見出し画像

幸田露伴の伝記「真西遊記・その八」

その八

 昔、釈迦仏が在世の頃に般若や法華などの大法を説かれた姞栗陀羅矩吨山(きりたらくたざん)、即ち一般に耆闍崛山(ぎしゃくつざん)と云われている山に参詣したところ、丘陵の連なった中にひときわ抜き出た高峰がある、形がまるで鷲のようなので別名を霊鷲山と呼ぶのも尤もと思われて、玄奘はしばし悠久の感に堪えなかったが、泣拝して退いた後は那爛陀(ナーランダー)寺に着いて初めて尸羅跋陀(シーラパドラ)大師にお会いした。ソモソモ那爛陀寺と云う寺は摩掲陀(マガダ)国第一ともインド第一とも云うような大伽藍であって、この地は元は菴没羅(アームラ・マンゴー)長者の花園であったが、五百人の商人が資金を合わせて十億の金銭で買い求め仏に献上したところだが、この国の先王の鑠釈阿迭多(シャクラーディトヤ)王を始めとして六代の王が絶えることなく造営した古跡なので、周囲をめぐる障壁は城のように大きく、中は八ツの伽藍に分かれ、宝台は星のように連なり、瓊楼(けいろう)は山のように峙(そばだ)ち、甍(いらか)は雲に聳(そび)え、軒端には霞がこめて、荘厳なその様は実に云うばかりもない。池には大きな蓮の花が亭々と緑なす水面(みずも)に開き、僧房の間に迦尼花(カニカーラ)樹が美しく輝き、外周に菴没羅(アームラ・マンゴー)の樹が森立する様子は、見る眼の塵も洗われる心地がする。この中に居る僧徒の数は常に一万人を超えていて、何れも大乗の仏法を学び、十八部を兼ね、俗典や吠陀などの因明(正邪・真偽を論証する法)や声明(音韻・文法・注釈の学)や医方(医術)などの研究検討をも怠ること無く寸時を惜しんで厳粛に修業して居た。尸羅跋陀大師は即ちこの那爛陀寺の総長であり、学業高く衆に抜け出て芳名が世に轟く、知徳兼備の老和尚である。玄奘がインドに入ってからは此の国の此の寺に此の人が居て、大乗の甚深な仏理に達して仏法の奥義を究めるということを聞いて、この人に瑜迦師地論を学んで年来の疑義を晴らそうと思ったので、インドの礼儀に従って大層恭しく膝行(しっこう)して、礼拝に真に志誠を尽した。
 尸羅跋陀大師は中央に座し、仏陀跋羅陀(ブッダバトラ)と云う七十余りの学頭がその傍らに控え、その他の弟子は二列になって威儀整々と控えている。大講堂の中は塵一ツ立てないよう静かに、微風の送る花の香りが薫じて、何となく心も清浄になったようで快い。その時、尸羅跋陀大師が口を開き、「法師は何処から来たのか、また何のために来たのか詳しく述べよ」と命じたので、玄奘は謹んで、「私は東方の支那の国の者で、瑜迦師地論を求めて万難辛苦を犯して此の地に参りました。願わくは大師、私の心を憐れ玉いて瑜迦師地論を授け玉いて、私の仏法の諸々の疑義を解き示し玉え」と答えると、尸羅跋陀大師は悦ぶこと限りなく、「よくぞ遥々と訊ね来た、お前の厚い求法の心は我が道のため仏のため大いに悦ばしく愛すべきことである。私は今年で百六才、寿命も既に傾いて無駄にやがて終ろうとする時にお前のような者に遇って、仏法流通のために尽すことを得たのは、仏祖に対する報恩の一ツにもなることで大いにうれしい。瑜迦師地論を説いて聞かせよう、またその他の疑義をも明らかに教え諭してつかわすので、辛抱強く此の地に留まって飽きずに教理を究めなさい」と云われた。永年の望みがここに叶って玄奘は躍り上がるほど悦び勇んで、王舎城などの種々の霊跡を猶も詳しく巡覧した後、寺に留まってそれからは学問三昧に入った。
 尸羅跋陀大師の厳密正確な講義が始まると、玄奘は必死になって永年の志望を無駄にすまいと耳をそばだて心を澄まして、日々の聴聞怠り無く、共に聴くもの数千人、何れも疲労倦怠を忘れて勉強した。十五ヶ月経って講義は一巡したが、猶も教え残しの無いようにと再度講義があって九ヶ月ほどかかったが、玄奘は猶も余すところなく明らかにしようと、更にもう一度講じられることを大師に願って、その奥義を学び尽くした。玄奘の好学はこれだけでなく、順正理顕揚対法などの論を一遍、因明・声明・集量などの論を各二遍、中論と百論を三遍づつ厭きることなく講義を聴いて、倶舎婆沙などは迦湿陀羅(カシミール)国で既に聴講したので此の寺では聴講しなかったが、詳しく質問した上に、婆羅門の書の毘迦羅論まで広く学んだので、五年の月日は忽ち過ぎ去った。しかし玄奘が猶も飽きずに頻りに学を貪っていると、「人の命の短さを以って果てしない学を究めるのも悪くは無いが、法は伝わらなければ役に立たない、自分ばかりが善を得てそれで可(よし)と云う訳にはいかない、今は支那に帰りなさい」と、尸羅跋陀大師は説き諭して、旅荷を調えて経論を与えた。この言葉に玄奘も悟って、「誠に仰せに従います。ただ此のインドの地に再度来ることはとても難しいので、此処まで来たのを幸いに南方諸国を経巡(へめぐ)って、猶も大徳などを訪れ、仏跡霊場をも巡拝して、その後帰りましょう」と答えて、仮の宿とはいえ住み馴れた那爛陀寺を後にして出立した。
 それから伊爛拏(イラーニヤ)国に着いて、怚多掲多毱多(タタータカタブタ)と孱底僧訶(クシャーティスィンハ)と云う二人の大徳に就いて一年ほど留まって学び、瞻波(チャンパー)国を野象の牙にもかかること無く過ぎ、奔那伐弾那(ブンナバッダナ)国、羯羅拏蘇伐剌那(カルスヴァルナ)国、三摩怚唾(サマタタ)国、躭摩栗底(タームラリプティー)国、烏荼(ウドゥ)国、恭御陀(コーンゴータ)国、羯錂伽(カリンガ)国を経て、南憍薩羅(南コーサラ)国で婆羅門を師として集量論を学び、案達羅(アーンドラ)国から駝那羯磔迦(ダーニャカタカ)国に入り、蘇部底(スプーティ)と蘇利耶(スールヤ)の二人の僧に就いて大衆部根本阿毘達摩論などを学び、二人と共に珠利耶(チョールヤ)国、達羅毗荼(ドラヴィダ)国に着いて、獅子(スィンハラ)国(スリランカ)の七十余人の僧と合流して建那補羅(コーンカナプラ)国、摩詞刺陀(マハーラタ)国、跋禄羯呫婆(バルカッチャパ)国、摩臘婆(マーラヴァ)国、契吨(カッタ)国、伐臘毗(ヴァラビー)国、阿難陀補羅(アーナンダブラ)国、蘇刺陀(スラッタ)国、瞿折羅(グッジャラ)国、鄔闍衍那(ウッジャイニー)国、擲枳陀(チチト)国、摩醯湿伐羅補羅(マヘーシヴァラブラ)国と次々と巡遊して、また蘇刺陀(スラッタ)国へ帰り阿點婆翅羅(アーディナヴァチラ)国、狼掲羅(ランガラ)国に入ったが、狼掲羅国から西北はペルシャの地なので、東北に行って臂多勢羅(ピータシャイラ)国、信度(シンドゥ)国に着いて、茂羅三部盧(モーラサンブル)国、鉢伐多(パルバタ)国と巡って鉢伐多の高僧に就いて学ぶこと二年、その後、道を東南にとって摩掲陀(マガダ)国の那爛陀寺に帰り、尸羅跋陀大師に久しぶりに再会して、那爛陀寺の西にあたる低羅釈迦(ティラダカ)寺と云う寺に住む般若跋陀羅(プラジャナパドラ)と云う大徳に二ヶ月ほど学んだが、ここに杖林山(じょうりんざん)に籠る一人の異人が居た。
