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幸田露伴・明治の東京で「春の一日」

春の一日

 塵埃紛々とした銀座通りも春色溢れて、柳の風に舞う姿もなまめき渡り、小娘の頭にも簪(かんざし)の桜の花が多く見えるようになれば、「折角の好天気の日曜日を机の傍で暮らすのみではいけない。出玉え、出玉え、僕は写真機を携えて、興味あるものに出会ったら、パチリパチリとシャッターを切って写すから、君は興味ある出来事に会ったら筆に仕玉え、太郎左衛門の軒先には桃の花が紅に、次郎作の裏には李(スモモ)の花が白く、小社の側には椿の花、麦畑の間には菜の花というように、花づくめの世界、何処へ行っても面白く無いところは無い、今度の日曜日には必ずお誘いするから出掛け玉え」との乙羽庵の勧めに、元来がノンキ宗の宗徒にさる者ありと自ら誇る我であれば後へと退かず、「心得た」と答えたが、永い日も経ってみれば早くも約束の日の朝となる。
 空の色、鳥の声、何処も春めいた無類の好日和であるが、時節が時節だけに詩の句の通り、暁を覚えず眠り過ごして、九時頃にようやく朝食を済ませると、これも眠過ごしたらしい乙羽庵が写真機一式を携えて、洋服姿の甲斐甲斐しいいでたちでやって来る。「それでは」と我は瓢(ひさご)をブラつかせて躍り出し、兎に角と新橋へと急いで、停車場に着いて見ると下りの汽車は既に出た後で、次は四十分も待たなければ横浜行きは無いという。毎度馴れたことではあり忌々しくは思わないが、もう少し早く着けば川崎まで行けて、そこから玉川べりを上ることが出来たものをと、間抜けた時に出るのは愚痴だけで、別に良い考えもないまま利口そうな顔をして待合室で居たり立ったりしていると、赤羽行きの汽車がやがて出るとのことに、「では、それに乗って目黒の方へ行って見よう、もとより川崎に限ることは無い」と、急いで飛び乗り訳無く目黒に着く。
停車場を出て少し不動尊の方へ歩くと、甘藷先生(青木昆陽)の墓はこれよりと道標の石が立っている。「我等イササカ御恩を受けた心地がする」など戯れながら道から右の方へ入って見ると、碑は小高い丘の上に在って、取り立てて云うようなことも無く、まして写真などにするようなものではないので二人とも興ざめして、そこから直ちに不動尊の裏に抜ける。不動尊も人の知るようにそれ程写したいものでもない。樹隠れの鐘楼、龍の口から落ちる瀧、それから経蔵や仁王門も、或いは妙でなく、或いは日光の工合悪く、或いは見切りが巧く付かずに、技手は手を空しくして坂を下り、我も咥えキセルで総門を出る。門前の茶屋茶屋の女どもが店先に立って口々に客を招くも、まさか写し難く、ただ単に筍飯(タケノコめし)の美味を思ってか技師は内田という家に入り込み、「実は今日寝坊して」と空腹の消息を洩らすも可笑しく、罪の無いことである。
 昼にはまだ時間が有るがこれから先にはこのような所も無いので、共に充分に腹ごしらえする。「イザ出立」と池上の方へ向かう、しばらく行くと摩耶尊これより二丁と記した石がある、甘藷先生になお懲りず、「兎に角こう云う所へ入って見て、人が余り知らないような面白いもの見出さなくては妙という訳には行かない、まるで詰らない所で歩き損だとしても二丁の往復で済むこと」と技師に勧めて横に折れたが、二丁行き、三丁も行き、四丁も行ったけれども、それと思わせるものにも会わず、技師は予(かね)てから、「ドコソコへと決まった目的地の無い我等の行路に迷うということ無し、」と云ってはいたが、こうなっては余り面白くもない。そうそうノンキにしてもいられず、人に逢いさえすれば、「摩耶尊への道はこれでいいか悪いか」と問うようになる。
