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【閲覧注意!かなり怖い話】ネガティブを極めた人間の生き様

YouTubeを見ていたら「ネガティブな人に遭遇したら、その人が幸福になれますようにと、祈るといい」と言っている動画があった。

これだけは言いたい。
「ネガティブすぎる人は、(世間一般的な)幸福には決してなれない!」

私は、あちこちで働いたり、開運のために日本中旅行して回ったり、習い事してたり、スポーツもやってるので、いろんな人に会う。

最近は、ポジティブの塊みたいな人に会えることが増えて、感動する機会が増えたんだけど、やはりたまにはネガティブな人にも遭遇する。ちょっと暗いなくらいなら、全然気にならないんだけど、年に2、3回、ド級のネガティブ人間に遭遇することがある。

ここでいうネガティブ人間とは、重い過去を背負っているとか、虐待の記憶から立ち直れないとか、パリピが怖い陰キャとか、コミュ障っぽいとか、そういう人のことではない。

ド級のネガティブ人間って、独特なのだ。

おそらく「普通の人」には、彼らの思考回路は全く理解できない。

もう普通の域ではないので、私はそのような人を"ネガティブ超人"と呼ぶことにしている。

私は心理学、精神医学、人体、哲学、文学、その他様々なジャンルの本を1300冊ほど読んでるので、それらの知識と、これまでの経験を踏まえて、ネガティブ超人の考察をしてみた。


【ネガティブ超人の特徴】


①褒められると「バカにしやがって!」と激怒する

ネガティブ超人は、おそらく幼少期からずっと悲惨な環境に居たのだろう。褒められると「バカにされた!」と激昂するのである。
単に「慣れないことをされて、不安が増長」しているのかもしれないし、「騙そうとしている」と警戒しているのかもしれない。最悪「褒められたら嬉しい、という経験をしたことがないので、未知は恐怖でしかない」のかもしれない。

②幸福を拒絶する

ネガティブ超人の世界観には「幸福」というものがないし、おそらく触れたことがないのだろう。
何か「良さそうなもの」を感じた瞬間、「深い劣等感」を同時に感じてしまうため、「幸福」は自分の心を不安定にする「脅威」に感じられてしまう。
または、脳内にすら「幸福」概念が存在しない場合、未知のものは全て「恐怖」と認識される。驚くかもしれないけど、このレベルの人間は本当に存在する。

「金持ちが大金を自慢する」ような非現実的な派手な幸せより、ネガティブ超人には「ささやかな幸せ」のような一般人が時折感じるような身近なものが、最大脅威となる。
なぜなら「皆にあって、私に無いもの」は「私の中の見たくない"劣等感"」そのものだからである。

"欠け"は地獄の穴のように開いており、決して覗いてはいけない深淵なのだ。深層心理学では"心の防衛規制が働く"と表現している。プロセス志向心理学だったか?このような心的現象を、エッジ(淵)といって、認識しないように心の周縁に追いやって見えないようにしている、と表現していたような。


ネガティブ超人が唯一落ち着いて居られるのは、他人を見下したり、こき下ろしたりして、独りよがりな優越感を感じられた時だけである。

他人から見たら、幸福とはかけ離れた「こき下ろし」をしている時だけが、ネガティブ超人が唯一落ち着いていられる「心が穏やか」な時なので、そもそも一般的な「幸せ」と「幸せの状態」の定義が違う。

これは、コジコジという漫画に出てくる"ナゾ怪人のスージー"が、キラキラした美しい、素敵なことに対して「おえ〜!」ってなっちゃうのと、近しい反応なのだろう。

長い年月をかけて、性格と体質が、そのように形成された結果、「幸せ」「キラキラ」「美しい」「素敵」といったポジティブなものは「気持ちわりぃ」ものなのだと、心身が拒絶するのである。

この拒絶は、学習心理学の「パブロフの犬」実験のような、"学習-反応"で強固に形成された『条件反射』の一種である。

犬にベルを鳴らしてえさを与えると、ベルを鳴らしただけで、犬がだ液を分泌するようになる。

サイエンスポータル

https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20140929_01/

認知行動療法のマインドフルネスに熟達して、訓練しないと、解けない呪縛かもしれない。


③ネガティブなコミュニティーを作る

幸せそうな人がネガティブ超人に近づくと、ネガティブ超人は、野生の動物のように警戒する。反対に、常日頃からネガティブ思考で文句ばかり言う人が話しかけてくると、安心して、ネガティブコミュニケーションを展開する。
なのでネガティブ超人の周りには、ぐちぐち悪口や文句を言う人間の輪が出来る。

職場でこんなコミュニティが完成すると、ロクなことが起きない。
たとえば接客業だと、客からクレームが入る率が上がる。何せ、店員らがネガティブ集団なので、負の側面が際立ってくるからだ。店の雰囲気全体も悪くなる。

なお、職場内で内部統制がしっかりしてくると、このような負のコミニティは「癌」と認識されて、上から圧力がかかり、解体される。(例:メンバーの左遷や解雇など。リクルートのような大手では、そのように対策しているそうだ)


④蝿は汚いものが好き

ネガティブ超人は、皆が嫌な気分になる「嫌がらせ」「意地悪」「悪口」など、ネガティブなことをやると「水を得た魚」みたいに、変な元気が湧いてきて、生き生きとしてくる。
自ら率先して「不幸づくり」をして「不幸な世界」が拡大すると、仲間が増えた気がして寂しさが減る。自分が纏っているのと同じネガティブな空気が蔓延して、生きやすくなったと思えて、安心感に包まれる。

「幸せなんて嘘さ、幸せなんてないさ」と、幸せが減るのが見えた時、劣等感にまみれた「自分の生きてきた世界のほうが、実は真なのだ」と、自信が持てるようになる。劣等意識が消えたと錯覚できる、麻薬のような瞬間の到来である。

そして同類のネガティブな仲間と、数々の悪行を
働いて、日々生き生きと、屈折して生きるのである。

しかし、最近はハラスメント行為は弾劾されるし、SNSにあがれば第三者に評価されたりするので倫理上、問題行為をすることは、以前に増してリスクが高くなっている。

ネガティブ行動の歯止めが効かなくなった末路といえば、全国ニュースになった『銀座天一 漂白剤水提供事件』が新しい。

ムカつく客に、間違えたフリをして漂白剤入りの水を提供した店員。それを飲んで嘔吐した客。無視する店員達。彼ら、やり過ぎて一線を超えてしまった加害者は、警察沙汰になり、全国ニュースになり、今はどうしているのやら。こうなると、泣いて後悔しても遅い。

暴走したネガティブの行き着く先は、破滅なのである。


⑤ネガティブ超人は、身近な人を破壊する

ネガティブ超人は、親、兄弟姉妹、夫、妻、子供といった身近な人々との関係性を最も破壊する。

一番不幸なのは、ネガティブ超人の親族である。不幸が日課になってしまうと、もう不幸な状態か幸福なのか、わからなくなってしまう。識別できなくなるのだ。
特に夫婦間で、陥りやすいケースだ。

たまにレジャーをしても、ネガティブなことにばかり目が向いてつまらないので、節約というか、ケチしてるほうが楽しくなる。なので、楽しい家族の思い出は残らない。
※決して節約自体を否定しているわけではない

私の実家の近所に、人生50年以上を、近所の人の悪口に費やした主婦がいた。子供が2人いるが、もう何年も、お正月すら帰って来ない。主婦が大怪我をした時ですら、娘は1日しか来なかった。普通のサラリーマン家庭だが、50年以上、節約に必死で、旅行をしたという話は聞かない。

友人が出来ても、陰で悪口を言い合うのが本分という人々の集まりなので「大嫌いだけど、いつも一緒にいる」という、つまらない関係を持続して、そこからネガティブを再生産し続ける。そして悪口陰口を言い合い、変な元気になり、毎日生き生きと、ムカムカ、イライラして生きている。

⑥ネガティブは顔に刻まれる


ネガティブは顔に刻まれてくる。特に、目と口。

⑦ネガティブは健康を蝕む


健康という幸福すら嫌なので、目に見えなくても、何かしら病気を抱えていたりする。また他人の粗探しに夢中なため、自身の健康管理を疎かにしてしまう。

なぜか食の充実より、節約に重きをおく。美味しいものがわからない人も多い。食えりゃ何でもいい、腹が膨れればいいという思考回路が多い。その割にいつもお金がなくて貧しい生活をしており、更に劣等感を募らせていることが多い。栄養不足で、常にイライラしている可能性も高い。

