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季節の移り変わりと文通の行方

去年の1月、職場で地域の情報を発信するフリーペーパーを読んでいて、ある女性のプロフィールに目が留まった。そこにはボールペン字の講師とあり、美しい顔写真からは同世代か少し下の年齢かと思われ、同性ながらこんな先生になら習ってみたいなぁと思った。

主宰する講座について何気なく調べてみたところ、市内で月に二回開催していてそのうち一回はうちの会社のすぐそばのカフェでやっていることが判明した。しかもその日偶然にも講座の開催日で、「これは…!」と一気にスイッチが入った私は興奮気味にその人のインスタにメッセージを送り、その日の講座に参加させてもらえないかどうかを尋ねてみた。

するとすぐに返事がきて、「あいにく予約で満席なので、良ければ来月ぜひ参加してください」との事だった。都合よく事が運ばなかったことにガッカリしたが、よく考えてみればいきなり過ぎである。深呼吸をしてから、そりゃそうだと急に笑いがこみ上げてきた。そして「また改めて参加させてもらいます」と返信した。


講師のIさんの人柄や圧倒的な技術に惚れ込み、その翌月から休まずに講座に参加し今ではすっかり常連メンバーとなった。とはいうものの、昨年はコロナの影響もあって講座が開催できなかった時期もあり、まだほんの駆け出しではあるが字を上手に書くためのコツを少しずつ学び、それを意識して書くと確かに見栄えが少しマシになる。知識を得るということが単純に楽しいと思えるし、変化を実感できるのも楽しくやり甲斐がある。そして無心で机に向かうその時間が、まるでヨガのようで頭がとてもスッキリとするのだ。何かに集中していると時間があっという間に経過するように、この講座はいつもあっという間に終了してしまう。


さて、前置きに熱が入ったが本題はここから。

こんな感じで突如ボールペン字の練習を始めた私は、初めて講座に参加した日のことをインスタで紹介した。すると友人のEから「いいね、ぜひ文通をしましょう!」と冗談交じりのコメントが来た。Eとは15年ほど前に趣味で知り合って仲良くなり、数年前に結婚した彼女は現在家族と県外で暮らしている。

このご時世に”文通”という言葉を耳にするとは…そのノスタルジックな響きに最初こそ戸惑ったが、当時コロナが拡大しつつある状況の中だったし、何よりいい実践練習になるじゃないかと思い直し、喜んでオファーを受け入れた。

それから数カ月に一度のペースでやりとりが続くこととなったのだが、今改めて振り返ると貴重な経験だったと思う。その時々の自分の気持ちを確認しながら文字に起こしていく作業には新鮮な気づきがあり、またやりとりする相手のことを想って書かれた手書きの文章からは、デジタルなツールでは表せられない温もりが感じとれる。人とのコミュニケーションが取りにくい時期だったからこそ、余計に心に沁み渡った。郵便受けに封筒を見つけ、差出人を確認するたびに顔がフッと緩んで優しい気持ちになった。

Eとのそんな手紙のやり取りがちょうど1年経ったところだが、突如終わることになりそうだ。

先週Eから届いた手紙に

「この春、子どもの進学に合わせて地元に戻ることになりました」

と書いてあった。これには私も驚いたが、長らく会えていなかったので素直に喜んだし、何より本人も驚きを隠せない様子ながらとても喜んでいるのが伝わってきた。しかしよくよく考えたら、それはつまり文通の終わりを意味するのだと、数日経ってからようやく理解した。


今、便せんを目の前にして何を書こうかなと考えている。終わりを意識した途端、ちゃんと書かなきゃという変にかしこまった意識が芽生え、なかなかペンが進まない。

テレワークで季節感のない生活が続いている中で、手紙の中の「進学」や「引っ越し」というワードを目にして、あぁ今はもうそんな時期なんだな…と噛みしめた。






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