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幸田露伴・明治の東京で「七碗歌」

(幕臣の子・露伴先生は、維新の成り上がり者の高慢を苦々しく思って居られたのか、このような作品を書かれました。)

七碗歌

いつもながらの冬の東北風(ならい)烈しく、今年もやがて暮れようとすれば、さすがに都の民も長閑(のどか)でない顔付き、髭を剃る暇も惜しんで身なりを調える余裕も無く、貸し借りのヤッサモッサに年末の早口尖り声、人皆小難しい顔をして、あと残りは幾日と指折り数えながら心険しく日を送っている。午砲(ドン)が鳴って直ぐに太陽の沈む日のある事も無ければ、大晦日の来るのは前々から知れた事を、今になって狼狽(うろたえ)え散らすのは愚かな話だが、普段はそんな事も云いそうな偏屈学者までが、「貴方どうして下さるお積りなの」と細君に責め立てられては、帽子を後ろ前に被ったのも気づかずに、大小を忘れた佐野の源左衛門のような顔をして、心当たりを金策に出るのも可笑しい浮世の姿であるが、こんな時には他人の家の米を食う者の気安さ、奉公人と卑しめられて台所で膳に向かう日頃の状態(さま)は口惜しいけれど、腹の虫は外の風に吹かれない理屈で、奉公人の身は通い帳を突き付けられる苦しみも知らなければ、痩せ所帯を張る男などが妻子を抱えて年の関越えを悩むのよりも眉の間も伸び伸びと、どこかゆったりとした眼つき物云い、それも一ツは立ち寄る木蔭の頼もしさに由るのだろう。
五十ばかりの薄禿げ頭の、見るからに世の鹹(しお)を嘗めて来たらしい古風な男、井戸水を酌んでは夫々の寸法に切った佐倉炭に注ぎかけていたが、釣瓶(つるべ)を持つ手をしばらく休めて、同じ井戸の端に先ほどからノンビリと古障子の煤けたのを洗っていた、此の辺の小役人かなんぞの隠居と見える老人に向って、「大分押し詰まって参りましたが貴方もご気楽な御身分、私もマア大所の奉公人でマゴツキもせずに幸せに年をとりまする。何と申しても広い都で私共の邸(やしき)のような豊かな邸も有れば有るものかと、自分が使われている身分でこう申しては如何なものかと思いまするが、つくづく上も下も限りの無いのには呆れ果てまする。私が住み込みましてからもう五年になりまするが、いつの年の暮れでも師走らしかったことは御座りません。役を御勤め為されないとは申しながら年が暮れるやら晦日(みそか)が近づくやら、頓(とん)と世間とは関係無しで、邸の内は年中松の内のような状態(ようす)、何も彼も整然(きちん)と清潔(きれい)に片付いていて塵埃(ちり)一ツ無い座敷の美しさ、御承知の通り年齢(とし)は老(よ)っていても始終湯上りのように桜色をした顔の生き生きとした主人、それに又もう三十になりましょうが今だに紅や浅黄を身につけても可笑しくないほど美しく若い透き通るような妾、その二人が上品な洒落たことなどは申しても、不行儀などは夢にも仕ないで、自ずから身をつくろって立ち居振る舞いも麗しく、悠々として浮世のイザコザに係わらず気位高く、朝夕を楽しみ三昧に暮らして、どこに娑婆苦が有るかと云わないばかりに鷹揚に過ごす有り様は、我が主人ながら小憎らしいほど羨ましい境涯に御座りまする。」と少しは自慢の気味を含んで話せば、こちらも老人の世に磨(す)れて角の無くなった丸い言葉つき、「イヤもう御邸ほど結構なところは恐らく多くはござりますまい。ご主人様は何でもご出身地は好し、御履歴は御立派なもので、官途も中々高いところまで御踏みなされて、好い加減な頃合いに身を御引きなされて、それからはただお遊び為されてお暮しなさるとの事、承るところでは爵位や勲章も御持ち為されて居られるばかりで無く、大分御裕福に渡らせられると云うこと、誰も彼もそうありたいと思えばこそ寒中に汗をかいたり土用に冷(ひゃっ)こい思いをしたりして狂い廻るものの、それでも願うようには成りかねて年の暮れには目を白黒させるのに、器量の有ると無いとの違いであれば是非も無いとは云え、御邸などは何時の年も師走らしかったことも無いとは、実に人間(ひと)の階級(しな)も有れば有るものでございまする、私共なぞではヤット倅が五十円ばかり取れるようになりましたので、七八年前のシャケも切り身しか買えなかった頃に比べまして、今は拍子木に切って粕漬にするなどという奢りも致すことが出来きて幸せなことと思って居りまするが、何と申しましても御覧の通り障子さえ切り貼りばかりで三年も済ませて来て、今年になってヤット貼り替えまする有り様、この親骨子骨の煤け具合、汚れ具合をご覧くださいまし、ハハハ、しかもイタズラな孫が御座いまして叩き立てまするから敵いません、見苦しくてもこの骨の折れた処々(ところどころ)を老人(としより)の役目で素人細工で繕って居りまする、私共などはマア全ての調子合いがザッとこんなものでございまするに、先刻から拝見致しますれば、夫々の寸法にお切りになった炭にサッサッと井戸水をかけて御洗いなさるのは、大方火の熾(おこ)る時に跳(は)ねることが無いようにとの御用心から、炭粉を除き清められるものと合点致しましたが、同じ井戸の端でする事でもこうも違うものかとツクズク恐れ入りまする、しかしまた私等より下の者には一枚残る蒲団まで屑屋に売って仕舞って、寒夜の夢に川渡りするところを見て震えながら目覚めるような者も有ることなれば、好いも悪いも限りの無い世の中、それぞれの耳たぶで仕方ございません、私等はお互いに最早年寄りの身、若い者に憎まれないようにさえ仕て居れば、まさか雑煮の餅を食いはぐれる心配はない、これも先ず中位の福と云うもの、サア今少しのこと、日が短いから油断ならない、急いで洗って仕舞ういましょう」と、ユックリと云いながら一コマ一コマと洗って行くその手を更に休めないのは、余程働き癖がついているのであろう。
話しかけた男もまた三四杯の水を汲み上げて炭にかけてたが、「イヤ古障子と切り炭とを比べてのお話は面白い、真(ホン)に世はいろいろで御座りまする、何も炭がハネても大事は無いにきまっているに、こんな真っ黒なものを洗わせるというは、栄耀の餅の皮剝きと云う諺よりも又一層の贅沢、茶だの雅だのと云って澄ます主人には掴んでも手の汚れない炭が嬉しいかも知れないが、お陰で此方(こっち)は水いじりをさせられて、余り有り難くない思いをしまする、オオ、水いじりと云えば、その水いじりで思い出しましたが、私共の主人も随分思い切った物好きでございまする、炭と云えば此の通り何時も何時も洗わせまするし、水と云えば此処の井戸、彼処の川と方々の水を汲ませまするが、明後日は歳暮の会を催しまするとかで、明日は雨さえ降らなければ私も御供をして御自身で利根川の御熊野前の水を汲みに参ろうと申しまする、私も田舎出では御座るがかなり世の中のアッチコッチへと頭をぶつけて来た積りですが、今の主人に仕えましてからはスッカリあやまりました、何と云っても貴方、世界は狭いようで広いもので、まるで私等の知らない世界が有ったのを邸に来てから覚えました、いわば私等の知っていたのは平常(ただ)の世界で、主人などはつまり平常の世界を通り抜けて仕舞って、その上の世界で遊んで居るように見えまする、風月とか塩瀬とか青柳とかへ菓子を買いに遣らすのに不思議は立てませんが、小日向の黄金水を汲んで来いの、渋谷の八幡の井戸水を取って来いの、馬喰町の三日月井戸、葺出町の雁金の井戸、音羽の弦巻川、隅田に流れ込む綾瀬川などの水を汲めと云われたその初めは、変ったことだと思いましたが、しかし段々慣れて見れば隅田川の水は四十二匁、玉川上水神田上水の水は四十三匁、真間の手児奈の水は四十八匁、と云うような事も昔から分かっていれば、淀川の水は宇治の三の間の水より二十匁について六分軽いとか、有馬の鷹塚の清水より甘いけれども同じ一合の杓(ひしゃく)に就いて一匁六分重いとか云うことも分かっていることで何の不思議も無い、そう云う事の好きな人等の世界が有ることを知り月日を重ねる中に今は私まで門前の小僧の経で、何時とはなく高慢な講釈も覚える程になりましたが、如何に不自由の無い結構な身とは云え、あと幾日も無い年の暮れに、利根川の水を汲んで茶を点(た)てようとばかりに、自ら出掛けようとは物好き過ぎて、世間を知らない人達にはウソとしか思えない事でござりまする、東京は広いと申しましても、この節こんな主人も無く、家来も有るまいと思えば、チト私まで鼻が高いような気持も致しまするが、考えて見れば、また馬鹿げていて、この上の無い水よりも少々酸っぱくとも酒の方が私等には有難く、コタツにでも潜って居たい此の寒い頃、何里も行っての水汲みには恐れまする、」と訊かないことを長物語する下司根性、またも手を休めて話しかければ、「成程、いくら御裕福の御邸でもそれ程なのは多くは御座るまい、大通りの立派な店でも火の車が廻るという此の師走に、小うるさい世界を下眼に見て悠々と川の水を汲みに行かれるとは、真似をしたくとも真似の出来ない事、そういうご主人を持たれたのさえ、いわば名誉のことでございまする、それでは御主人は沖を越えた御茶人と見えまするが、御茶室なども定めし見事で、御客の折りの御飾付けなども眼の覚めるようなことで御座りましょう、」と是も少しは小さな茶筅(ささら)を持って凸凹の茶碗の中を搔き廻しそうな隠居、乗り気になって尋ねるのも可笑しい。
問われてイヨイヨしたり顔に、隠居の向うに廻って蹲踞(しゃが)みながら、「マアそう仰(おっしゃ)ればそんなもんです。苦しい事も無く得意気に日を送るのも奉公の余禄でござりまする、主人の茶好きは一ト通りではござりませんが、四畳半や三畳に籠って点茶(たてちゃ)をする方とは違いまするので、座敷の様子なども変って居りまする、マズ床の間には大抵唐人の書画の類、その下には紫檀などの坐の付いた霊璧石・錦山石・老山石なんどの中で一ツ、何れも異(おつ)な形の石、それから玉髄(ぎょく)や古銅、古陶の類、大きいのは宝定石や宜興窯や古青磁交趾(せいじこうち)なんどの花甕から、小さいのは紫水晶・翡翠玉・甘黄玉なんどの花缾まで、棚には何とやら印存とか印譜とかいう、一二帙で娼妓なら五六人も買えそうな高い書物、その他如意やら払子やら画巻やら、褒めて云えば稀有の骨董、悪く申せば大人のオモチャを、時々に程良く飾付け、明時代のものと云う卓、時大彬(じだいひん)の茶壺、風炉から烏府水槽(すみとりみずだめ)に至るまで、ヤレ売茶翁が持ったもの、無腸翁の造らせたものの、流方の、竹田のと一々履歴が付いた物ばかりを集めて居りまする、そういう調子でござりますれば、今洗って居りまする炭(これ)の方は、大方点茶好きの妾の用になるのでござりまする、似たもの夫婦と申しまするが、主人に妻は無し、その妾はまた利休が髷を結って八ツ口の明いた衣服(きもの)を着て出て来そうな澄ました女で、霜の降る寒い朝に暁の茶をするなどという性質(たち)でござりまする、すべてがこうなので時々見えるお客様も浮世離れのした高尚な話をなさる方ばかりで、ついに一度も利欲にわたる話の声を耳にした事もござりません」と云えば、「ナルホド、ナルホド」と聞いていた隠居は、「どこからどう見ても結構な御邸、日本は広くてもそういうのは幾軒もござりますまい、随分宜(よ)くお勤め為されて気を楽に年をお取りになるのが徳というもの、他(ひと)から云えば貴方の御身分さえ羨ましい位、ヤレヤレ障子も洗えました、新年になりましたらチト御手隙に御話にお出で下され」と云いながら、障子を持って会釈して帰っていった。

いよいよ年越しの間際にとなれば、下総通いの小蒸気船の中にも年暮れの姿現れて、平日(つね)よりは多い乗客(のりて)は何れも心忙(せわ)しげな顔ばかり、掛け金を取りに行く者も有ろう、取り損ねて無駄足に口惜しく帰るも有ろう、或いは苦しい余りに継母の従弟を尋ねるというのも有ろう、中に人と眼を合わすのを厭がるのは、一見すると近県旅行の洒落者と見せて、実は三十六計の奥の手を使う人で有ろう、外輪船の響きもうるさく、ヤット通れる狭い川筋を伝って、ようやく都会離れのした中川へ出る頃から、ねずみ色の雲は口がほどけて、雪がチラチラと降り出せば、胸に余裕の無い奴がマズ天気にまで食って掛かる慳貪声、「エエ、人泣かせなものが舞い下がって来た、これの為に困る者が幾人あるか知れない、お天道様も見計らいが無い、年末(くれ)の雪なぞは悪い洒落だ」と罵る。その後ろから笑いかけて、「ホントにコチラの身の上から云えばその通りに違いないが、懐中(ふところ)さえ暖かなら此の雪だって佳い酒の下物(さかな)と云うもので飲める景色、御覧なさい上流(うわて)の方の模糊(ぼっ)とした中を川舟が下って来る状態(さま)なぞは、絵にも写真にも無い好い図ではございませんか、ハハハ、どなた様も御勝手にお飲(あが)り下さい」と、若い男が元気よく自ら嘲れば、船中一同笑い出し、実(げ)にモットモと頷くが、懐中は皆寒いのか飲もうという人も無く、窓ガラスを透して見るばかり、やがてタメ息の無言に返る。
