見出し画像

幸田露伴の小説「二ツ鏡」

二ツ鏡

    上

 財の乏しい者は人に材を与えることが出来ない。時の乏しい者は人に時を与えることが出来ない。私・・黒枝冬之助は、財を成す才能が無いから貧乏で、貧乏なので暇無しで、心で思っても物事は思うように行かず、年始年頭風雨寒暑の見舞いなども、やっと義理を済ます位の事で歳月を送っている。しかし、いささか自ら期するところがあって、財に乏しく時に乏しいのは仕方ないが、せめて胸の内の美(うるわ)しさだけは乏しくないようにして、粗末な衣服を着ていてま、恥ずかしくない人生を過ごしたいと考えているのである。
 今から丁度五年前の事である。私の兄は冶金学を修めて、その道の技師となって居るので、仕事上九州の或る新鉱山に出掛けなければならなくなった。ところが不幸な事に兄はその少し前に妻に病没されて仕舞っていて、男やもめに甚く困りながら六ツになる男の子を抱えているところへ、生憎乳母にまで病気をされて、いよいよ出立という間際になって、足手纏いの幼い子を連れて知らない土地の山の中に入っても行かれず、ホトホト窮地に陥った。そこで嫂(あによめ)亡き後の子供が可哀そうと私の妻が折に触れ優しく可愛がっていて、そのため甚くその子も懐(なつ)いて居るので、兄は私達夫婦に、「済まないが一時だけ、倅を預かって呉れないか、知っての通りの事情でどうしようも無いから」と云う頼みである。私は兄の庇護で教育も受け一戸を構えることが出来た身なので、平素から感謝の念(おもい)を抱いて居て、このような依頼を受けて夢にも断る訳がない。特に私達夫婦には子が無いしするので、却って家庭に一朶(いちだ)の花を添えるくらいである。で、「差し当たりの御困りは御尤もでございます。宜しゅうございます御預かり申しましょう」と快く引き受けて、気掛かり無く出発させた。
 一ト月ばかりは何事も無かった。可愛い兄の子は種々(いろいろ)の面白い挙動(ふるまい)や意外な物言いをしたりして、私等を笑わせ、私等の家庭を楽しくした。
 が、しばらくすると、黒雲は何故とも無く私達の頭上を蔽って来て、平和な日の光を意地悪くも遮った。私の妻がインフルエンザにかかると同時に兄の子もまた同じ病気に罹った。話はサアこれからなのである。
 病気を撃退するためには力を惜しんではならない。余裕のある生活ではないが、肝心の妻に寝られていてどう仕様もないので、そこで看護婦を雇って薬餌その他一切を手の届くだけは充分にした。妻も大切だが、この方は云わば我が身同様では有るし、また病気に抵抗する力も大人だけに頼もしく見えるので、心配しない訳では無いが比較的心配しない。ただ兄の子の方は何と云っても子供では有り、身体も小さいし、駄々をこねて薬を飲まなかったりするので大いに気になる。危ないほどの重体ではないが気にかかってならない。兄の唯一人の子である。秘蔵の子である。頭を下げて手を着いて頼んで行った子である。と、こう思うとどうも気になってならない、一刻も早く治って機嫌の好い笑顔を見せて貰いたいものだと思う、イヤ気になってならないどころではない、気にしなくてはいけないのである、貰った子ではない、預かった子である、満足で預かった者は満足で返さなければならないのである、病気をさせただけでも既に済まないのである、万一の事でもあったら兄に合わす顔はないのであると思いもして、妻の枕辺に寄ることが五度ならば、兄の子の枕辺に寄ることは十度というように大切にしたのである。
ところが、妻の方も急には快(よ)くなって呉れず、子供の方もまた一寸治りそうに見えない。妻の方はまだ悪くなる程では無いのでいささか安心だが、どうも子供の方は捗々しくない。癇が昂ぶって泣いたり焦れたりする、夜中に起きて無理な強請言(ねだりごと)などをする、看護婦を嫌がって、言うことをきかないばかりか、薬なども抛り出したり吐き出したりする、イヤハヤ人を困らせる、そのうち日数が経つに随って段々と容態が悪くなって来て、別に他の病気が出たというのでは無いが、私は次第に不安になって来た。
