本人』や永嶺重敏『読書国民の誕生』などに詳しい)。私のような特に裕福でない個人でも蔵書を持つことができる、豊かな環境を作り上げてくれた先人たちの恩に報いるためにも、いつまで残るかわからないこの「個人の本棚」を記録しておきたいのだ。記憶の外部化を担ってくれる存在としても重要だ。本棚の魅力や便利さは、体験しなければ伝わらないところがある。
 出版社勤務時代は仕事柄、社に届く読者はがきをつねづね見ていたのだが、「図書館で借りて読んだけれど手元に置いておきたくて購入した」という意見がめずらしくなかった。手元にあっていつでもアクセスできることの効用を知っている人は多いのだ。ミニマリストが増えていることも、電子書籍派が増えつつあることも承知しているが、本の所有を完全になくすことが不可能な人は一定数い続けるだろう、というのが私の意見であり、また本棚から触発される経験を無くしたくない、と思っている。

 ずいぶん長文になってしまった。なぜ本棚を写真で残すサービスを作りたいのか、既存のCtoCサービスを使ってやってみたこと、などを次回以降にお伝えしたい。

「本の雑誌」2024年1月号の「本棚が見たい!」に本棚を掲載していただきました


「本の雑誌」2024年1月号487号

 今年2024年の「本の雑誌」新年号の巻頭連載「本棚が見たい!」に私の本棚を掲載していただいた。本棚をプロのカメラマンさんに撮影していただいたのは実は2回目。先に挙げた『本棚の本』の最後にスタッフの本棚写真があるのだが、そのひとつとして掲載されている。本棚のカオスぶりが、当時の自分を表していていて恥ずかしくも懐かしい。

 本棚写真記録サービスを作りたい、というならまず自分の本棚を晒していかねば、との思いからSNSに投稿した。それを見た本の雑誌社さんが取材に来てくださったのである。40年間生きてきた中で、一番うれしい出来事だった。こうして元気に生きてこられたのは、大袈裟でなくこの本棚に並んでいる本たちのおかげだったので、本を作り届けるお仕事をされているたくさんの方になんとか感謝を伝えたい、と思い続けてきた。この本棚を「見たい」と言ってくださったことが、恩返しの端緒になったような思いがしている。
本の雑誌社のみなさま、本当に本当にありがとうございました!

いただいたサポートは、本棚写真共有サービスのたちあげのために使わせていただきます。よろしくお願いいたします!