毒親と呼ばれる覚悟はできているか

毒親という言葉が市民権を得て、
たいぶ久しくなってきた。

ところで「毒親」って何?

暴力ふるうとか恫喝するとか、
ネグレクトも。
これは毒親じゃないよ。犯罪者。

犯罪行為をしなくても、
毒親と呼ばれる人はいる。

要は、子供の人権を無視した行為を
してしまう親のことなのかな、と。
ざっくり。非常にざっくり、
解釈しているのだけれど。

これはもう定義自体が難しい。

同じ行為をしたところで、
それを愛情と感じる子供もいるだろうし、
傷つけられたと感じる子供もいるだろう。

親と、子。
どちらも人間なのだから当然だ。

だからと言って、
こんなことをしたら毒親かも!なんて
いちいちビビりながら育児なんてできない。

考えてみれば、親に対して、
あのときのあれは理不尽だったよなあ、
と思うことがまったくない人なんて
いないのじゃないだろうか。

親だって聖人君子じゃあるまいし、
いつだって正しいわけじゃない。
きっと「失敗した」と思いながら、
そのまま流して
過ごしてしまった日もあるだろう。

毒親って、程度の問題なの?

それはもう与える親と、受け取る子供の
考え方や感じ方の話じゃないの?

パーフェクトな育児なんて存在しないし、
「毒親」になることを恐れたら、
子供と生活することなんて無理じゃないのか。

✴︎

だれだって「毒親」になんてなりたくない。

でも育児に正解がないように、
毒親になることを徹底して回避することは
不可能なことだと思っている。

「いい親」であろうとすることが必ずしも
「いい親」の態度ではないと思う。

親なら子供を叱ることがあって当然、
感情的になることがあって当然、
理不尽を受け入れてもらうことも…
できれば避けたいけれど、
あるかも知れない。

でもそうなったときに、
いかに個人対個人として、
子供に信頼してもらえる親であるか、
というのが重要なのではないか。

✴︎

いつか息子に「毒親」と呼ばれても、
わたしがわたしの信じる育児を
徹底してきた以上は
仕方のないことだと思う。

こんなに愛しているのよ!
なんて言いたくない。
それが伝わらなかったのなら、
問題はわたしにある。
息子が責められる理由はない。

育児はいつも親から子への、
一方的な行為だ。

当然、受け入れらないこともある。

受け入れられなかっときに、
親としてとるべき態度は、
謝罪するとか、距離を置くとか、
子供の望む方法で解決するしかない。

かまわない。
毒親と呼ばれる覚悟はできている。

わたしにはわたしのやり方でしか
息子を育てることも、
愛することもできないのだから。

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