不安の感じが募るにつけて私は責任の重大さを感じないわけにはいかなかった。何事も運命とは云え、私の力の及ぶ限りを尽して不幸を防ぎ幸福しなければならない。義理に於いて、人情に於いて、自分の持っている一ツの信仰・・行為に現わせないまでも胸の内は美しくなければならない。というその信仰に於いて、どうしても極力親切に温かな心で、出来る限りの誠を尽して、早く回復させ健康にしなければならないと感じた。
 どうも病状が良く無くて、熱のためか知らないが怯えて泣く。泣き出しては看護婦の言うことなど聴かない、かろうじて私の言うことを少し聴く位なものである。勿論平生から妻を除いては私が一番馴染んで居るのだから然様(そう)なるべき道理であるが、何も彼も私ばかりを子供は頼りにして、一にも叔父さんに二も叔父さんと云うのだから、妻が寝て居る今では、地蔵になって慰め賺(すか)して遣るのも、鬼になって我儘を叱ったりするのも私一人なので、夜もその側に寝て遣らなければならない始末だ。
 病気の絶頂という頃だったろう、三夜ばかりは服も替えては寝なかった。全く私は子供の側に丸寝をして、看護婦が甚く気の毒がる余りに、「宜しゅうございます。わたしがお引き受け申しますからおやすみなさまし」と云って呉れたが、「こうして看病して遣った方が私の気が済むから」と云って介抱をしていた。
 で、看護婦は大いに感動して、「コチラの旦那様のように御優しい方は中々有るものではありません、御自分の御子様でもないのに寝る間も寝ないで御介抱なさる、」と云って陰で評判をする。それを聞いた時は、正直云うと聊(いささ)か満足のような気がした。
 忘れもしない寒い夜であった。子供は熱のせいでオチオチ寝付かない。しばしば眼を覚ましては情けない声で「父さん、父さん」と呼ぶ、仕方なしに私が「アイヨ」と返事をしてやるが、私は勿論父さんでは無いので、子供は直ぐ悲しく感じると見えて、オロオロ涙になる。痰が喉に絡む、咳き込んで苦しんでいる、「イヤだイヤだ」と焦れ出す、「叔父さんが此処にこうして居るから泣かなくても大丈夫だよ、治ればお前の行きたいところへも連れてって上げるし、欲しい物は何でもあげるから、おとなしくして早く良くならなくちゃいけないよ」と、優しく慰めてやるとヨウヤク承知して、涙で一杯の目で私を見ながら無言で承知の気持ちを示すが、直ぐまた悲しい声で「叔母さんは」と訊く、仕方ないから「叔母さんも病気でアチラで寝て居る」と云うと、「イヤだイヤだ、叔母さんが病気じゃイヤだ」と訳の分からないことを云って人を弱らせる。「そんなこと仰らないで、サアこれを御服用(おあがり)になると良い気持ちになりますからと云って、看護婦が薬などを差し出すと忽ち怒ってそれを搔き退けて仕舞う、そこで私が頼むようにして「叔父さんがお願いだから一寸飲んでおくれ」という調子で云うと、ヤット承知して飲む。脳症を起こしそうになるので氷嚢で頭を冷やすのでも、又は暖めてやるために湯たんぽを脚の方へ入れるのでも、牛乳を飲ませるのでも、卵黄を食べさせるのでも、夜具を掛けてやるのでも、何もかも私で無くちゃ子供が承知しないから、みんな私がしてやる。どうも子供の事ではあり、病気で癇が昂ぶっているせいでもあるので仕方ないようなものの、何のことは無い私は看護婦の命令を実行する役をしているような境遇(はめ)になった。
 私は日常不規則な事は好まないので、一定の時間に起きて一定の時間に寝る習慣なので、連日連夜の看病には苦痛を感じない訳には行かなかった。しかし私はこの苦痛に耐えなければいけない、この位の些細な苦痛に堪えないようでは、「せめて胸の内の美(うるわ)しさだけは、乏しくないようにしなければならない」と云う平生の信仰なり自負なりをどうするんだと、勇を鼓舞し自ら忍んだ。
けれども、ロクに寝ないのが毎晩続いて来ては正直なところ閉口してきて、忘れもしない寒い晩のことであった。私は看護婦の連日の苦労に深い感謝の情(おもい)を懐いているので、子供の加減もいささか良く、スヤスヤと寝て居るのを見て、「どうか今のうちに御休み下さい、また起きて戴く時は戴く時で遠慮なく起こしますからと」と云って看護婦を別室に休ませた。看護婦は最初は辞退したが、終には私の優しさに感謝して退いて寝に就いた。