船堀に入ってからは両側の人家も疎らに、外囲いの松などがパラパラと見えるのも田舎びて面白く、折からの雪に粗末な杮葺(こけらぶき)の屋根も美しく、この蕭散の野趣は画けば画く価値はある。しかし人々は各自に相手を作って、米の値段や景気の良し悪しなどの話に無駄に心を動かし、船はまたゴトゴトと同じ機関の音を繰り返しただ一ト筋に少しも澱まず進めば、誰一人風情を褒める人も無く、終に今井に着く。この村は最早利根川の沿岸で、船は着いたが人家も少ない寂れた処なので、乗客は多いが上る人は少なく、農夫の妻らしい者が大きな括り枕のような合財袋(がっさいぶくろ)の膨らんだのを提げて、炒りそら豆に目鼻を付けたような十ばかりの女の子の手を引き引き上る、その後から二十一二の男が天秤棒を一ツ持ってノソノソと上る、続いて藍縞の古布子を着た四十男が何を懐中に入れているのか蝦蟇のような腹をして、掴み余る毛繻子の大蝙蝠傘を持ちながら上がれば、これでもう船を降りる人は終わりかと見る時、黒無地の薄羅紗の長めの道中振(みちゆき)、同じ頭巾、茶紬の小袖という凝った格好の、顔立ち若々しく血色の好い上品な六十ばかりの人、その後に付いて、物は佳いが中古の外套、秩父銘仙の綿入れ、羽織は見えないが大方は黒紬と思われる取り成し格好の、どう見ても家来らしい黒の帽子を被った五十位の男、見慣れない手奇麗な細工の大樽を持った三十男の、これはお抱え車夫と見えるのと、以上三人が悠々として上がって行けば、「あれは一体、マア何で此処まで来たのか」と乗り合い一同不思議がって見送った。
降り来る雪の中を平気な顔して袖を払うこともしないで歩みゆく三人、中でも笑顔の老主人は利根川の土手に差しかかって、大河は面前に開けて冬の水は遠く黒く、遮るものの無い大空に霏々紛々と翻る雪はただ一面に模糊と白み、見渡す限り物も無く、一望皓々と潔い景色を、アラ面白やの景色カナと云わないばかりに暫し佇んで眺めていたが、やがてその土手をしばらく行くと繋ぎ捨てられた小荷足り舟の、薄っすらと埃を被って、岸を洗う川波に静かに揺られながら、土手下に長閑に横たわっているのを見つけ出し、振り返ってソレと指させば、従う五十男は辺りを見回し、土手の背後の茅葺のの屋根だけは雪で白いがその他は燻りかえって真っ黒に見える家を目がけて、船の持ち主は此の家と合点して突(つ)と尋ねに入る。
老人は供と茅屋の人との応接がいささか手間取る中に、急ぐ気持ちも無く雪の中に立って、「銀河沙(いさご)みなぎる三千世界、梅嶺(ばいれい)花開く一万株」と声低く緩く朗詠していると、家の中から供がクルクルと巻いた清げな藁筵(わらむしろ)を抱えて出て来たその後から、此の辺りの者には似ない、顔色も薄紅に冴えて目鼻立ちも尋常な、一見するところ下品でない十七八の少年が、櫓を肩にして早緒を片手に出て来た。子供の眼にも貴賤は悟れるのか、老人の前を一礼して過ぎ、船の近くへ行って品々を雪上に投げたが、また小戻りして今度は舟束藁座布団などを持って来て、スルスルと土手を下りて小船に飛び乗り、手早く船の中の雪を払い、藁筵を受け取って胴の間に敷き延べて、座布団一ツをその上に敷いて、「サア御召しなさいまし」と身のこなしも賢い。老人が先ず乗り、供がこれに続き、先刻から手ごろな石を探していた車夫もようやく思うような石を得て乗り移れば、少年は忽ち纜(ともづな)を解いて船を上流へと漕ぎ出した。
陸では無かった風も水の上では吹いて、櫓を操る少年が引き纏った雪の簔の毛は戦(そよ)いで声あり。洋々として流れる川、淅々(せきせき)として落ちる雪、天地は冬寂びて鳥も影なく、万象は尽く凍り、ただ淋しいだけの趣きの、何とも云えないもの悲しく哀れなのを、却って面白いとすると見えて彼の老人は、欣然と笑みを含んで辺りを見廻して、雪で衣服が白くなるのも全く気付かないようである。漕ぐこと暫くで左岸の方に少し木立ちがこんもりとして、中に神祠の有るのが分るところに着けば、「サア此の辺で宜うござりますか、御熊野様はソコですが、」と櫓を推す手を緩めて少年が云うと、「よし、ここらに少しの間留めよ」と鷹揚に命じて、静かに振り返って二人の供に向い、「かねて云い付けた通りに」と言葉少なく云う。