 行くことしばらくして、終(つい)に仏母山摩耶寺に辿り着く。見掛けは一寸好いがこれまた写すには好いところ少なく全くの徒労となる。仕方なく池上の方へ行くと、我は瓢箪一ツしか持たないが、技師は肩から懸けて持つ器械は一箱二貫目以上有り、日は暖かく重ね小袖に羽織ではチト汗ばむのを免れない。酔ってはいけないと気をつけた目黒の小酌も、幾分かは身のダルサを増す力となって、ここに於て二人は大いに弱って、それに加え道に変化なく興味なく、器械を組み立てて覗いて見たいという所など全く無ければ、ホトホト辟易してカラ元気を装った冗談の声も次第に途切れがちとなって行くが、タマタマ若者と中年の男二人が荷車を列ねて引いて行くのに遇い、私は技師が重荷を背負っているのを先ほどから気の毒に思っていたので、これは幸い、「君その荷物だけでも載せて貰い給え」と賢顔(かしこがお)に勧めると、相応に肩も痛くなっていた技師は一も二もなく同意して、「オイオイこの車はドコまで行く、ムム丸子の渡しの方へか、丁度良い、手間賃を出すから之を載せて呉れ、」と頼んで答も待たずに早くも器械の入った箱を車の上に打ち載せてホッと息を吐いたのは素早かったが、フッと気付いて能く見れば、平たい籠に山盛りにして筵(ムシロ)で蓋った車上の荷は、これは如何に、その昔ナニガシ禅師はこれの乾燥したもので芋を焼いたと聞いているが、凡夫の我々にとっては嬉しくない肥料用の物である。勧めた我も応じた技師もアッとばかりに少し怯んだが、通という言葉はこのような時に人を慰めるのに非常に力の有るもので、「君一句我一句、どうも通だ、実にここらが通というものさ、」と互いに無理やり通の一語でこの光景を称えたことは、苦しくもまた可笑しいことであった。
 サレド見渡す限りの、相も変わらぬ平々凡々とした風景にイヨイヨ落胆の思い高まり、「少しは待ってもあの次の汽車で川崎の方へ行ったならばこんなことにはならないものを、アア急がずばとは昔の奴は巧いことを云ったものだ、」などと腹の中で下らない想いを沸かしながら行くと、池上村道々橋という所で男たちが「ちょっと休んでゆきましょう」と云うので仕方無く、「我等も一服」と腰を休めにかかった途端、道の右手に家並の欠けたところがあって、そこに例の何やらの標(しるし)の石が立っている様子が、その奥に寺か神社が有るように思えたので、急いでそこに行って見ると、視界が急に新たまって、疎らに立っている樹の間から和(やわら)かな春の日に照らされて、漾々(ようよう)とした水面がひときわ美しく凪ぎ渡る大きな池が見えた。今日初めての好い景色にシメタシメタと叫びながらなお進んで見ると、出島のようになった地に樹木が配置好く茂っていて、その中に古びてはいないが庵がある。人に問い訪ねると御松庵という日蓮上人が毒龍を転化した故跡だと云う。池を洗足の池というのも由緒有る名であろう、日蓮上人袈裟懸けの松は今は枯れているが、竈(かまど)の下にも入れられずに切られたまま残されている。故事はとにかく、向かいの岸の出張ったところに八幡神社の鳥居が水際近くに立っている。またその左の方の地勢が湾曲して、水の流れが河の末のように奥深く入り込んで見えるなど、なかなか無味な風景を見続けて来た眼には風情がある。「悪い後は好いもの、マズマズ店を開こう」と技師も勢いづいて、疲れも忘れて急いで車から器械を取り下ろして、二枚ここで写した。
 これからは元気が出て来て、「多摩川に出れば猶好い所があるだろう」と語り合いつつ丸子を目指して行くと、下沼部という土地で、小流に渡した「けえちやう橋」というのを過ぎる時に左手の方を見ると、子供等が七八人、流れの中に横たわる小舟に乗る者、川に立つ者、岸に立つ者などが無心に遊び戯れている。我が眼にも好くは見えたが、「ただ単なる一点景」と見過したが、技師は流石にただは通らない。「好題目ござんなれ」と器械を取り出して写そうと準備をする。折しも、自ら写真に写ろうと柄の長い鍬を持って、それを洗おうと流れに立った農夫があり、流れに沿った道を柴を背負って行き過ぎる少年があり、マスマス興味ある材料が集まって来たので、「しばらくの間だ、そのままそのまま」と彼等に声を掛けて制しつつ首尾よくパチリと写したが、出来上がる写真のみならず、この事もまた大層楽しいことであった。
