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郷愁の新宿そして歌舞伎町

歌舞伎町を歩く

先日用事ができ、どうしても新宿に行かなければならくなった。
新宿は私が社会人としてスタートを切った街であり黒歴史の始まりの街なので、普段はなるたけ近寄らないようにしている。
用事が終わり、せっかくなので少し散歩をしてみようという気になり、新宿通りから靖国通りへの緩やかな坂を下った。
なんと「桂花ラーメン」がまだある。あるどころか店舗数が拡大しているらしい。
私は当時この店の太肉麺(ターローメン)が大好きで、業界で唯一の友と呼べるウリセンホモバーのマネージャーM君とよく通った店だ。
風邪気味で熱っぽい時など必ず食べにいった。不思議なことに元気になるのだ。
なぜか嬉しくなり、ウキウキした気持ちで靖国通りを渡り歌舞伎町へと入った。

桂花ラーメン
太肉麵(ターローメン)


街は変わってしまった。少なくとも表面的にはである。
爽やかで健全な雰囲気を醸し出そうとしている。若者が身の危険を感ずることもなく、楽し気にたむろしている。
「いくら薄化粧してつくろったところで、テメェーの本性はお見通しだぜ」
この街の本質は変わってはいまいと、大久保公園付近にたたずむ立ちんぼを眺めながら肌で感じた
歌舞伎町の奥にある、稲荷鬼王神社まで足を延ばす。
ビルの間に突如として現れる、緑のあふれる境内、趣のあるいい神社である。
厄を除き福を授ける鬼の王様の名を持つ全国で唯一つのお宮である。
ご祭神は
宇賀能御魂命(うがのみたまのみこと)
鬼王権現(きおうごんげん)
月夜見命(つきよみのみこと) 
大物生命(おおものぬしのみこと) 
天手力男命(あめのたじからおのみこと)]
なんという力強い神々だろう。

昼と夜では全然違う顔。知っている輩と出くわすこともなく、ここいらで歌舞伎町を後にする。

稲荷鬼王神社


 

歌舞伎町デビュー


私は東京都新宿区で生まれ、幼稚園から大学まで新宿区内にある学校を出た。
そして稼業人、いや社会人として24歳で歌舞伎町デビューを飾ったのだ。
ぼったくりバーの用心棒としてである。
当時はキャッチバーと呼ばれていたようなおぼえがある。
業界人としては遅めのデビューだが、大学を卒業してからも空手の指導員を目指し、研修生として修行に邁進していたからである。
 飛び抜けた才能がなく、中途半端に強かった者の末路は予想どおりドロップアウト。
このレベルになると誰でも死ぬほど稽古はしている。
練習不足で・・・などあり得ないことだ。
その上でもって生まれた才能というものが強く影響してくる。
身長、体重、リーチの長さという身体的な条件から、パワー、スピード、攻守のタイミングなど。
すべて揃っているやつはそんなにいないが、いることはいる。
プロとしてやっていけるのはそんなヤツらだけなのだ。
だから辞めると決めた時も、情けない気持ちはなかった。自分としてはやるだけやったのだ、という気持ちだった。
 しかし、もうその時点では、いかに偏差値の高い大学でも企業に就職などは望むべくもなく、ヤケクソになり歌舞伎町で暴れていたところを、なんとスカウトされたのだ。
大卒として、鳴り物入りのデビューだった。
グレるのが遅かった・・・
 

初めての仕事


その店は私の兄貴分の直営店であった。当時はまだ防対法などなく、正業を持っている人も大勢いた。
ぼったくりバーが正業かといわれると首を傾げたくもなるが、ビール一杯58000円ぐらいのかなり良心的な(?)店であった。年配ではあるが、女の子(?)はちゃんと隣に座る。
もちろん外でのキャッチ担当は若い可愛いコであることは言うまでもない。
ほとんどの客は強面で粗野が服を着ているような店長に請求されれば、話が違うと抗ったりもするが、しぶしぶながら結局は支払う。
だから私の出番は毎日あるわけではない。
たまに支払いを拒否し暴れたり通報しようとする不心得者がいるのだ。
暴れるのは押さえなきゃならないし、通報は死んでもやめさせなくちゃならない。
暴れて挑んでくるのはたいがい格闘技経験者、ボクサー(プロではない)、元ラグビー選手、タッキー&つばさの青春アミーゴ、修二と彰のような、地元じゃ負け知らず、街の喧嘩自慢である。
そういう時に出動するのだ。

