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どうして人は嘘をつくのか

嘘はいけないことなのか?

子供が嘘をついた・・・

子供が嘘をついたら、親はそれなりのショックを受けるだろう。どうして嘘をつくのかと問い詰めるだろうし、どうして嘘をつくのがいけないことなのか、言葉を尽くしても説明したくなる。親となれば誰もが通る道だと思うし、永遠の課題として、日本の教育現場で語り継がれているものな気がする。
そもそも嘘はなぜいけないのか。オオカミ少年の物語に代表される、正直さを説く物語。日本では教科書に載っているごんぎつね。正直に生きなかった、オオカミ少年は信用を失い、誰も耳を傾けてくれなくなる。ゴンはいたずら心で兵十を苦しめてしまったことを後悔し、挽回しようとするが最後には死んでしまう。どちらも嘘が招いた結果な訳で、嘘さえつかなければこんなことにはならなかったという結末なのではと思う。
嘘は自分も他人も傷つける凶器になる。だからダメだ。ということだろうか。
とにかく、大人は純粋無垢な子供に嘘をついてほしくない。常に正直でまっとうであってほしいと願うのである。だからこそ、家庭でも教育現場でも嘘を承認しない強い流れがあるのだと思う。
しかし、その強い思いが逆に子供に嘘をつかせてしまう環境にしてしまうことも往々にしてある。優秀でなければ、親の思ういい子でなければと思う心が嘘を呼び、心にひずみを生むことはあると思う。それでは私たち大人は、どうすればよいのだろうか。

嘘の根源

そもそもオオカミ少年とごんぎつねの共通点はいたずら心である。ゴンは嘘をついていない。でも、教科書に載っている理由としては「正直さ」を説くための教材なのではないかと推測される。
ではなぜ、いたずらをしたのだろうか?
答えはとてもシンプル
どちらも純粋な承認欲求だと思う。

人は誰もが承認されたい。自分がどんなに素晴らしい人間で価値があるかを証明したい。
ただ、オオカミ少年もゴンも自分が素晴らしいことを証明したいわけではない
「我ここにあり」
ただそれだけのシンプルな欲求が嘘をつかせていることになる。
自分がここにいて、ただ注目されたい。誰かに意識してほしい。その心である。
オオカミ少年は注目されることに喜び、何度も繰り返した結果、本当にオオカミが来た時に誰にも相手にされなかった。
ゴンは自分のいたずらで、兵十の注目を集めようとした結果、兵十の母親が最後に食べたかったウナギを食べられなったということを知り、自分自身も傷つく。
承認欲求を向けたことによって、悪い結果を招いてしまったということになる。
それでは、承認欲求がいけないのだろうか?

嘘の権化、「承認欲求」

承認欲求とは・・・

承認欲求というと、心理学者アブラハム・マズローが提唱した「欲求5段階説」をもとによく語られます。欲求5段階説とは、人間の基本的欲求を5段階に分類したものです。


  1. 生理的欲求:食事や睡眠など、生きるために必要となる本能的な欲求

  2. 安全欲求:他者に脅かされることなく、安全に暮らしたいという欲求

  3. 所属と愛の欲求(社会的欲求):集団に属したい、他者からの愛情を受けたいという欲求

  4. 承認欲求:他者から認められたい、尊敬されたいという欲求

  5. 自己実現欲求:自分の力を最大限引き出して目標を達成したいという欲求

欲求は1番を満たすことから始まり、埋まった順に次の欲求を求めるようになるそうで、承認欲求は4番目に満たす欲求。

つまり、承認欲求は結構高度で人間的なものだとも言える。安全に暮らし、愛されている人が求めるものだとしたら、承認欲求を満たす嘘をつくのはとてもまっとうな気さえしてくる。
とはいえ、嘘はいけないのだ。嘘は卑怯な手法で承認を取ろうとしていると感じてしまう。
承認欲求を満たしたければ、努力し、周りに認めさせれば良いのだから。

では、オオカミ少年はゴンは、どのようにすれば正しき承認を得られたのだろうか。
おそらく、オオカミ少年は真面目に羊飼いの仕事をしていたと思う。もともとの大ウソつきでサボり癖があるとも書いていない。ただ、ある日「オオカミが来たぞー!」といったと。
ゴンは、いたずら者の狐だと書かれているものもあるみたいだけど、兵十の行動心理を読み、後悔すらしているので、根っからの悪というわけでもなさそうである。
そりゃ、当たり前だとも思う。
二人に共通するのは「純粋な承認欲求」なのだから。人を傷つける気もなければ、自分が傷つく結果すら予想もしていない。
二人ともそのままでいれば、正直で勤勉な羊飼いと賢くて人の心が分かる狐であり、承認されてもいい立場だ。それでも、「承認」が足りなかったのだろうか。欲求というくらいなので、人は承認を求めてやまないのだろうか。