此処は川底が深くて舫(もや)い杭を立てるどころで無く、流れは穏やかだが力強く、延びては巻き、巻いては延びて、渦は絶えることなく水面に湧き返り湧き返りして流れ、龍蛇(りゅうだ)も潜むような、実に千里を揉まれ来た長流の水を汲むのは此の辺りと思われる、透き通るようでしかも玄(くろ)く、活動してしかも黙々とした水の有様に眺め入って、流石に心無い供の者も暫しは心を奪われていたが、持って来た準備の樽に遂に水汲みに取り掛かる。樽に三條の麻縄を付けて、その一條には重しを括り付け、他の一條の細縄には二ツの栓を取りつけ、残りの一條の太縄は樽を揚げる用とする。樽と重しとの間は八尺余り離れているので、重しを先ず地面に置いて、樽はまだ底から数尺の水中に在る。老人はジックリ様子を見て、重しの触れた為に舞い立った底の泥土も今は早や流れ去った頃を測り、「その細縄を引け」と静かに命じれば供は心得て急いで之を引くと、栓は二ツとも一時に脱けて、水は今やその中に突入するのか、泡が音立てて続けざまに沸き上がった。
沸々としていた水の泡も暫くして止み、流れは元のように蒼み玄みて黙々とした静けさに復(かえ)れば、「早や水は満ちた、早く引き揚げよ」と云う。「心得ました」と二人の供が急いで引き上げれば、「ソレその栓を」との老人の言葉に、今度は少年までもが手伝って、「此の水を洩らしてはいけない」と大小二ツの栓をシッカリと挿し固めた。全てのことが思うようになったので老人は欣然として、得意の顔に降る雪の冷たさも知らない顔で、髭を捻り捻り、「イヤ、みんな御苦労御苦労、儂(わし)も陸羽が好まなかった雪の水を用いて茶を煎(に)る程の分からず屋でも無いから、雪が降っても降らなくても構うものではないが、茶の水を汲む時に雪が降って来たのは何となく面白い、・・試みに梁苑の雪を持って、煎動する建渓の春・・などと云う句があっても、そんな子供じみたことを儂は仕ないが、雪降りに水を汲んだことは今までになく興がある。古人が雪の日に友を訪いて会わずに帰ったことも想い合わされて、此の水で茶を煎じないでもモウ宜いような気がする位だ、どうだ桃井、この雪景色の潔いこと、この風の清く冷たく心持ちの快いこと、この川の物静かで寂々として俗離れのしている嬉しさ、この子供の俗気の少ない愛らしさ、何とも云えないではないか、どうだ桃井」と話掛けると、「ヘヘー、ヘヘー、如何にも、如何にも、」と震えながら受け答えして、・・御前は御衣服(おしたく)が十分ゆえ御寒くはあるまいが、我等はそうもいかない身の、景色どころでは無い・・と車夫の三次と眼で語り合っていた桃井も、仕方なく今更に感心顔を作り、「で御座りまする、まことに風流の絶頂と云うところで、もはや此の上は御座りますまい、しかし甚だ冷えますることで御座いますから、船の上は早く御切り上げになった方が宜しいかと存じまする、コラ舟子、サッサと骨折って漕いでくれて宜いのだ、」と半分は主人に半分は子供に云えば、子供は正直に「ハイハイ」と畏まり、頻りに櫓をば押しに押しながら、ヨクヨク此の一行の人々のすること云うことに驚いて気に留めたのか、「旦那等は滅多に無い希代(きたい)な人達だネ、だが水を汲みに来る人は時々有るようだが、その樽の奇麗なことは見たことも無い、底に何だか知らない焼き印が見えたようだが」と不思議がって桃井の顔を見て問い掛けた。
問われて桃井は曰くありげに、「そのハズ、そのハズ、東京の者でも実際(ホント)の世の中に狭い我々のような手合いには、こういう風雅な事をして遊んで居らっしゃる方が随分あるのを知らないで、昔の水の味を知った人の話なんぞを嘘のように思っている者が多い位だから不審に思うのも道理、此の樽もノ、これは京都の縄手三条下るところの樽源と云う男に御下命(おいいつけ)で、アチラへお遊びにいらしった折のお帰りに、宇治の水を御持ち帰りなさろうとして、その時に御こしらえさせになったもので東京(コチラ)には無い、キサマにも細工の良いのが眼についたと見える、感心、感心」と得意げに説き聞かせるのも、人は目下の者を捉まえて講釈をしたがる癖のあるもの、その上特に朝夕に主人に仕込まれた毒気が廻っているのであろう。
