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幸田露伴の小説「二日物語②(彼一日)」

彼一日

 その一

 頼み難いは我が心である、事があれば忽ち移り、事が無くてもまた動こうとする。生じ易いのは魔の縁である、念(おもい)を放(ほしいまま)にすれば直ちに発(おこ)り、念を正しても猶起ろうとする。これゆえに心は大海の浪に揺いで定まる時が無く、縁は荒野の草に萌えて尽きる時が無いので、たまたま大勇猛の意気を鼓舞して不退転の果報を得ようとしても、今日の縁に曳かれて旧年の心を失う者は、たとえ舟を出しても彼岸に達することも出来ずに、悲しく道に迷って穢土に復(また)還えることになる。なので、心を収めるには霊地に身を置くより好いことは無く、縁を遮るには浄業に思を傾けることが最も勝れている。木片の薬師や銅塊の弥陀は、皆これ我が心を呼ぶ象(かたち)であり崇め尊まないは愚かなこと、高野の蘭若(らんにゃ)や比叡の仏刹など、何れも道念を励まさないものは無い、参り詣らないことは愚かなことである。古(いにしえ)の人は、麻の袂を山おろしの風に翻し、法衣の裾を野路の露に染めて、東西に流浪し南北に行き交い、幾多の坂に、幾多の谷に、走り疲れながら猶(なお)辛いとしないのは、心を霊地の霊気に涵(ひた)し、念(おもい)を浄業の浄味に育んで、正覚(しょうがく・悟り)の暁を期すためである。鏡に対(むか)えば髪の乱れを愧じ、金を懐にすれば慾が亢ぶる習い、善くも悪くもその環境に因(よ)りその機会に随って、凡夫の思惟は移るものであれば、ただ後の世を思う者は眼に仏菩薩の尊容を仰ぎ、口に長い陀羅尼経の法文を誦して、夢においても現(うつつ)においても繁華の巷(ちまた)に立入ること無く、朝も夕も山林閑寂の郷(さと)で行い済まして居るべきである。首を回(めぐ)らせば往時(むかし)は可笑しいことであった、世の春秋を過ごしては花に喜び月に悲しみ、やたら七情を往き来させて泣き笑いして過ごしたが、思い立って墨染の衣を纏ってから今は既(は)や、指を数えれば十三年に及ぶ秋も暮れた。修行の年も次第に積もり、身もまた初老に近づいて、流石に心も澄み渡り乱れることも少なくなって、旧縁は次第に去り尽して胸に纏わる雲も無い。忽然とその初めて一人で来りし此の裟婆に、今は孑然として一人立つ。待つは機熟して果(このみ)の落ちる我が命の終りの時だけ、アラ快い今の身よ、氷雨(ひさめ)が降るとも雪が降るとも、憂いを知らない雲の外に嘯(うそぶ)き立った心地して、浮世の人の厭う冬さえ却って中々おかしと見る、この我が思いの長閑さは空飛ぶ鳥もただならず。しかし禅悦(ぜんえつ・禅定の喜び)に執着するのも亦(また)これ修道の過失(あやまち)と聞けば、ひとり一室に籠って驕慢の念を萌(きざ)すよりは、歩みを処々の霊地に運んで寺々の御仏を拝み奉り、勝縁を結んで魔縁を斥け、仏事に勤め俗事から遠ざかるが賢いと、そこに一日、かしこに二日と、此の御仏、彼の御仏の区別無く、夫々の御堂を拝み巡っては、或いは祈願を籠めて参籠の誠を為し、或いは和歌を奉って讃歎の意を表わして来たが、仏天の御思召(おんおぼしめし)にも適(かな)ってか聊(いささ)かの冥加も有るとみえ、幸に道心のほかは他心(あだしこころ)も起さず、勝縁を妨げる魔縁にも遇わずに、終(つい)に今日に及ぶことを得たり。既往(きおう)の誠を欣ぶべきではあるが将来も猶(なお)御頼み申したく、長谷の御寺の観世音菩薩の御前に今宵は心ゆくまで法施を奉ろうと立ち出でたが、夜々に霜は募って樹々の紅の増す神無月の空はやや寒く、夕日は力無く入って、晩(おく)れ百舌(もず)の声だけが残る暮れ方の憐れさが身に浸む。見れば路辺の草のいろいろが、どれとも知れず皆同じように枯れ果てて崩れ折れ垂れ伏している。