妻はアチラの方で穏やかに眠っている。子供は病苦の疲れでコンコンと寝て居る。夜は沈々と更けて来た。一室の中は静かでランプの油を吸う音が聞こえる位になった。すると何処からとも無く眠気が萌して来て我知らず頭が低くなる。目蓋(まぶた)が重くなる。気が朦朧となる。どうにもこうにも堪えようのない気持ちになって突っ伏して仕舞いたくなって来た。しかし、ヤこれは油断である、気の緩みである、意気地の無いことである、何時目を覚まして、また例の「父さん」を叫び出して、泣いて悲しみ焦れるかも知れない。焦れさせては癇を昂ぶらせて子供に良くないから、こうして起きているのに、居眠りしてはいけないと、一時(いっとき)は精神もハッキリして眠気を払うことが出来るが、サテまた忽ちのうちに眠気が襲って来る、眠るまいとガマンする、ガマンしきれなきなる。タバコをふかす、茶を呑む、伸びをしたり反ったり身体を動かす、それでもどうしても堪え難くなる、アア眠りたいという感じが真底から起こって来る。しかし眠るまいという意地もまた真底から起こって来る。寝れば身は楽だが、寝なければ心が楽である。起きているのが子供のためである、兄への義務である、道である、仁である、自分の信仰である、起きていてやらなければならない。と思って凛然としても、直ぐその下から眠くなって、頭の中に鉛でも籠められたような気がして来て、我知れず頭が低く垂れてしまう。正直に白状すれば、その時の私の心の中では、自分の信仰を棄てよう避難しようなどという気持ちはもとより微塵も起こさなかったが、しかし自分が信じている道だの、義だの、仁だのと云うものは恐ろしく重いものである、中々容易でない圧迫を感じさせるものであると、ごく内々に思ったのである。しかし私は自ら姑息に楽を得て寝ようなどとは夢にも思わなかったのである。本当に道義というものは辛いものだと思ったのである。と思ったことは思ったが、しかしそれを逃れて楽寝をしようなどとは、毛頭思わなかったのである。
 ところが私は終にトロリとして仕舞ったのである。眼が覚めて見ると子供は目覚めて泣いていて、その頬には涙が伝わって居たのである。そこで、アッ、自分は意気地なくも我知らずに寝てしまったのである、と自ら叱咤激励して、真に自分の怠慢を密かに侘びて優しく子供を慰めた上で、与える薬餌を与えて、しばらく相手になって子供の淋しさを紛らして遣った。
 やがて子供は一時間ばかりしてまた眠った。こう眠るようなら病気は先ず恢復に向って居るのだろうと悦んだが、また眠くなりだした。私はまた前と同じような感想を繰り返して、そして自ら強いて争った。今度は終に眠り倒れはしなかったが苦痛を感じたことは前と同様であった。が、とうとう眠り倒れずに夜明けを迎えた時は、何だか義務を完全に果たしたような一種の良い気持ちがして、道義との戦いに勝利したと云うのも大げさだが、人知れず嬉しさを感じて居た。
 子供は終に快癒した。兄からは心から感謝され、子供からは「叔父さん、叔父さん」と懐かしがられた。で、その翌年に私は、体重と知識と美(うるわ)しく発達した感情と一切の喜びを添えて、子供を確かに兄の手に引き渡した。


    下

 私はその後、幸いに子を持ったが、それが今は可愛い盛りの四才になったのである。
 一人っ子であるから鐘愛していることは無論である。どうかこの子が幸福に育って、技術や地位や富貴においては多くの人に勝れないまでも、汚くない心を持った一人前の人になるように祈るほかに、今の自分にはないほどである。で、一から十まで遺漏なく注意しているのであるが、時候の不順や何ぞのために仕方ないもので、丁度かつて兄の子が罹ったと同じような性悪な感冒(かぜひき)になって、そしてそれをこじらせたために大いに悩むことになった。
子を持った人は誰もが知っていることであるが、およそ世の中で何が困るかと云って、年のいかない子に患われることほど困ることは無い。無理は云うし、訳は分からず、痛いのも、痒いにも、ただピイピイと泣くばかりなのだから、どうにもこうにも仕様が無いのである。