「美味しいものを食べて幸せ」感覚が欠落しており、食へのこだわりが見られないというのは、エドワード・ゴーリーの『おぞましい二人』の、インパクトのある食事シーンに通じる思考回路なのかもしれない。


⑧陽のない陰には、陰しか作れない


太極図

陰陽のバランスを崩すほど、陰しかない存在になると、もう陰しか生み出せなくなる。

一切の光のないところには闇しか出来ず、均衡を崩した陰は、自然の摂理に従い、滅ぶ以外なくなる。
ネガティブ超人の晩年は、ことごとく破滅に陥ると、数々の運命学や、(仏教などの)宗教書で示唆されている。


⑨ネガティブを希求し続けるのは、何の仕業か?

一般的な心理学、精神医学では

依存症・アディクション(嗜癖)は、「身体的・精神的・社会的に、自分の不利益や不都合となっているにもかかわらず、それをやめられずに反復し続けている状態」

大分県ホームページより

※ネガティブ超人は、不幸依存症にあたる

と考えられる。

トランスパーソナル心理学のようなスピリチュアル寄りの見方をすると、"ペインボディ"という概念が想起される。

ペインボディとは、エックハルト・トールが提唱する概念で、体と心の痛みの集合体である。強くなりすぎると、自律的に動く、意思を持ったエネルギー体になることもある。(ユング心理学のコンプレックスも、強くなると自律性を持つ。シャドウ"影"も、非常に近い心の働きだ)

詳しくは、有名な下記の本を参照のこと。

目次

私たちはいますぐ進化しなければならない
エゴという間違った自己のメカニズム
エゴを乗り越えるために理解すべきこと
エゴはさまざまな顔でいつのまにか私たちのそばにいる
ペインボディ――私たちがひきずる過去の古い痛み
「いまに在る」という意識が私たちを解放する
ほんとうの自分を見つける
内なる空間の発見
人生の目的は「何をするか」ではなく「何者であるか」
新しい地

ニューアースの目次

https://www.sunmark.co.jp/detail.php?csid=9872-3

ネガティブ超人は、もはやペインボディに意志と身体を乗っ取られてしまった人なのかもしれない。


以上が、私の『ネガティブ超人の考察』である。


ネガティブ超人は重症になると、身近なコミュニティーでは飽き足らず、街で見知らぬ人にまで攻撃をするようになる。Yahoo知恵袋やXなどに投稿されているし、私が攻撃されたこともあるし、隣にいた人が攻撃されているのも何度か目撃したこともある。

そこまでいくと、精神病と紙一重である。

家族がいるから、ギリギリ生活できていると見られるネガティブ超人がいるが、連れの人が恥ずかしそうにしたり、必死で制止しているのを見ると、やはり身近な人が一番大変な思いをしていそうだ。


こう言うことを書くと「私、ネガティブ超人かもしれない」と心配になる人が、たまにいる。

心配ご無用!
そのような心配をする心がある人は、ネガティブ超人ではない。

ネガティブ超人は、決して自身を顧みることが出来ないので、自分がネガティブだとは思ってもいないし、なんなら、自分は周囲の奴らより完璧で、幸せ(?)な人間だと思い込んでいる。

思い込まないとやってられないどころの話ではなく「自分はネガティブかも」と気がついた時点で、精神的に崩壊してしまうので、「疑念は拒絶する」の一択しかないのである。

ネガティブだと認めてしまうと、
やられたこと、
やってきたこと、
言動、思想、人間関係、
自分の生き方、人生そのもの、
今日まで信じて貫いてきた全てのものを、
自身で否定せざるを得ない。

逃げられない。

それら全てを、耐えることが出来ない、から。



というわけで、冒頭のことを簡潔に言うと、
「(世間でいう)幸福」を認めてしまうと「自身を作り上げてきた"全て(のネガティブ)"が崩壊してしまう」ため、彼ら彼女らは、決して「(世間でいう)幸福」にはなれないのである。


もしかして、もしかすると、
「ネガティブな人に遭遇したら、その人が幸福になれるように祈る」ことは、ネガティブ超人を"粉砕"してしまう祈りなのかもしれない!?

実は、この祈り、暴力なのかも!

不運な人を助けるための活動をしています。フィールドワークで現地を訪ね、取材して記事にします。クオリティの高い記事を提供出来るように心がけています。