じつは嘘だらけの世界

正直を教える教育、子供に正直さを求める親。そんな大人が形成するこの世の中は正直者だらけなのだろうか?
あなたは最近嘘をつきましたか?と聞かれて、どれくらいの大人が「嘘をついていません」と言えるのだろうか。
現代の世の中は嘘だらけだ。
上司に少々無理な指示を受けて、できるか?と聞かれれば
「できます」と嘘をつくし
ちょっと体調の悪い時、機嫌の悪い時、周りの人に大丈夫?と聞かれれば
「大丈夫です」と嘘をつく
同世代で盛り上がっている話によく分からないけど
「わかるー」と嘘をつく
本当はお風呂に入りたくないし、朝起きたくもない。だけど、それでは社会的に不適合なので、ちゃんとお風呂に入るし、朝起きて仕事にも行く
自分の本心に嘘をついて

これは厳密にいうと嘘ではない。嘘にならないように後から回収するし、嘘にならないように大丈夫に振舞うし、嘘つきにならないために後から調べたりする。
まっとうな大人にみられるために、下に見られないために、無能と思われないために、私たちは毎日大量に嘘をつき、自分をごまかしている。
そうやって、ごまかし取り繕う生活に疲れたとき、心の病にかかったりするのだ。

つまり
自分に嘘をつき続けることが自分にとって最大の悪になるのだ。

私たち大人はこのことを経験値で知っている。「嘘は身を亡ぼす」の本当の怖さを。他人から信用を失うことじゃない、人から馬鹿にされることではない。もっと怖いこと。
自分を失ってしまうこと。こんな思いを子供にしてほしくない。これがきっと、真相なのでは?と私は考えてしまう。嘘は嘘を呼ぶ。嘘で塗り固めた先には自分すら傷つけ、本心を封印する魔の世界。嘘はそんな恐ろしいことの入り口なのだ。

嘘なしでは成り立たない世の中

承認欲求にしろ、体裁を整えるにしろ、ちゃんと社会生活を送るにしろ、ある程度の嘘が必要で、コミュニケーションにおいて、嘘のない話をすることはないと言っても過言ではない。優しい嘘もあるし、人を欺く嘘もある。人を守る嘘もあるし、人を傷つける嘘もある。それは表裏で真実もまた同じである。ただの真実もあれば、人を傷つける真実もある。都合の悪い真実もあるわけだ。すべて真実で彩ろうとしても、それはそれで子供の教育に悪い、大人に都合の悪いことだってたくさんあるわけだ。

ただ、一つ言えるのは
承認されるための嘘を子供がついたとき。その裏側に気付ける大人にならなければいけないと思う。承認されたい心を理解し、叱らず、ただ、存在自体を認めることができれば、できた大人ということになる。
オオカミ少年の勤勉さを認め、彼の働きに感謝し、賞賛する人がいれば、彼はオオカミ少年になることはなかったかもしれない。
ゴンが狐の範疇を越え、賢く、優秀な生き物であると、村の人たちが認めていれば、ゴンがウナギを逃がしてしまうような愚行には出なかったかもしれない。

期待が嘘を呼ぶ

子育てにおいて、常に付きまとうのが期待だ。自分の悪いところが遺伝するとがっかりするし、自分より優秀なところがあると、なぜか過剰に期待もする。子供が自分の夢を叶える何かと勘違いして、子供より必死になってしまう人もいる。そして、その期待は外にも向く。教育関係者、習い事の先生、子供の友人に至るまで、自分の子供に関係する人全員に、自分の子供に良い影響を与え、導いてくれることを期待してしまう。
そして、生まれたての清い尊い存在であることを押し付けられてしまう子供。その期待から外れたとき、理不尽な怒りに襲われてしまうのは、過剰な心があるからかもしれない。
親の期待が子供嘘つきにしてしまう環境も作りかねない。嘘で塗り固めたいい子を演じるのはきっとしんどい。自分を壊すことにもなる。

嘘は成長のあかし

知恵の果実を食べてしまったアダムとイブ。この知恵とは善と悪のことを指すと言われているが、まさに、嘘も同じことがいえる。
善と悪を天秤にかけて、嘘をつくかどうか判断しているのだから。
子供たちが、知恵をつけ、嘘をつくようになるのは、人間らしく進む第一歩を踏み出したということになるのではないだろうか。
自分を認めてほしいにしろ、都合の悪いことをごまかすにしろ、嘘は生きていくうえで必要なコミュニケーションスキルであることは確かだ。
あとは、自分に嘘をつかないということをいかに教えていくかが大切なことだと思う。認めてほしいなら思いっきり褒めて抱きしめてやるし、できないことを責めることも程々に。自分の能力値を知ることの大切さを説くし、知らないことを知らないということは恥ずかしいことではない。それよりも学ぶ体制が大切と教えてやればいい。自分で自分を承認することができることも教えてあげたい。
世の中は理不尽だ。嘘をつかねばならぬ場面があまりにも多い。だからこそ、嘘に敏感になってしまうけれど、
嘘イコール悪
ではないのだ。

私たちは常に未完。完璧な人間などいない。だからこそ、補い合い、支えあい、人間関係の中で色々なことを成し遂げていく。嘘は、いけない時もあるけれど、とても大切な、私たちの心を守るものであることをもっと認識して、自分の心を守ってほしいと思う。



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