珍しくもない冬野の状態(さま)は、取り出して云うべきこともないが、その時の我が思いに合うところもあり。情を結び詞(ことば)を束ねて歌に成れば成しても見よう、オオそれよ、様々に花の咲いた野辺も今は同じ色に霜枯れている。アア我も他人(ひと)も共に終(つい)にはこのように、男女美醜の区別無く同じ色に霜枯れもしよう、何の翡翠(ひすい)の髪の状(さま)や花の笑いの顔(かんばせ)が有るだろうか。まして夢を彩(いろど)る五欲の歓楽(たのしみ)、幻を織る四季の遊娯(あそび)、何れも虚妄(いつわり)でないものは無い。ただ勤むべきは菩提の道、南無仏、南無仏、と観じ捨てて、西行独り路(みち)を急ぐ。

 その二

 弓張月は次第に光り増して、入相(いりあい)の鐘の音(ね)も収(おさ)まる頃、西行は長谷寺に着いたが、寄れば驚き迎える仏門の友も無いでは無いが訪れずに、直ぐに観音堂に参上する。ただでさえ梢の透く樹々を嬲(なぶ)って夜嵐が誘えば、ハラハラと散る紅葉などが空に狂い吹き入れられつつ、法衣(ころも)の袖にかかるも憐れに、また仏前の御灯明が目瞬きして万(よろず)のものが黒み渡る中に、ごく幽かに光を放つのも趣きがある。法華経の品第二十五を声低く誦すれば、何となく常よりは心も締まり身に浸みわたる思いがして、猶も誠を籠めて誦して行くと天も静まり地も静まり、人も全く静まる、時と云い、処(ところ)と云い、相応(ふさわ)しく、我が耳に入るは我が声であるが、もしかして随喜仏法の鬼神などが、声を合わせて共に誦するかと疑われるまで、この上も無く殊勝に聞こえ渡る。特に参った甲斐があった、菩薩も定めしこの折のこの行いを善(よし)として、必ず納受(のうじゅ)し玉われるであろう、今宵の此の心の澄み切った清(すず)しさを何に例えよう、余りに有り難くも尊く覚えれば、今宵は夜もすがら此の御堂の片隅に趺坐(ふざ)をして、暁がたに猶一度、誦経を為し参らせて、サテその後は香華をも浄水をも供し参らせようと、西行はやがて三拝して御仏の御前を少し退がり、影暗い一ト隅に身を置いて、凍った水か枯れた木か、動きもせず音も立てずに、寂然(じゃくねん)として坐り居る。
 夜は沈々と次第に更けて風も睡るように静まる。右左に並んで立つ御灯明は一つ消え、また一つと消えて、今は唯ごく高い吊灯籠の光りが、朦朧と力無く夢のように残るだけ。この寺の此処の僧共は寒気に怯えて所化寮で炉を囲んでいるのであろうか、影さえ終(つい)に見せる者も無い。語るべき人も無く静かであれば、日頃焚く香の余気であろうか、幽かに香の匂いが流れ来るのが能く分かる。この時に何者かがコチラを目指して来る足音がする。御仏に仕える此の寺の者が、灯燭(とうしょく)を続(つ)ぎに来たかとフと見れば、御堂の外は月の光りに白々として霜を置いたように見える中を、寒さに堪えずに頭には何やらを被っているが、正しく僧形の者が歩み来る様子である。気になる事は無いが、何となく猶(なお)見ていると、やがて月の光のとどかない闇の方に身を入れたので、ハッキリとは分からないが、この御堂に向って一度は先ず拝がみ奉り、サテ静々と上り来る。御堂は広く灯は蛍ほどで、灯の高さは高くて互の間は隔たっている、アチラはコチラが居ると知らず、コチラからはアチラが能く見えないので、西行はただ、我と同心の人も亦(また)居るものかと思うだけであった。