 妻も非常に子煩悩なので、子供の病状が悪くなるにつけては一ト方ならず心配をして、寝る間も寝ないで熱心に看護をしている。なので、私は妻の知識と熱心とを信頼して一切構わないでも良いのである。けれども自然気になってならないから、日に何度となく自分の居間から出て、子供の寝て居る部屋へ行っては、「どうだイ容態(ようす)は」と訊く、そして体温が高過ぎることや、咳の苦しげなことや、食欲のないことを聞いては眉をひそめて帰るのであった。
 サテまた夜になると平時(いつ)もの通り床に就いて、子供の寝て居る部屋から丁度一ト間(ま)離れた部屋に寝ているのであるが、どうも気になってロクロク寝付かれない。一ト晩は寝なかった、その次の一ト晩も寝なかった。そのくせ妻の看病の疎かでないことを信じきって、自分は一切を妻に任せて全く差支え無いと思って居るので、安心して寝て居てよい訳だがどうも寝付かれない。その次の一ト晩もまたロクに寝なかった。もっとも病状が悪いからでは有るに相違ないが、そのまた次の一ツ晩もどうしても寝付けない。人寿は運命である。天がただこれを掌(つかさど)っているのである。小さな人間の心で幾らヤキモキ思っても仕様がないのである。手当てに不足が無いのであれば天を信じて良い訳なのである。我が子の幸せを祈るのは親の情であるが、こんなくだらない物思いをするのは理屈に合わない迷いである。とこう諦めてみても諦める直ぐその下から、アチラの方から小さい小さい咳の声が聞こえて来ると同時に、ア、今咳をしたが可哀そうに痰が切れないで苦しそうだ、もしや肺炎にでもなりはしないか、気管支炎にでもなるまいか、いやもう気管支炎になっていて医者が隠しているのではないか、などといろいろ頼まれもしない思い過ごしをする。イヤ、思っても善い事は無い、寝て仕舞おうと眼を塞いで夜具を被っても、ただわずかに細い声で悲しそうに「母さん」と呼ぶのがコチラの方まで聞こえて来て、気がハッキリとして仕舞って寝られない。寝られない余りにフと病気の事から連想して図らずも、兄の子の病気を看病した時の事を思い出して、愕然として恐ろしい一ツの感じに打たれた。
 兄の子の病気の時には一心になって看病した。夜も私は寝床に入らずに着たままで過ごしたほどである。道である、道義である、と自ら勇を鼓して勉めたのである。それで眠くなって眠くなって、忘れもしない、頭に鉛でも籠められたような気がして、終に一度は一寸寝てしまったのである。我が子が病気の今は信頼できる妻に託してある。寝て居ても善いので夜具に着かえて床に入っているのである。病状もどちらかといえば兄の子の時よりも軽いと云って良いのである。それなのに少しも眠くないというのはどうしたことか。今の眠く無いのに不思議は無い、真に愛の心が燃え立っているからである。あの時の眠かったのはどうしてだろう。アッ、愛の心が足らなかったからではあるまいか。いやそうである。心の底の底からあの子を可哀そうだと思っていなかったのではないか。可哀そうだと思わなかったのではないが、正直に云って見れば愛は足りなかったのである。アア私の心の美(うるわ)しさは乏しかったのである。愛をさえ多く我が心に湛えていれば眠りはそうまで襲わなかった筈である。眠るまいと思って努力したのもソモソモ醜いことであったのである。あの明け方に道義との戦いに勝利したような気持になって、自ら密かに悦んだことは、アア何と恥かしい卑しい気持ちで有ったことだろう。金貸しが元金を取り上げ得た時にその札束を並べてほくそ笑む心と幾らも変わらない。人は知らないが、アア、吾が兄の子に対して、私の心は実に美(うるわ)しさが乏しかった。今日という今日気がついて見れば顔から火が出る。もし人の心底を洞察する人が居て、その人に見られたら、どうしたらよいのだろう。と自ら省みて愕然としないではいられなかった。
 子供は教訓をその親に与えて、めでたく病気から回復した。鏡に向えば我が身が見えるものである。しかし二ツの鏡を用いないと吾が身の全部は見えない。何事も一トわたりで言って良いとは云えない。二ツの鏡を用いて見た上で無ければ安心することは出来ない。と、私はその後二面の鏡ということを心中で誦している。
(明治三十九年一月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?