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あなたのようになりたい、のを

お守りを手に入れよう。昨日買った『枕草子』を読み始めよう。

田辺聖子さんの『むかし・あけぼの 小説枕草子』を読みおえてから、そこに描かれた清少納言という人が、私は大好きになってしまった。あくまで田辺さんがむすんだ像なのだが、私にはとてもしっくりきた。確かに、清少納言はあんな人だったのではないかと思う。
彼女の眼を借りて見た平安時代と人の世は、なつかしく恋しかった。
私も世の中をあんなふうに見てみたい。

『枕草子』の冒頭「春はあけぼの」の訳も、田辺さんのものが一番好きだ。

「春はあけぼの。次第に白んでゆく山ぎわ、少し明るくなり、紫がかった雲がほそくたなびいている美しさ」
「夏は夜。月はまして。
闇もなお。ーー蛍が飛びちがうさまの風情。
夏の夜の雨もまた、いい」
「秋は夕暮れ。
夕日花やかにさし、山ぎわに近く鳥の二つ三つ四つと飛びゆくさえ、しみじみとする。まして雁のつらなりが小さくみえるあわれさ。日が入ってのちは風の音にも虫の音も」
「冬は早朝。雪の降っている情趣のたとしえなき、そのよさ。霜が白くおいたりして。また、雪霜はなくても寒気のきびしい朝、火などをおこして炭火を持ってゆく、その風情も身に沁む」
『むかし・あけぼの 小説枕草子』(田辺聖子 角川文庫)

小説の中では、清少納言がこれを書いたのは、まだ中宮定子のもとで働きはじめるとは夢にも思わない二十代なかばの子育て中、三人の子どもたちが乳母に連れられて外出してしまい、何年ぶりかに、久しぶりに自分ひとりの時間をとりもどしたときだった。

私にあるのは久しぶりの、信じられないような静寂に、虚脱する、無気力な心である。
私は、ゆっくり頭を洗い、化粧をした。
よい香をたいて、ひとりで横になっていた。

ああ、こんな心ときめきは何年ぶりかしら……。子供をいとわしいというのではないけれど、子供がいると私は、自分を手の中からとり落とす。自分をとり戻すのは、子供のいない世界である。
私はふと起きて、筆をとる。心は華やいで抑えようもなく、想いはのびやかにひろがってゆく。私はそのへんの紙に書きつけた。

私もこうなりたい。
信じられないような静寂と、虚脱、心ときめきがほしい。この瞬間のこの人は、いつかの私だと思った。いつだろう。むかしかな、未来かな。

あら、六時半だよ。耐えられない。
大丈夫? 自分を見失わずに生きていける?
そんなに考えなくてもよいもの?

読み始めた記録を置いてみた。そろそろ身支度をしなければ。秋がすぐそばだから、夕日は花やかにさすだろうか。清少納言の眼を借りると、世の中は泣きそうにきれいで、捨てたものではない。
水をたっぷり含んで潤んだ世のなかで、今日も参上してくる。アネキ、また会いにくるね。なぜだか、今は説明できなくて悔しいのだけど、私はあなたのようになりたいんだ。毎朝読んで考えていたら、言葉が見つかるかな。



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