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幸田露伴・明治の東京で「六十日記」

六十日記

甲子。土曜。(二月二十五日)
 今日から癸亥の日までの六十日間、よしなき筆のわざではあるが、その日その日の様々な事を記してみようと思う。もとより貧居の貧に安んじ、閑人の閑を誇る身の上であれば、小売りの米価油価の上がる上がらないには墨を惜しみ、他所の梅桜の咲く咲かないには筆を労して、万事思うにいかない日頃の恨みを、独り心のままに灯下の戯れとするのみ。
 午前に春陽堂主人の訃を聞き、午後に同家に行き弔辞を述べて帰る。車上につくづく、今さら驚くのでは無いが人の身の常無いことを果敢なむ。日頃博文館あって明治の書籍は廉くなり春陽堂あって明治の書籍は美しくなったと自他共に噂をしていたが、一気の綴じ糸がフツと断えては、四大の丁数はハラリと解けて、世を絵冊子の袋と棄てて、身は活版を組まない初めに帰る。悼むべし哀れむべし。

乙丑。日曜。(二月二十六日)
 午後和田氏の葬儀を送る。会葬者大層多く、当の寺には人々充ち満ちて、徒歩で行った我等は聊か遅れたために入ることが出来ずに、心ざしは亡霊(ほとけ)が知っていると家に帰って、独り静かに経を読む。外道門聖大乗法無我義教など五六種である。
 女をさして、にょうぼうと云うのは中古からの詞(ことば)で女房と書かれて来た。男房という語もあって、その房(へや)を云うかと大槻氏の言海にも見え、まことにそのようにも思われる。しかし、女房の文字を用いてただ単に女のこととして用いた例を漢文では殆んど見ないようだ。女房の二字に代って女宝に二字を用いるのも悪くはないのでは。女宝の二字は転有経に出ている。転有経は元魏の仏陀扇多の訳であるが、転有経の異訳に違いない後魏の菩提流支が訳した修多羅王経では、転有経に女宝とあるところを婇女と記してある。またこれも同文異訳の唐の義浄三蔵の訳の流転諸有経には美女とあれば、女宝の二字を用いることに異議ないことは明らかである。僧宝という語もあるが、それは聊か宝の字の義から同じ用法とは云い難い。猶考慮すべきである。

丙寅。月曜。(二月二十七日)
 淡島寒月氏と共に蔵書家の○○氏を訪れる。目を惹くものの中、村田了阿が自ら集めた「えんさいくろぺぢあ」のようなもの一箱、屋代輪池の同じようなもの十巻ほど、細井広沢の籀文や篆字の類などをさまざまなものから抽き出し集めた一ト堆(かさ)、正和二年の活字本の虚堂語録、酒井抱一自筆の一代の俳句集などを、先ず心に留める。珍しさから云えばこれ等よりも珍しいものは猶多いので、今日初めて顔を合わせたばかりなのに、早くも腰を落ち着けて日が暮れるまで長居して、庭木の梢を渡る夕風の戦(そよ)ぎに驚いて家に帰った。

丁卯。火曜。(二月二十八日)

戊辰。水曜。(三月一日)

己巳。木曜。(三月二日)
 今日は和田氏の初七日なので、山谷を目指して立ち出でて堤の上を行くが、泥を上げ立てて勢いよく走る車(人力車)が音を絶たず、皆吾妻橋の方から来て北へ去る。その数およそ二百輌を超える。何事かと訝って問えば、初と云う男が刑期を終えて市谷刑務所から今日出たのを、出迎えて伴い帰る一行と云う。心無い卑しい者どもがこのこのような有り様を見れば、男として人に重んじられれば、獄を出て帰るにも栄(はえ)があると思うこともあろうか。政治を行う者はこのようなところに能く心をつけたい。大秀寺に着いて法筵に連なる。事終って八百松(料亭)に招かれ、午後家に帰る。石橋忍月・山中古洞・柳川春葉来て、瑣談し夕に至る。

庚午。金曜。(三月三日)

辛未。土曜。(三月四日)
 妹二人、今日京阪地方へ向かって旅立つ。

壬申。日曜。(三月五日)
 朝早く家を出て、そぞろ歩きをして中川のほとりへ着く。立石という村に図らずもさしかかれば、予てから村の名の起こりと聞く立石の神を、ついでに訪れてその石を見て置こうと、爺婆などに尋ね尋ねて漸く其処に着く。田圃の中の少しの土地に松の四本五本が立つその下蔭に石垣が有って、垣の中にいわゆる立石が土に埋もれて聊か頭を露わしている。祠らしいものは見えずに、ただ小さな鳥居に立石の神と書かれた額が懸っている(東京都指定史跡・立石様)。石の状態を見ても、この辺りに有るようなものとは思えない、云い伝えではこの石の深さは知ることが出来ないという。鹿島神宮の要石の物語んども思い合わされて面白い。関東の古い習慣では石を祀ることが多いのか。帰りは試みに疾駆したが、立石から家まで四十分を費やした。

