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【#25】宇多田ヒカルになりたいボーイと一日の予定全て狂わせるミス

パリへ行くつもりじゃなかった

はじめてのルーブルはなんてことなかったわ、だなんて宇多田ヒカルにしか言えないことで、凡百の人間は審美眼を持たずとも回廊の巨大さと足の踏み場もないほどの人混みにまず圧倒されてしまう。自分だけのモナ・リザを持たない人たちの列が、モナ・リザの前でぐるぐると何重にもとぐろを巻いていた。

極東の島国でも世界史の教科書に載るほど、素晴らしい絵画だからなのだろうか、いざ実物を見れば心が動かされたような気がするのは。ときどきCOLDPLAYのアルバムのジャケットに出張する日もあるにせよ、自由の女神は明日も明後日も民衆を率い続けるだろう。マラーはいつの日も刺されたまま虚ろな目で倒れているし、ナポレオンは年中無休で戴冠し続けている。

なんとなくルーブルに来たという事実に酔いしれて、なんとなくオーディオガイドを聴いて賢くなった気がして、なんとなく名画の前で携帯電話のカメラで写真を撮り、なんとなくギリシア彫刻の曲線美に感動するのだ。

決まり切った手順で再生産されていく、美についての感動を追体験するプロセス。これをアメリカの社会学者・リッツアは、感動のマクドナルド化と呼んだ。いや、呼んでない。リッツアが『マクドナルド化する社会で』で提起したのは、「社会のマクドナルド化」であって、感動について言及したかは定かでない。

秘仏が十数年に一度開帳されるように、ルーブルも数年に一度だけ公開されるというのなら、ルーブルに来て感動するというのならまだわかる。実際は、ルーブルはおおよそ年がら年中空いているのだろう。絶海の孤島や想像を絶する僻地にあるわけでもなく、パリの発達した地下鉄網で簡単に訪れることができる。あとは、入場料を払ってオンラインでチケットを事前に予約していくだけだ。ちなみに、ヨーロッパ在住の学生は無料で入ることができる。ラッキー。

ヨーロッパでは、いやヨーロッパと括っていいのかはわからないが、なぜだかオーディオガイドが人気だ。ルーブルでは任天堂の3DSがオーディオガイドの機器として採用されている。ヘッドホンをつけた人たちが、3DSのタッチパネルを連打して、目の前の絵の解説を始めるように操作している。

そんな人たちを取り囲むようにして遠巻きに絵を眺める人たちは、精一杯に腕をのばして、Googleで検索すれば見れる名画と呼ばれる絵たちを、デフォルトの検索エンジンがGoogleの携帯電話で一生懸命に写真に収めている。

もし、この場にいる全員がDSでポケモン交換を始めて、携帯でポケモンGOの大戦を始めだしたら、どんなに素晴らしいだろうかと考えると任天堂の経営陣の気分を味わえることに気づいた。が、ゲーム産業に就職したい気持ちもなければ、ゲーム産業で戦っていけるだけの能力もなかった。

結局、私たちはなにかを生産することはできずに、ただお金を払って何かを得た気分になる消費者でしかなかった。ファストフードのように誰でも列に並んでお金を払えば買える品質が保証された規格品の感動。ファストフードのように流れ作業で感動を味わうことを要求される時間。写真を撮ってお持ち帰りで味わおうが、写真を撮っている連中と同じになりたくて美術館で肉眼で味わおうが、同じ穴の狢、いや同じフランチャイズのバーガーに過ぎない。

どうしてわざわざ花の都・パリ、そして世界一の美術館であるルーブルにまで行ってそんなネガティブなことしか考えられないのか。そう問われれば、ひとりで自転車で毎日5時間も6時間もただただ漕ぎ続けてれば、自分の心と対話するか、自分が指導者だったらどういうサイドチェンジのトレーニングをするかぐらいしか考えることがない。

ブリュッセルで王宮を見ようと当日訪れると、チケットを予約していなかったので中に入ることすらできなかった。超有名観光地は先に予約してから行かないと当日いきなり入れないのだ。その反省のもとパリに到着する前に、とりあえずルーブルとヴェルサイユのチケットをオンラインで取った。

当日、西武ライオンズの水色のシャツを着て、ルーブルでうだるような暑さの中入場待ちの列に並んでいると、東アジア系のカップルが怪訝そうな顔をしていた。彼らは恐らく、ブリュッセルの王宮の前でため息をついた私のように、チケットを予約しないで来たのだろう。

それを見た私が感じたもの。それはドイツ語が世界に誇るシャーデンフロイデ、他人の不幸を喜ばしいと思う感情、などではなく、むしろ有り余るほど人間らしさが微笑ましかった。

私は王宮に入れなかったからといって特段悲しむこともなく、向かいの公園のキッチンカーで、ベルギーっぽいからという極めてマクドナルド化された理由で、チョコレートワッフルを買いベンチで食べた。でも、ルーブルに入れないことが、わかりかけたがわかりたくないそのカップルの彼氏は、ルーブルのホームページのチケット販売のページの、今は売り切れてリンクに飛ばなくなっている、チケット販売カレンダーのその日の灰色になった日付の数字を悔しげな顔で連打していた。

ガールフレンドと一緒にルーブルのど真ん中まで来て、美術館には入れないなんてことが許される世界って何だろうと思う。彼女にいいところを見せたかったのに、ダサいとか情けないとかを寝過ごして通過してしまった間抜けさを見せてしまっていた。

ルネサンスにおいては、文化における人間性の尊重を回復することを目指したと聞くが、私にとってはどんな絵画よりも、いくら連打しても色が変わらないとわかっている画面を連打することの方が人間らしい。

きっとルーブルに入れなくとも、あのガールフレンドは彼の傍に居てくれるのだろう。ルーブルに入れることはできても記念写真を他人に頼まないと撮ることができない私と、ルーブルに入れなくとも一緒にパリを歩くことができる人とどちらが人間的だろうか。

私にとって今までパリは、エヴァンゲリオンがもっとでかいエヴァンゲリオンを倒すために、エッフェル塔をねじ込んでしまうだけの都市だった。パリ中を歩き回ったあとの私にとっては、やけに物価の高い観光客だらけの都市だった。エッフェル塔はまだあったし、凱旋門は想像よりも遥かに大きかったけど、とっても大きな鳥居に感じられた。

いつも神社や教会に行く度に、何を祈るべきか、何を望むべきか、自分の願いごとがわからなくて苦しむ。願うようなこともないぐらい充足しているとも取れて、いいことなのかもしれない。でも、私は何か祈るべきことが、望むべきこと、小さくてもいいから願いことが欲しい。パリにあるどの観光地よりも閑散とした町はずれの教会の方が、心が落ち着いてずっと好きな時間だった。あとは、祈るべきことがあればなと思う。

観光地にせよ、宗教施設にせよ、歴史的出来事の現場にせよ、どんな場所に行ったかではなく、そこで何を考えたか、そして何を祈ったか、何を望み、何を願うかが重要なのだろう。旅を振り返り思うことは、どこであろうとも旅に同行してくれるともだち、そしてわずかばかりのチケットを事前に予約していく計画性を与えたまえと思う。

もしかしたら、宇多田ヒカルもチケットを買い忘れたから、ルーブルはなんてことなかったて、強がってみたのかもしれないから。


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