 アチラはもとより闇の中に人の居るのも知らないで、静かに御仏の前に進み出て慎まし気に危坐し、幾たびか合掌礼拝をして一心の誠を表しているようである。同じ菩提の道の友である、その心映えの浅くないことは夜深くの参詣にて推測できる。衣の色さえ見分けられず、まして面(おも)は見ることも出来ないが、浄土の同行の人である、呼びかけて語らろう名を問おうと西行は胸で思うが、突然云うのは好く無い祈願が終った後にと、落ち着いてアチラを伺えば、アチラは珠数を取り出してサヤサヤと擦り始めた。針の落ちる音も聞くことのできる物静かな夜の御堂の真中に在って、水晶の珠数を擦る音の清(さや)かな響きが冴えて神々しい。御経は心に誦するようで、物音の絶えた中に珠の音だけがただ緩やかに緩やかに響く。その声の或いは明らかに或いは幽かに、或いは高く或いは低く、寐覚めの枕の半ばの夢に霰(あられ)の音を聞くようで、朝霧晴れない池の面に蓮花の急に開く音を聞くようで、小川の水が濁り咽ぶのか、雨の紫竹の友擦れか、山吹匂う山川の蛙が鳴くのかといろいろに聞こえて、一声の中に万法あり、皆与実相不相違背(かいよじっそうふそういはい・ 皆実相に違背せず)と、大層おかしくも聞こえれば、西行は感じ入って坐り居るが、する事を仕終えたのか、その人は数珠を収めて御仏を数度礼拝して、やおら身を起して退こうとする。菩提の善友か、浄土の同行か、契りを此の地で結ぶには今こそ言葉をかけるべきと、「思い入りて擦る数珠の音(ね)の声澄みて覚えず溜(た)まる我が涙かな」と歌の調べは好くも悪くも、西行が急(にわか)に呼びかければ、アチラは初めて人の居ることを知り、思わぬことに驚いたが、「何と仰せられましたか、今一度」と、心を鎮めて問い返す。聞き取れなかったかと思うまま、「思い入りて擦る数珠の音(ね)の声澄みて」と再び云えば後は云わせず、「貴方で御座いましたか、これはどうしたこと」と涙に顫(ふる)えるオロオロ声、言葉の文(あや)もシドロモドロに、身を投げ伏して取り付くのは、声音(こわね)も紛(まご)うことの無い、その昔は偕老同穴(かいろうどうけつ・夫婦仲良く)契り深かった我が妻である。厭いて別れた仲で無く、子まで生れた仲であれば、流石に男も心が動く、況(ま)して女は胸が迫って、語ろうとするも言葉が出ずに、岩に依り付く幽蘭の媚(なま)めくことはないが、ただ離れ難く涙を帯びるように見えた。
 西行はキッと心を張って、徐(しずか)に女の手を払い、「御仏の御前に見苦しいぞよ、今は世を捨てたる痩法師である、捉えて何を歎き玉う、心を安らかにして語り玉え、昔は昔、今は今、繰言(くりごと)など露ほども宣(のたま)い玉うな、何事も御仏を頼み玉え、心を留める世は無い」と諭せば女は涙を浮かべて、「サテは私を今も猶、世に立ち交りて月日を送る者と思われ玉いますか、灯火暗くあれど凡そは姿形(すがたかたち)で推察し玉え、貴方が崇徳天皇の時に家を出て、道に入り玉わられてから、宵の鐘や暁の鳥も聞くに悲しく、春の花や秋の月も眺めるに懶(ものう)くて、片親の無い児の知恵の敏いを見るにつけ、胸を痛め心を傷めましたが、所詮は甲斐無い歎きをするよりも、今生(こんじょう)は擱(さ)し措いて後世こそ助かろうと、娘を九条の叔母に頼み貴方の御跡を追い参らせ、同じ御仏の道に入って、高野の麓の天野と云うところで日々行いをして居ります、サテも貴方が御心のままに家を出るのを送り参らせた往時(そのかみ)より、我が子を人に預けて世を捨てた今日まで、何れも世の常として悲しいことの限り無いこと、別れ参らせた年は私の齢(よわい)もわずかに二十歳(はたち)を越えたばかり、又いとけなき幼児を離した時は六歳と云うあどけない時でした、老いて夫の先立つは泣いて泣き足る例(ためし)を聞かず、物言わない嬰児(みどりご)を失って心狂うは母の情、それを行く末もまだ長い齢(よわい)に、貴方とは訳無く別れ参らせ、可愛い盛りの幼児を見棄てる悲しさは、如何ばかりと思われます、されどこれ程の悲しさも女の胸で堪えに堪えて、鬼女や蛇神(じゃしん)のように過ごして来ましたのは、私の悲みを悲みとせずに、偏(ひとえ)に貴方の喜びを私の喜びとすればでありますものを、別れ参らせしより十余年の今になって、繰言(くりごと)を云うように思い参らせた拙さ情けなさ、貴方は我のための知識であらせ玉うれば、恨むどころか却って悦びこそ仕奉れば、彼(か)の世であれ貴方に遇い参らせたならば、貴方が家を出で玉いし後の私の身の上をも語り参らせて、能くぞ浮世を思い切ったとの御言葉を得たいものと日々思い居りましたが、別れた時は今生に御言葉を玉わることは復(また)と有るまいと思いましたのに、夢にも似たる今宵の逢瀬、幾年(いくとせ)の心遣いも聊(いささ)か甲斐ある心地して嬉しくこそ」と細々(こまごま)と述べる。