癸酉。月曜。(三月六日)

甲戌。火曜。(三月七日)

乙亥。水曜。(三月八日)
 兄上の家に行き園の中をしばらく逍遥する、ふと生け垣にスイカズラの細くないのが纏い付いているのを見つける。これの花は金銀花と云って姿もやさしく香りもゆかしい、盆栽(はちうえ)にすれば面白いなどと兄上と語り交わして、覚束ないがとり木の術を施して帰る。

丙子。木曜。(三月九日)

丁丑。金曜。(三月十日)

戊寅。土曜。(三月十一日)
 夜雪が降る。

己卯。日曜。(三月十二日)
 昨夜の雪に路は悪いであろうが、空が晴れたので家に居るのも口惜しいと、曳舟通りを歩く。春の雪のことなので、木瓜(ボケ)の蕾の大層紅い上に積もったものなどは、冬には見難い面白さがある。正午頃家に帰って、何となく心地好いままに手近にあった保元物語を声立てて読む。この物語の文は盛衰記や平家物語などより好もしいと今日もまた思う。

庚辰。月曜。(三月十三日)

辛巳。火曜。(三月十四日)
 石橋忍月来る。共にそぞろ歩きをして重箱で飲み、浅草で別れて帰る。

壬午。水曜。(三月十五日)
 図書館に行き、かねてから借りていた植物図説を返す。この書は煩わしく無くて好い、ただ梅桜の類をバラ科としたのなど、モモ科と覚えていた身には訝しく思うを免れない。この道に全く暗いので知っている人に訊いてみよう。草木性譜を借りて帰る。

癸未。木曜。(三月十六日)
 石菖についての話を聞く。

甲申。金曜。(三月十七日)

乙酉。土曜。(三月十八日)
 妹二人は昨日帰ったそうで、奈良漬などを御土産に持って来る。

丙戌。日曜。(三月十九日)
 我は鳥銃を肩にして、弟は釣竿を手にして、魚籠の中には一小瓢の酒と十数個のニギリメシを入れて、ポケットの中には一二冊の水滸伝を潜ませて、奥戸の辺りに遊ぶ。鳥が獲れても獲れなくても、魚が獲れても獲れなくても構わないが、中川の流れの辺の蘆荻茫々とした中で一日を送ろうというのである。銃は一羽も獲れなかったが、竿は幸いにも握れないほど大きな鮒を十数尾獲れたので、兄は芝生の生えた地に坐して独酌の微吟に傲り、弟は柳の根に凭れて浮きの動きに無言の笑いを湛える。兄弟歓ぶこと甚だしく、家に帰れば妻子もまた歓ぶ。疲れた身体を先ず何よりもと、湯を浴びて戻ると、膳の上には早やくも、釣って来た鮒の刺身、同じく小鮒の車膾(くるまなます)が細君の包丁で調えられてあった。ここにおいて先生は一瓶のビールに心よく酔い、たとえ王侯貴族といえども、自分が釣った魚の味は自分が釣らなければ知ることは出来ない、されば王者の楽しみも我が一日の清興にどうして変えられようと誇る。

丁亥。月曜。(三月二十日)

戊子。火曜。(三月二十一日)
 午後、大橋乙羽来る。共に堤上をそぞろ歩いて綾瀬橋を過ぎ、千住を経て浅草に着く。割烹の萬梅で一酌して酔うこと甚だしく、十時頃帰る。

己丑。水曜。(三月二十二日)

庚寅。木曜。(三月二十三日)
 図書館に草木性譜を返し、草木図説を借りる。

辛卯。金曜。(三月二十四日)

壬辰。土曜。(三月二十五日)

癸巳。日曜。(三月二十六日)

甲午。月曜。(三月二十七日)

乙未。火曜。(三月二十八日)
 たまたま七島日記を読むと、伊豆の洲崎というところに船を寄せて人の家に宿る條(くだり)に、そこは鯛をいけすにして江戸へ送ることを生業とする所で、鯛を網から取り上げた時に素早く鯛の腹へ竹の針をさして針口から水を出して、いけすへ入れれば何時までも能く生きているという。この針をさす者一人二人でなく、手馴れない者が針をさせば鯛は死ぬという、と記している。鯛の腹に針をさすことは、西鶴の永代蔵に出ているのを最も古いとすべきか。何時の頃からはじめた事であるか、知らない。或いは本当に西鶴が記したようにその頃に起ったことか、曽て安房の加知山に遊んで鯛釣りをした時に、漁師の教えるままに私もまた鯛の腹に針を挿したことがあったが、針口から水を出すと七島日記に書いてあるのは誤りで、水を出すのではなく空気を出すのである。挿すところは糞門で、頭の方へ軽く突けば空気は漏れる。至って簡単なことで馴れない者が挿すと死ぬと云うのも誤りである。鯛をいけすにするにはこのようにしないと保てないことまことである。因みに、七島日記というのは伊豆日記というものと同じもので、初めは伊豆日記と云っていたものを七島日記と改めて亀田鵬斎の序文を加えたりして、敢えて売ろうとしたのだろう。これとは別に小寺応斎のではない伊豆日記というものがあって、混乱を嫌って名を改めたものか。