船は此の問答の中に、やがて前の所へ着けば、桃井は船子をねぎらい褒めつつ陸に上がって、老人を先頭に三次を後にして蒸気船の船着き場に着いた。雪は猶やまないが行徳通いの船が折よく有れば、雅人(がじん)も乗り遅れてはと急いでそれに乗った。

 下

蒸気船が大川に入ると、市街(まち)は霏霏(ひひ)と降る雪に、流石塵埃(ちりほこり)の都も今日は美しく粧って、日頃は面白味の無い市街も自然の風情を見せている。老人は桃井を捉まえて、「興あり、興あり」と云い、「どうだ桃井、キサマ達俗人にも今日は風雅が身に沁みたであろう、しかし大分空腹を覚えて、寒気を感じる」と云いかけて、ハタと手を打って、「オオそれそれ、今日は実に快かったが、雪の日にめぐり合わせたのも丁度良い、ついでの事に雪見の心になって、船が着いたら何処(いずく)にてか一酌を催そう、そのようなことは好まない儂じゃが今日は特別じゃ、雪見はハズミに乗って日頃しないことをするところに可笑し味がある、どうだ桃井」と云えば、桃井は急に勢い付いて、「ハハ、如何にも、如何にも、柳橋辺で何家(いずれ)へでも御供致しましょう」と、十分に空いた腹の中へ会席茶屋の出来立ての味噌吸いでも入れようならと、まだ膳に向わない前から喉が動き出すような気出したのか、早くも唾を飲んで答たのも可笑しいが、しかし当て推量は向うから外れて、「しかし花屋敷でもなかろう亀清でもなかろう、雪と云うところから思い出したが、むかし雲州侯が雪見に出られて、居酒屋へ入って葱鮪(ねぎま)を賞されたという話があるではないか、ただでは面白く無いから思い切って戯れに雲州侯の真似をしようと思うが、どうだ桃井」と、日頃贅沢三昧の主人には面白いだろうがコッチには有り難くない御言葉である。
「ヘヘー、しかしソレは」と云い掛けるところを又追いかけて、「どうだ桃井、茶の水を御熊野前に汲みに行ってというところが甚(ひど)く完璧(うるさい)な話で、帰りに雪見酒をネギマで仰ぐというところは甚く磊落な話、前後の飛び離れたところが至極可笑しいではないか、何、そのようなものはトテモ喫(あが)られますまいだと、ハハハ、近来こそ悪食(あくじき)をしないが旧時(もと)を云えば微賤の者である。ネギマどころかオカラ汁、ゴッタ汁、ヌタでも河豚鍋(サイナベ)でもチャンと心得ている、寒い時は濁酒(しろ・ドブロク)の方が保ちが宜くて力があると云うことも試(や)ってみて知っている、どうだ桃井」と、小声で威張られて、「ハッ、ハッ、では思し召し通りに三次に案内致させましょう、私は一向不案内でござりますから」と、三次にヒソヒソとその意を伝えた。
両国橋近くに家の大きいのと取り扱いの賢いことで大繁盛の居酒屋、年末に一層賑やかさを増して何となくガヤつき、室外の寒さに堅く閉めたガラス戸の内は人の気が籠って湯気のようになる中へ、先刻迄は風雅自慢、今は磊落自慢、あくまで高慢の鼻高く鬚白く、おのずから誰が見ても場違いな立派な老人が、三次桃井の後に続いてズッと入れば、鶴一羽来て鳶・烏驚き、皆々目をそば立ててその人を見て、且つは「ここへ置いて呉れ」と三次が帳場(ちょうば)に置いた美しい大樽の、一見酒でも入って居るように見えるのを不思議そうに眺めた。
高慢気にこのようなところへ来たものの、美酒美饌に馴れた身には流石に万事が気づまりで、青磁色の安猪口をさえ懐中紙(ふところかみ)で二度三度と拭いて、ようやく口にしたが酒の悪さに困り果て、下物(さかな)にも余り箸をつけることなく、辺りを憚る身は自然と頭を低くして、無邪気に飲み食らう三次を見ながら、猶高慢気に桃井を捉まえて、「どうだ桃井、面白いでは無いか、酒も下物ももとより云うに足りないが、多勢が笑い楽しんで嬉々として飲んで居る風情は、またおのずから一幅の画であるな、アア面白い、どうも面白い、こう云うところへ来てこう云うところを見るのは、マズ儂のような脱然とした者でなくては出来ないであろう、儂位の者だナこう云う風雅な事をする者は、ハハハ、マズマズ雲州侯の腸(はらわた)を捜(さぐ)ったと云うものだ、儂の磊落(ライラク)はこうしたものだ桃井、どうだ面白いでは無いか此の大勢がワヤワヤ云っているところは、千匹猿が騒いでいるような此の景を下物にして飲むのも面白いナ、好い酒の下物の千匹猿だナ」と云うその時、アチラの台に座っている痩せぎすの職人が、酒癖が悪いと見え顔の色を青くしながら、赤ら顔の太った連れが、「マア可(い)いやな、止(よ)しねえ、全くヤキモチだあな」と云って宥めるのを更に聴かないで、癇性の口を歪め大酔の眼を据えて、「だって亀やい、聞けってば、コレ、昼日中だぜ、コレ、聞けってば、コレ、昼日中だぜ、ヤイ、昼日中だぜ、いくら雪が降ったって、いくら待合だって、そんな事があるかい、しかも密通(まおとこ)なんだ、太(ふて)え女(アマ)ッチョだ、俺が五枚目の畳(ヤツ)を入れようッて云うんで敷き合わせをしているとだ、壁隣りの室だもの、人の足音位聞こえるだろうに遠慮するが宜いじゃあ無えか、それを酔っ払ってベチャベチャ喋りやがって、何だかコッテリとゴタツイテ居やがるんだ。しかも女の声がチラチラ聞こえてこう云うじゃあ無えか、」と云い掛けると、「マア、いいやな、もう聞いたよ」とまた止めれば猶きかず、「聞けってば亀ヤイ、女の云うにゃあ、・・ビクビクお仕でない、どうせ危ない橋を渡っているんだあネ、今日はネ、茶の水を汲みに桃井と三次を遣ろうと云ったのを、二人だけではどんな物臭をするか知れませんからと云って煽ってネ、利根川まで追い出して遣ったから夕方までは帰れや仕ないのさ、此の雪で風でも引くだろうよ、いい業晒しさ、六十面をさげてアレがホントの年寄りの冷や水さ・・って云うんだ」と、此処に当人が居るとも知らず、語り出す。
桃井と三次は眼を見合わせて顔色を変えたが、老人は驚いた顔の色を早くも押し隠し、何気ない顔をして猪口を取り、グッと悪酒の変な味のするのを飲みほして、「どうも面白いな今日は、ウウト、碧雲風を引いて吹きて断ぜず、白花光を浮かべて椀面に凝る」と、廬同の茶の詩の中の句を軽く低く吟じる。
酔客はまた語り続ける。「デモ風でも引いて死んじまえば世話は無いんだがネ、渋柿の永持で厭に達者なヤツさ・・って云うんだ、太え女じゃあ無えか、だがその老人っていうのも好い白痴(こけ)だあな」
老人はまた、グットと悪酒を仰って、「一椀口吻潤う」と吟じる。
「どこの国に自己(うぬ)が妾に煽られて水を汲みに行くベラボウがあるだろう」
「ウウト、二椀・・・孤悶を破る・・・」
「また女が云うにゃあさ、・・マア急には死にそうも無いし、マサカ毒も盛れないから仕方ない、何でも道具を押し付けてお金を巻き上げるんだあね、過般(こないだ)は巧くいったよ、物知り顔に大自慢だけれども、ホントは何も分かるんじゃあ無いんだから・・って云うんだ、間男は道具屋の注文取りか悪い茶人なんだろうナ」。
「ウーン、三椀・・・枯腸を捜(さぐ)る・・・、ただ有り文字・・・五千巻。」
「それで女の云いやがるのが酷いじゃあ無えか、・・オマエ雨上がりに往来でも歩いてネ、一寸した石でもあったら何でも一ツ下駄の歯で蹴るんだネ、ポーンと蹴って、一ト足踏みとどまって一寸睨んでネ、ジジイが食い付きそうな石だったら直ぐに持っておいでよ、講釈はジジイが勝手に自分で付けて幾金(いくらか)で買うからネ、オホホホホ・・と笑いやがるんだ、エッチラオッチラ水を汲みに行ったり、往来の石塊(いしころ)を買ったりすりゃあ世話は無えじゃあ無えか、あんまり馬鹿げて居てそのジジイの面が見たくなったアナ。」
「ウン、四椀・・・軽汗を発す。」
「鼻の下が鯨で京間で居やがる、平生(ふだん)だってキットすねられて肘なんか食らってる方の玉だぜ。」
「ウッ、平生・・・不平の事・・・、悉く・・・」
「ジジイの悪口の内やあマダ宜かったが、ヤイ亀、コレ聞けヤイ、それからが大変なんだ、・・だがネ、ホントにアタシャ覚悟しているんだからネ、若しオマエが他に気を出そうものならソノ奇麗な身体あ、食い付いたり引っかいたりして一寸と続くところの無いようにするから・・って云うんだ。」
「五椀・・・肌膚清し。」
「すると男の声で、・・そりゃあ宜いが何でもマアばれないように仕て呉れなくちゃあ、・・と云うと、・・大丈夫だよ、あのジジイの事ならアイツの見る夢迄知ってる位なのだから‥って云うんだ。」
「六椀・・・仙霊に通ず・・・。」
「それから後は何だか分からなくなりゃあがったんだ、分からなくなりゃあがったんだ。」
「ウーン、ウーン、七碗喫し得ず・・・。」