区役所通り

百日の行いを鍛え
千日の計画を練り
そして勝負は一瞬
宮本武蔵

この心構えで生きてきた私は、幸いにして不覚を取り兄貴の顔をつぶすこともなく、オヤジの面目を無くすこともなく何とか過酷な日々を潜り抜けていた。
しかし、この商売も、他店で追い詰められた大学生がビルの3階から飛び降り、死亡するいう事件があり、当局の取り締まりが厳しくなり、成り立たなくなった。
戦いの詳細は本稿の主旨ではないので、別で書こうと思う。かなり面白い。
当時はまだまだ東京は野蛮で物騒な時代であった。
 

跋扈する客引き


西新宿を歩く


青梅街道に出て中野方面に歩く。
熊野神社前を左折。今では記憶にとどめる人も少ないであろうが、 青梅街道から甲州街道に至るまでの区域、つまり現在の新宿中央公園を含む 副都心の全域は、淀橋と呼ばれる給水施設だった。その昔、ここには巨大な浄水場があったのである。

超高層ビル街の新宿中央公園に鎮坐する十二社熊野神社は新宿の総鎮守である。
居場所を失ってトー横あたりにたむろしている若いコ達にぜひ参拝をすすめたい。
今日も一日生き延びられたことを神に感謝する。
きっと道は開ける。
私も縁あって身内となった同じような境遇の若い者を連れてよく参拝に訪れた。
歴史があり文化財も多数あるいい神社である。
 ご祭神は
櫛御気野大神(くしみけぬのおおかみ)
伊邪奈美大神(いざなみのおおかみ)


十二社熊野神社

甲州街道の西参道交差点まで歩く。
かつての新宿ガスタンクの跡地に建つ パークハイアットホテル から甲州街道に抜ける道路は、旧淀橋浄水場の西端にあたる。高層マンションの建てこんだ街路を歩いても往時をしのぶよすがは何ひとつなかった。
幼いころ、友達たちと施設の柵をくぐり抜け、浄水場で遊んだものだ。
ありもせぬ過去の世界に迷いこんでしまったような気分だった。
しかし夢ではない。
都電も浄水場も、ガスタンクも映画館も、たむろした喫茶店も瓦屋根の木造家屋も、地名や子供のころ使っていたきれいな(?)東京弁さえも、みんな 高層ビルの谷間に消えてなくなってしまった。

1965年ごろの淀橋浄水場(東京都水道歴史観)画面中央が新宿駅
まだ少ない高層ビル群とガスタンク

新宿の摩天楼の下を歩きながら、切ない 望郷の念がこみ上げてきて涙ぐんでしまった。
いずれにせよ、まさしく高層ビルがひしめくこの副都心は、間違いなくかつては私のふるさとであったのだ。  
そしてそれらはことごとくビルの谷間 に消えてしまった。

ふと、中央公園の向こうに、かつて十二社温泉という施設がったことを思い出し た。摩天楼の下に温泉と言え ば、多くの読者は訝しむであろう。
 だがそこにはたしかに、れっきとした天然温泉が湧出しており、山の手の住民たちの憩いの場になっていたのだ。
風呂は閉鎖的な地下空間にあり、お湯は真っ黒だった。
薄暗い空間に真っ黒いお湯から顔だけ出して入浴しているオッサンたち。
まるで生首が浮いているようでたいそう不気味であった。
何度ギャッと飛び上がったことか。
 
しかし、 競い立つ 新宿副都心の高層ビル群直下のことである。そこに今もふつふつふつふつ と温泉の湧き出ている姿は、どうしても想像 ができなかった。
やはり・・・なかった。
2009年に廃棄したという。こんなになってしまった新宿で温泉を経営するというのはどう考えても無理があるよなぁ。

いかん、この先の角を曲がったらタイムスリップして異世界に迷い込みそうだ。
家に帰ろう。
 

 
 
 
 

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