丙申。水曜。(三月二十九日)
 故鷹城居士(春陽堂主人)の五七日に当たり芝の紅葉館で追善の催しがあった。私も発起人なので、都合で遅刻したが参席した。来賓には肝付海軍少将をはじめとして名のある人々が多かった。商売の道に賢いだけではこのように多くの人が集うことは無いだろうと誰もが気づくほど盛んであったことは、亡霊(ほとけ)も聊か自ら慰めるところもあるかと思われる。事が終わって帰る途中、芝の兄上を訪れてIllustvative Cloud Forms(雲形の実例)を借り、十一時過ぎに帰る。我が国にはこのような雲だけのことを記した書など一巻も無いのは口惜しい。

丁酉。木曜。(三月三十日)
 南風の強いのが昼過ぎから吹き出して、暖かくて心地悪いほどである。堤の桜も一ト目の中に一本二本と咲き出す。あと幾日あれば満開となろうか。春夏秋冬の流行の迅速にはいつもアッと驚きながら、かつ花を待つ間の急ぎ心となるのも、道理の合わない人の愚かさだと云える。

戊戌。金曜。(三月三十一日)

己亥。土曜。(四月一日)
 堤の桜も今を見頃と咲く、人によっては尚早いとも云うか。今日は兄上誕生の佳き日なので、兄弟姉妹甥姪等と共に午後兄上の家に集まって、松竹の栄え久しく玉椿の八千代までもと、祝辞を申し述べて、果ては各自遊びに耽り、おかしいことの限りを尽して夜更けに帰る。

庚子。日曜。(四月二日)
 上野の花も真っ盛りと聞けば、細君と弟と共に行って見る。今年は不忍の弁財天の大祭ということで、堂への通路の入り口である池の端では絵に描いた竜宮城のようなものを構えて、池には鷁首(げきしゅ)の船を浮かべ、また朱欄の付いた渡し船を設けたりして、人の賑わいも一入(ひとしお)である。清水堂の傍の秋色桜はいよいよ老いすがれて、あと幾年の春を迎えられるかと悲しく、「わきて見ん老木は花もあわれなり」と古(いにしえ)の人の云ったのが思い出される。漆工会やパノラマなどを見て廻った後、二人に別れひとり書店などを漁りながら帰る。

辛丑。月曜。(四月三日)

壬寅。火曜。(四月四日)
 昨日今日の雨に花の堤は趣きが多い。夜のカエルの声などがようやく耳に立つのも、春の盛りの状態と云える。

癸卯。水曜。(四月五日)

甲辰。木曜。(四月六日)

乙巳。金曜。(四月七日)

丙午。土曜。(四月八日)
 午後、中川のほとりで遊ぶ。木下川から立石に至る堤の上は行く人も稀で、雑木竹叢などの茂った陰に椿が落ちていたり、桜が咲いていたり、誰が蒔いたでもない菊の花が咲いているなど、なかなか面白い眺めである。例のように釣りをして日暮頃帰る。今日は昨日と一昨日の雨のため私も大きな鮒を獲たが、同じところで釣った男の二人迄がその幅三寸以上の鮒を獲たのを見て、このような大きなものを東京近くで見るとは思わなかったので驚いた。居合わせた人々の言葉では七才以上のものだという。さもあるべし。さもあるべし。今日は灌仏の日に当たるので、帰る途中に木下川の薬師に詣でて、苗木市の盛んなのを見る。