折から灯籠の中の灯の香油は今や尽きに尽きて、やがて消える前の一ト明り、パッと光を発すれば、朧気ながら互に見る色の無い仏衣につつまれて蕭然として坐す姿、修行に窶れ老いた面(おも)ざし、往時(むかし)の花やかさは影も無い。
 これが往時の、妻か、夫か、心根可愛や、懐かしやと、我を忘れて近寄る時、忽ちフッと灯は消えて一念未生(みしょう)の元の闇に還れば、西行は坐を正して、「能くぞ思い切り玉いた、入道の縁は無量で順逆(じゅんぎゃく)正傍(しょうぼう)いろいろあるが、ただ往生を遂げるを尊ぶ、往時は世間の契りを結び、今は出世間(脱俗)の交わりを結ぶ、御身は私のための菩提の善友で浄土の同行であり悦ばしい、ただ、それほどまでに浮世を思い切った身にしては、懐旧の情はさることながら、余りに涙の遣(や)る瀬無く、私を恨むように見えたゆえ、先刻のように云ったのだ、既に世の塵に立ち交わらずに、法門に足を踏みしめる上は、少しも心を悩ます事も実は無い筈ではないか」と物優しく尋ね問う。
 慰められては又更に涙脆いは女の習い、「御疑い誠に尤もでございます、もとより御恨めしく思い参らせる節もなく、御懐かしくは覚えますれど、泣くほどのことでもございません、御声を聞き参らせると同時に、胸に湛えに湛えていた涙が一時に迸り出たために御疑いを得ましたが、その理由(わけ)は他(ほか)ならない娘の身の上、深く御仏の教えに達して宿命業報を知るほどならば、これもまた煩(わずら)いとするに足りずと悟れもしましょうが、そうも成らずに、ホトホト頭の髪が燃え胸の血が凍るように明け暮れ悩むのを、心強い貴方は何と聞き玉うか、聞き玉え、娘は九条の叔母の許(もと)へ養女と云うことにして叔母の望みで与えましたが、叔母には実の娘もあり年齢(とし)も互に同じほど、母の口から云うのも何ですが、容姿(すがたかたち)から読み書きに至るまで、甚だ我が娘は叔母の娘に勝っていれば、叔母も日頃は養女の賢い可愛(いとし)さと、生みの娘への自然な可愛(いとし)さと、優劣も無く育てておりましたが、今年は二人も十六になり、髪の艶や肌の光(て)りも、人の嫉(そね)みを惹(ひ)くほどに我が娘が美しので、叔母も育てたことを自ら誇りとして、せめて四位の少将以上でなくては嫁がせないなどと云いつのって、実の娘を却って心に懸けて居ないよう扱っていましたが、右大臣の御子の少将が図らずも我が娘を垣間(かいま)見玉いて、懸想(けそう)し玉う事が起り、叔母の心は大層頑固(かたくな)になって、日々に口喧(くちかしま)しく嘲り罵り、或る時は無法にも打ち擲(たた)き、密かに呪いの祈祷さえ知らない人に行わせたと云います、その少将は才賢く心性に誠があって優しく、特に玉を展(の)べたように美しい人なので、実の娘の婿にもと叔母が思い付くのも不思議でありませんが、その望みが思うようにならなくて、飾り立てた我が娘に少将が眼を遣(や)り玉わないのが口惜しいと、養女を悪く扱う愚さ酷さ、昔の優しかった時とは別のような人になって、奴婢(ぬひ)の見る眼にも見苦しいほどの振舞いをする時が多いと聞きます、既に御仏の道に入りいる私には今は子は無いと貴方は仰(おお)せられまするが、その貴方の子は美しく才も賢く生れ付いて、しかも美しく才賢く位(くらい)高い身分の人に思われながら、心の底ではその人のことを思わないこともないのに、養われた恩義の桎梏(かせ)に情(こころ)を枉(ま)げて自ら苦しみ、猶その上に道理の無い呵責を受ける憐れさを、貴方は何とか思われまする、棄恩入無為(きおんにゅうむい・恩愛の情を捨て世俗の執着を断ち切り悟りの道に入る)の偈(げ)を唱えて親無し子無しの仏門に入った上は是非もありませんが、事を知っては魂魄を煎(い)られる思いで夜毎の夢も安くなく、大層恐れのあることながら此の頃の乱れに乱れた心からは、御仏の御教えも余りに人の世を外れた酷い掟だと、聊(いささ)か御恨み申すこともありますほど、子でありながら子と云えないでは、親であるのに親でなく、世の外の人・内の人と知らん顔して過すのを、一旦仏門に入った者の行儀とするのも、無理なこと、春は大路の雨に狂い小橋(こばし)の陰に翻える彼(か)の燕でも、子を思っては日に百度千度も巣に出入り致しまする、秋の霜夜の冷えまさる草野の荒れ行く頃は、彼(か)の兎ですら己(おのれ)の毛を咬み毟って綿にして、風に当てまいと子を愛(いとお)しみまする、それに異(かわ)って我々は、僅か一人の子を持って、人となるまで育てもせずに、子供同士の遊びにも片親の子の肩は窄(すぼ)まる、その憂(う)き思いを四歳から為(さ)せ、六歳には継親を頭に戴く悲しみを為せ、雲の蒸す夏、雪の散る冬、暑さも寒さも無い山に花ある春の曙、月に興ある秋の夜も、世の常の人の娘等(たち)が笑い楽しむのに、似ても似つかず、味気無い日々を送らせることさえ既に情け無く、親甲斐の無いことであれば、同じ年頃の他家(よそ)の娘などを見るにつけ、アア我が子はと思い出し、木の片(きれ)、竹の端(はし)くれと成り極めた尼の身の、我が身の上は露ほども思いませんが、このような父を持ち母を持った吾が子の不幸を、可哀(あわれ)と思わない時はありません、況(ま)して此の頃の噂を聞き又余所(よそ)ながら見もすれば、心に春の風が渡り若木の花も笑(え)もうとする恋の山路に悩む娘の、女の身では瀬戸際の生きるか死ぬかの岐(わか)れに差し掛かる状態(さま)のその上に、実の子の愛に迷い入る頑固な老婆に責められて朝夕を送る胸の中、父上在れば、母在ればと、親を慕って血を絞り涙に暮れる時もある様子に、親の心は迷わずにはいられません、打捨て置けば娘は必ずアチラコチラの悲しさに身を淵河にも沈めましょう、それで無くても迫る憂さ辛さに終には病んで倒れましょう、御仏の道に入ってからは名目の上の縁は絶えましたが、血のつながりの絶えない間(なか)、親であり、子であり、血筋は牽(ひ)きます、忘れる暇(いとま)もあればこそ、昼は心を澄まして御仏に仕えまつるが、夜の夢の娘でない時はありません、若しこの侭に捨て置いて哀しい終りを余所余所しく見なくてならないのならば、仏に仕える自分(みずから)は鳥にも獣にも慚(はずか)しい、たとえ来世には金の光を身から放つと云えども嬉しくはありません、思えば御仏に仕える本意は我が身を助けようとの心だけで、子にも妻にも大層酷(ひど)い鬼のようなことで御座います、潔(いさぎよ)いようではありますが、自己(おのれ)一人を蓮葉の清きに置くその為に、人の憂き目に眼も遣らず人の辛さに耳も貸さず、世を捨てた上はと一ト口に、この世の人の様々を、どうともなれと斥け捨てるは卑しい様です、何故に尼になったのか、どのようにしても娘と共に過ごすべきであったのに、愚かにも自ら過ったことであると、今は後世安楽もそれほど望みません、地獄に墜ちても何でしょう、俗に還って娘を叔母から取り返そうと思ったことも一度二度ならずありました、しかしながら流石に日頃頼みとする御仏に離れ参らせるのも後ろめたく、心と心とを争わせ、どうする道もわからずに、幼い時から頼み参らせる此処の御仏に七夜参りの祈願を籠めたのも、娘の身の上の安かれと思う為ばかり、恰(あたか)も今宵は満願の時、図らずも御眼にかかり、胸には此の事あり此の念(おもい