 かくて程無く丸子の渡しに出たが、いつもながら多摩川の清い流れは見る眼の塵も洗うばかりであるが、この辺はただ茫々と広く平坦なばかりで、川手前の上の方に浅間神社続きの丘があるほかには眼を遮るものも無く視点が定まらない。この眺めを無駄には出来ないがどうしようかと、技師も我も水面を見渡していると、川中の浅瀬に立って蚊鉤というもので懐中刀(ふところがたな)位の大きさの若鮎を釣っている男がいる。また岸近くに引き寄せられた古舟がある。川原には四本鉤の鉄錨がある。これ等を取り合わせてはとの技師の考えに、酔狂にも我は大力を発揮して錨を船の艫に移し、舟の中の水に踝(くるぶし)を没し舟縁に蹲(しゃが)んで再び写中の人になる。
 ここから川原沿いに矢口まで行けるとの事に、水辺にはまだまだ好いところがあるだろうと、うねり曲って川沿いを行き、鵜の木の光明寺を遥か左の方に見て「あれを」と語り合ったが、「あれ以上の景色が有るだろう」と思ってそのまま行き過ぎ、下平間の渡しも何時しか後にして矢口の渡し近くまで来たが、土手と川との間に小草を座にして白い傘を日除けにして、川下の方へ向かって風景を描いている若い油画家がいる。その連れと思われる二人も同じ程の年齢に見えるが、これ等は既に描き終えたと見えて、坐って居る傍に画が一二枚ある。この辺は川が面白く曲がって流れて、麦の緑、菜の花の黄金色、遠く見える榛の樹、楢の樹、などが連なり続いて果ては霞と一つになる。姿は見えないが「ピーチクピーチュクチュク」と早くも雲雀が啼くなど、取り立てて云うほど珍しくは無いが、真に田舎の春を代表するとも云うべき景色なので画家が選んだのも流石に道理有り、と思いつつ会釈をしてその前を過ぎて、行くこと幾らも無く、繋ぎ舟の手前の水際で農家の夫婦らしい二人が牛蒡を洗っている。「芋洗う女西行ならば歌よまん」と云う芭蕉の句も思い出されて可笑しく、牛蒡洗う男女を乙羽ならば・・忽ち写したり。
 「矢口には一か所くらいは」と楽しみにしていた甲斐も無く、ついて見れば新田神社も焼失後新築されたものなので、神社には似合わないレンガと漆喰の腹合わせの玉垣も口惜しく、艶消しガラスに鉄の棒のある本社も片腹痛く、仕方なくここは差し置いて池上の方へと目指して進むと、春の日ではあるが少し暮近くなって、本門寺の森を遠く望む頃には、夕陽の光も黄ばんで来て余光幾ばくも無くなろうとする。ここら辺でもう一枚と技師は油断無く見廻しつつ行くと、道のほとりに石の塔がある。何かの供養に用いた卒塔婆が一二本を入れて置くものもその傍に有って、村童が遊んで居るのも時に風情を添えている。「これを」と早速黒い布を被って技師が覗いている最中に、後ろの方からこれも村の者であろう十四五の女の子が風呂敷包を腕にして来たので、「これを生け捕って」と立たすべき位置を見計らいつつ我は例の調子好い愛嬌ある声で、「ねえさん、ねえさん、ちょっとここへ来て立って呉れないか」と呼びかけたその声は銅鑼のように聞え、その姿は掴んで食いそうにでも見えたのか、あるいは須磨にさすらう光源氏にも優る殿御と我を見て恥かしがったのか、顔を真っ赤にして足早に元来た方へ逃げ帰ったのは、気の毒にもまた可笑しい。
 日も愈々落ちかかって来たので、これを打ち止めにして本門寺に詣でたが、技師は疲れに疲れて一段一字の例の坂を千鳥掛けに攀じるように上り、五重塔の傍から抜けて松葉館に着いてホッと息をして疲れを休めた。この家は高所にあるので大森の海も眼下に見えて吹いて来る風も心地良く、一浴して縁先に立てば、「衣を千仞の岡に振るう」と洒落られる思いがする。二人ともここまで来れば、ハヤ家に帰ったも同じ事と心を寛(ゆる)くして、一日の可笑しかった事などを語り合っては笑い、笑っては瓢箪の酒でない酒を飲んで陶然となり、やがて汽車で一飛びして十時に帰り着いたが、汽車を待つ間停車場前で戯れに買った大森鬘(おおもりかつら)の野郎頭を技師が冠り、島田髷(しまだまげ)を我が戴き、笑い合ったが、「昼間であれば何処の技師に写されたかも知れない、思えば危いことであった、人を呪わば穴二つの本文もあるのに」と、舌を出して「あなかしこ、あなかしこ」。
(明治二十九年四月)

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