丁未。日曜。(四月九日)
 今日も朝から奥戸で遊んで、暮れる頃帰る。昨日七年鮒を獲た男が今日もまた甚だ大きいのを獲た。我等は三人で三年鮒をはじめとして六七十尾を獲たので、満足して渡しにかかると、渡し守の親父が私の微笑まし気な顔を見て自分も笑いを湛えながら、「家へみやげには足りないようだが、私は今夜の酒代が無い、どうです私が昨夜網で獲った鯉を買って呉れませんか」という。この親父は今でも細い髷(まげ)をつけているのでも分るように素朴な男で、日頃から言葉を交わす馴染みなので、私も笑いながら、「ヨシ、買うけれども、その鯉は何処に在る」と問うと、答えないで竹竿を川中に突き入れてやがて筆の軸ほどの棕櫚縄を取り出す。どうするのかと見る間にその縄を手繰ること五メートル位で、水面にさざ波が立って、大きな真鯉が勇ましく縦横に泳ぎ回るのが眼に入った。よく視ると縄の先の糸を罠にして顎から口へと貫いている。「オジサン買うには買うがどうやって家まで持って行こう、私の魚籠は小さくて」と云えば、「藁苞にしてやろう、ナニ面倒は無い」と云いながら、振り返って自家の方に向って、声を出して言葉少なく命じる。四十ばかりの主婦が藁縄を一束を手にして出て来た。先ずその元の方の一端を緊く括っておいて、サテ魚をタモ網で捉えて、静かに束ねた藁の内開いた中に置いて、ほどよく覆い包んで、今度は元の方を縛り、次に中縛りをして、終わりに末の縛りをしてその余った藁の穂を縒って二本にして、それを結び合わせ提げ持つことが出来るようにした。このこと画趣あり詩情あり、何んとも嬉しくて云うままに値を払い提げて帰る。途中、持ち重りしていささか困ったが、家に着いて大盥に鯉を放すと猶勢いよく溌剌としているのを見て腕のだるさを忘れる。この夜の膳には鯉あり鮒あり、「貧僧の重ね斎」という諺も思い合わされて可笑しかった。
 桜が散って雪のように、空は次第に青く、雲は次第に塊になろうとする。田をかえす人も日々に多くなり、燕は舞い羽ばたく。鮒釣りの遊びも次の日曜頃までのことになった。

戊申。月曜。(四月十日)

己酉。火曜。(四月十一日)

庚戌。水曜。(四月十二日)

辛亥。木曜。(四月十三日)

壬子。金曜。(四月十四日)

癸丑。土曜。(四月十五日)
 今日は梅若の祠(ほこら)で念仏会があり苗木の市が立つ。去年の今日買った落葉松の高さ六十センチに満たなかったものが、今日見れば九十センチ余りとなって、浅碧の色美しい新芽をふいている、去年の私に比べて今年の私は幾らも成長しないのに、主人に倣わず情(こころ)無いものながらスクスクと成長して月日の恵みに酬い呉れることよと、自ら微笑まれるばかり嬉しい中に心恥ずかしい思いもする。

甲寅。日曜。(四月十六日)
 風暖かく空も晴れたので、細君と共に当てもなく近所の田圃の間をそぞろ歩く、途中フと気付いて見れば、道の傍などに農家の人が設置した肥溜めの辺りに生えている草は、特に色も濃く茂り、丈も高く勢いよく伸び栄えている。細君を振り返って此れを指さして語る、「アレを見ろ、肥溜めのほとりの草は栄えている。人もまたこれと同じ、肥溜めの傍に立てば自ら世に現われ他人に勝ろう、黄金を盛れるのは大肥溜めである、その傍の立つものはエノコログサ、カリガネソウ皆立派ではないか。アア、肥溜めの傍の草よ、肥溜めの傍の草よ、何で次第に繁茂する。知らず貴方の心の、我を肥溜めの傍の草のように青々と盛んに茂ることを欲するや否やを」と。細君笑って云う、「足ることを知る者は富めるなり、何を苦しんで君を肥溜めの傍に立たせ忍ばせよう、君ことしえに岩窟に嘯き玉え、我は永く糟糠に食わんのみ」と。二人相見て笑って鼻を覆って去る。

乙卯。月曜。(四月十七日)

丙辰。火曜。(四月十八日)
 浅草並木町の鶴岡氏に就いて写真機を買う。大層親切丁寧に私の希望に適う器械を選んで示し呉れたので、思いのほか良い品を得て心嬉しく帰る。近々伊豆めぐりをして、到るところの山水を瞬時に描き雲烟を一紙に印さんと思い、何となく独り笑いを洩らす。
 新しく得た写真機であちらこちらを写す。田をかえす女、村の細道、新緑の樹陰の茅舎、岐雲荘、牛島神社、興福寺などなり、夜に遅塚麗水が来て山水の話をする。

丁巳。水曜。(四月十九日)

戊午。木曜。(四月二十日)

己未。金曜。(四月二十一日)

庚申。土曜。(四月二十二日)

辛酉。日曜。(四月二十三日)
 かねてから予定していた伊豆めぐりの準備が整ったので、この日出発する。

壬戌。月曜。(四月二十四日)

癸亥。火曜。(四月二十五日)
 尚旅路にあって、野に立つヒバリ風に舞うチョウと、身も心もいと軽く遊び暮らす。
(明治三十二年二月)

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