 その人は僧ではないが、操行(おこない)高く学深く、勝軍(ジャヤセーナ)論師と僧や俗人に呼ばれて尊ばれること無類の人で、もとは蘇刺陀(スラッタ)国の王族の人であるが、幼時より学を好み、賢愛論師に従って因明を学び、安慧菩薩に従って大乗論小乗論を学び、玄奘の師である尸羅跋陀大師に瑜珈を授かり、教外の四吠陀をはじめ天文・地理・医・方術に至るまで根から枝葉まで究め尽さないことが無いので、摩掲陀国の先代の王の満冑(まんちゅう)王は使者を派遣して、「二十の大邑(だいゆう・大きな村)を与えるので国師になって玉われ」と要請したが応じず、満冑王が崩じて戒日(かいにち)王が後を継ぐと、「烏荼(ウドゥ)国の八十の大邑に封じるので何卒国師になり玉え」と要請したが更に応じずに、「王の務めを学ぶ暇は無い」と云って、杖林山に隠れ住んで明け暮れひたすら仏教を仏徒に講じている。そこで玄奘は杖林山に勝軍論師を尋ねて行き、唯識決択論や成無畏論などのいろいろな論を二年学んで、那爛陀寺に帰った。
 元来仏法は広大で、浅く説くものもあり深く説くものもあって、智慧の鋭い者のために精しく説くのも、智慧の鈍い者を早く悟らせるために説くのもあるが、病(やまい)に応じて薬が異なるように、薬は異なるが目指すところは一ツで、諸部の経論が各々異なるのも趣旨は皆同じであるのに、或いは甲を取って乙を謗り、或いは乙を奉じて甲を非とする弊害が免れない。那爛陀寺の師子光(スィンハラシュミ)と云う大徳は衆徒のために中論・百論を講じていたが、中論・百論を講じるついでにその論旨を述べて、瑜珈の義を悪いように述べた。玄奘が帰ると尸羅跋陀大師は玄奘に命じて、衆徒のために摂大乗論と唯識決択論を講じさせる。玄奘は「中論百論も知り瑜珈論も知っているが、双方の義は背(そむ)き合うものではないと説明して、ついに会宗論三千頌を著わして尸羅跋陀大師はじめ諸僧に見せたが、何れも善いと云わない者が無いので、師子光は大いに恥じて菩提寺と云う寺に行って、旃陀羅僧訶(チャンドラシムハ)と云う僧に頼んで玄奘に論戦を仕掛けて負かそうとした。しかしその僧は那爛陀寺に来て玄奘を見るなり一言もものが云えない。そして、「とても敵いません」と降伏した。(「その九」につづく)

注解
・姞栗陀羅矩吨山:耆闍崛山、霊鷲山に同じ。
・那爛陀寺:インドビハール州ナーランダ県中部にかつて存在した仏教の学問所。
・尸羅跋陀大師:ナーランダ寺の学長。玄奘に唯識を伝える。
・菴没羅樹:マンゴー、梵語名アームラ,漢訳仏典名菴没羅、ヒンドゥー教ではマンゴーは万物を支配する神の化身とされている。
・迦尼花樹:梵語名カニカーラ,漢訳仏典名迦尼迦羅、和名シロギリ、中々の大木で春に白い花を咲かせる、香木。
・伊爛拏国:今のモンギール辺りに在った国。二人の高僧についいて学ぶ。
・瞻波国:今のバーガルブール辺りに在った国。この国の南の密林に野象が多く生息していた。
・奔那伐弾那国: 今のバングラデシュ西北部に在った国。土地は低湿、気候は温和、農業が盛ん、学芸を好む。
・羯羅拏蘇伐剌那国:今のバングラデシュ西南部に在った国。金耳国という意味。仏法を迫害した設賞迦王の拠点とした所、住民が多く、富裕、学芸を愛好する。それぞれ多数の宗教を信仰している。
・三摩怚唾国:今のバングラデシュ西南部に在った国。民は身長低く、色が黒い、仏法は相当に盛ん。
・躭摩栗底国:今のタムルークに在った国。港町。玄奘は此処から獅子国(スリランカ)に行く気になったが、たまたま南インドから来た僧と会って、烏荼国からの船旅の方が安全だということで、烏荼国に向かう。
・烏荼国:今のオリッサ北部に在った国。学を好み、仏教が盛ん。
・南憍薩羅国:中インドの内陸部に在った国、龍樹や提婆ゆかりの地。
・駝那羯磔迦国:クシュナ河の河口付近に在った国。都城の南方遠く無い所に在る大きな岩山は龍樹の学統を継いだ清弁の修行の地。
・珠利耶国:今のネロール州に在った国。密林多く住民少なく、群盗の横行する恐ろしい国
・達羅毗荼国:カーチンブラ(今のコンジーヴェラム)に在った国。カーチンブラは古代インドの大乗仏教の僧である護法の故郷で、又、南海航路の門戸の地。玄奘は此処から獅子(スィンハラ)国(スリランカ)に渡る予定であったが、その国に内乱があって逃れてきた僧たちと遇う。
・建那補羅国:今のクルヌール辺りに在った国。一切義成太子の宝冠がある。
・摩詞刺陀国:今のマハーラーシトラ辺りに在った国。戒日王と戦って屈服しなかった。学芸を重んじ仏教も相当に行われていた。
・跋禄羯呫婆国:カンペイ湾の望んだ半島にある今のバローチェ辺りに在った国。土地は痩せ、住民は海水を煮て塩を作り、左官をとって暮らす。軽薄で学芸の尊さを知らない。
・摩臘婆国:学芸に勝れ、東のマガダ国と並ぶ芸文の国であった。
・阿吒釐国:今のカンベイの西南パヴリアリ辺りに在った国。学徳より財貨が貴いとする国柄。
・契吨国:今のカッチュ辺りに在った国。富裕の国。
・伐臘毗国:産物、気候、風俗ともに契吨国同様、富裕の国。国王は熱心な仏教信者。
・阿難陀補羅国:ここはもはや南インドでは無くて西インド。今のバナス河南方の地域に在った国。
・蘇剌陀国:今のカーチャーワール半島の西南部に在った国。西海航海の門戸。
・瞿折羅国:今のラージェプターナに在った国。国王は熱心な仏教信者。
・烏闍衍那国:今のウジャインに在った国。昔は仏教が盛んであったようだが数十か所ある寺も今が三四を残して壊れ果てていた。
・擲枳陀国:今のチトール付近に在った国。仏法は行わていない。
・摩醯湿伐羅補羅国:今のグワリオール付近に在った国。仏法は行わていない。
・阿點婆翅羅国:インダス河の河口付近に在った国。都城カチェスヴァラは港町。
・狼掲羅国:マクラーレン地方東部に在った国。この国はもはやインドのうちではなく、ペルシャに属して居たが仏教が盛んであった。
・臂多勢羅国:今のハイラバラード付近に在った国、土地は痩せ、寒風が烈しい。
・阿輿荼国:臂多勢羅国の東北三百余里に在った国。
・信度国:今のパキスタン北部スックル辺りに在った国、都城をヴィチャヴァブラと云う。国王以下仏教を篤く信仰している。
・茂羅三部国:今のインダス河上流のムルタン辺りに在った国、インド全土から参集する日神(太陽神)の祠があった。
・鉢伐多国:今のパキスタンのハラッパー遺跡辺りに在った国、賢愛(パドラルチ)、徳光(グナブラバ)等の仏教学者の生地。玄奘が訪れた時も高僧が居たので二年間学んだ。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?