「そんな話をすっかり聞かされたんだもの忌々しいじゃあ無えか、だから一緒に歩きねえ、北郭(なか)へ行こうぜ」と、酔った人の癖で力み返ってクダを巻くのを止めるが、止まらず愈々いきり立って、「サア他所へ行こう、此家(ここ)の酒はもう不味い、それとも他に旨い酒が有るか、有るなら出せ、飲もう、」と訳も無く不理屈に柄をすげて狂う中に、帳場に置かれた樽を見つけるやいなや、「此処に善い樽があるコレを飲んで遣ろう」と、止める間もなく酔いどれの手元危なく栓を抜くはずみに、ゴロゴロと引繰り返せば、水は辺りの台の上に流れ出た。「勿体ない、勿体ない」と慌てて男は吸うが、「ペッ、こりゃあ水だ、何だ水だ、此処にカカアに追い出されて利根川で水を汲んだジジイが居るんじゃあないか、ハハハハハ」と職人が笑えば、老人は既に何時か去って此処には居なかった。七碗喫し得ずと云った後に、ただ両脇の下にスースーと清風が吹くのを感じて、天狗男も堪えかねて飛び出したのであろう。
(明治三十八年一月)

注釈
◦午砲(ドン):、正午を知らせる空砲
◦大晦日:一年の付け買い期日
◦大小を忘れた佐野の源左衛門:能の演目『鉢木』の登場する貧乏な武士、ここでは貧乏人のこと
◦通い帳:昔は「通い帳」と云う帳面に付けて貰って物を買った(ツケ買い)、そしてお盆や年末にまとめて代金(ツケ)を支払っていた。
◦痩せ所帯:貧乏家庭
◦年の関越え:大晦日におけるツケ買い借金の清算
◦佐倉炭:茶の湯などに用いられる千葉県佐倉産の炭
◦釣瓶:井戸水を汲み上げるための縄や桶
◦松の内:正月の門松のある間
◦官途:役所勤め
◦今は拍子木に切って:今はシャケを丸ごと一匹買ってそれを切り身にする(暮らしだでこるようになった)
◦それぞれの耳たぶ:貧富は夫々の耳たぶの大小で決まるという俗諺
◦栄耀の餅の皮剝き:贅沢を尽すこと(アンコロ餅の皮を剝いてアンだけ食う)
◦御熊野の水:宝永四年に創建された下今井村の鎮守熊野神社前の江戸川(旧利根川)には「だし」と呼ばれる杭があって、江戸川の激流を緩和していた。そして「だし」付近の水は清澄であったことから、徳川将軍家ではその水を江戸城まで運ばせて茶の湯をたてていた。通称、おくまんだしの水。一般にも開放されており、野田の醤油にも使われていたという。
◦沖を越えた御茶人:度外れた茶人
◦御客の折り:茶会の折り
◦唐人の書画:中国の唐時代の書画
◦御手隙:お暇
◦下総通いの小蒸気船:両国から行徳(今井)を経て銚子へ?
◦三十六計の奥の手を使う人:年末の支払いから逃げ回っている人
◦杮葺の屋根:杉などの木の薄板を幾重にも重ねて葺いた屋根
◦蕭散の野趣:もの静かで素朴な自然の趣き
◦合財袋:女物の小型の下げ袋
◦天秤棒:棒の両端に荷物を吊り下げて、某の中央で担ぐ天秤担ぎに使う棒
◦藍縞の古布子:藍色の縞模様の木綿の古い綿入れ
◦黒無地の薄羅紗:黒い無地の薄手の毛織物
◦道中振:旅行姿
◦頭巾:頭と顔面を布で包む被り物
◦茶紬:紬糸で織られた絹物
◦小袖:袖幅がやや狭く丈が短い着物
◦秩父銘仙:秩父地方で織られた絹織物で造られた綿入れの着物
◦小荷足り舟:小荷物の運搬に使われた小形の舟
◦茅屋:かやぶきの屋根の家
◦纜:船を陸につなぎとめる(もやう)綱
◦舫い杭:船をつなぎとめるための杭
◦陸羽:中国の唐代の人、「茶経」3巻を著述
◦希代:世にも稀
◦雲州侯:雲州松江藩中興の祖とされる大名茶人として名高い松平家7代藩主の松平治郷(不昧公)
◦葱鮪:ねぎとまぐろを一緒に煮た鍋料理
◦帳場:勘定場
◦物臭:無精
◦廬同の茶の詩:七碗茶歌(中国唐末期の詩人廬同の詩)
・一碗喉吻潤。(一碗 喉吻潤う。)
・両碗破孤悶。(二碗孤悶を破す。)
・三碗搜枯腸、惟有文字五千卷。(三碗枯腸をさぐる、唯だ有り文字五千巻。)
・四碗発軽汗、平生不平事,盡向毛孔散。(四碗軽汗を発す、平生不平の事、尽く毛孔に向かって散る。)
・五碗肌骨清。(五碗肌骨清し。)
・六碗通仙霊。(六碗仙霊に通ず。)
・七碗契不得、惟覚両腋習習軽風生。(七碗吃するを得ざるなり、唯だ覚ゆ両腋習習として清風の生ずるを。)
◦鼻の下が鯨で京間:鼻の下が長い(助平)
◦肘なんか食らってる:肘鉄を食っている

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