)があるのに、情けなくも貴方が往時(むかし)の家を出で玉いし時の御光景(おんありさま)まで一ト時に眼に浮かび来て、思えば娘が四歳の年、振分髪の童(わらべ)姿、罪も報いも無い顔にあどけない笑みの色を浮べて、父上父上と慕い寄り縋り参らせたのを御心強くも、縁から下へと荒々しく蹴落し玉いしその時が、娘の憂目の見初めだったと思うにつけても、悲しさに恨めしささえ添う心地して、御懐かしさも取り交ざり、なぜか涙を抑え難かったのは此のためでございます」と細々と語れば西行も幾度か眼を押しぬぐっていたが、声を和(やわ)らげてごく静に、「云い給うところ皆道理である、ただし娘の身の上の事は未だ知らないと見える、此の五日ほど前の事だが、私自ら娘を説き諭(さと)し、既に俗門を出でて法門の内に入らせている、いささか娘のことを聞いたので、眼前の苦悩を縁に後世の安楽を願わせようと、ただ一度会って話をしたが、親も羞じ入る利口者、宿智(しゅくち・長いあいだの経験で身につけた知恵)であろうか、その言うところ自然と道に適(かな)うところがあり、父上は既に世を逃れ玉いました、私も御後に従わおうとこそ思え、世に百年の夫婦も無し、何で一期の恩愛を説きましょう、たとえ思うことが叶い、望むことが足りなくとも、嫉(そね)まれ羨(うらや)まれて居ても詰まりません、もとより女の事なので世に栄ようとの願いもそれ程までは深くはございません、親が居なければ身を重じる念(おもい)もやや薄く、強いて御仏を頼み参らせて浄土に生れようとも思いませんが、如何なる山の奥にあっても、草の庵のその内に荊(とげ)や棘(いばら)を簪とし、粟や稗を炊(かし)いたりして、ただ心清(こころすずしく)しく月日を送りたいと思ったことは幾度(いくたび)と無くありました、睦むべき兄弟も無く、語らうべき朋友も持たず、思い残すこともございません、養われた恩恵に御答え参らすことの無いのは聊(いささ)か口惜しくございますが、大叔母君の現世の安穏と後生の善処を必ず日々に祈って酬い参らせましょう、また情(なさけ)ある人が一人有りましたが、何と申し交したことも無ければ別れ別れになるとも心残りも無く、雲は旧に依って白く、山は旧に依って青いだけ、全て俗世のことと思い切りました、早く導師となって剃度(ていど・坊主頭に)させ玉えと、雄々しくも云い出でたその心根の麗わしさを愛(め)でて、私もまた雄々しくも丈(たけ)なす黒髪を落し色ある衣(きぬ)を脱ぎ棄てさせて、四弘誓願(しぐせいがん・菩薩ご起こした四つの誓願)を唱えさせた、ヤ、何と仕玉える、泣き玉うか、涙を流し玉うか、無理は無い、菩提の善友よ、泣き玉うか、嬉しくて泣き玉うか、浄土の同行よ、涙を落とすか、定めし感涙であろう、オオ、余りの有難さに私もまた聊(いささ)か涙を誘われた、サテ美しい姫は亡せ果てて美しい尼君が生り出で玉う、青々とした寒げの頭、鼠色の法衣、小さな数珠、健気なこと申し分無し、高野の別所に居ると云う菩提の友を訪れると云って飄然と立って行ったが、その後の事は知る由も無い、燕(つばくろ)は忙しく飛び、兎は自ら剥(は)ぐ、親は皆自ら苦む習(ならい)であれば子を思わない人があろうか、ただし欲と楽の満足を与えて栄華を十分を享(う)けさせるのは、木葉(このは)を与えて子泣きを賺(すか)す以上に愚なことだ、世を捨てた人がまことに捨てたかと云えば、実は捨てない人こそ捨てるのだ、ただ幾重にも御仏を頼み玉え、心を留めるべき世の有ることは無い、南無仏、南無仏、」と云い終り口を結んでもう言わない。月はやがて入るのか西に廻って、御堂に射し入るその光りは水かとばかり冷かに、端然として合掌する二人の姿を浮ぶように御堂の闇の中に照し出した。
(明治三十四年一月)

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