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幸田露伴の史伝「頼朝⑦優美」

 優美

 頼朝が後年になって宗清や国広や守康や池の禅尼の子の頼盛に対して行った事や掛けた情は、恩返しと云えば勿論それ迄なので有るが、真に優しいと云えば真に優しい事である。ひるがえって囚われていた当時を思うと、小刀と桧板を求めて卒塔婆を作ろうとしたことなどは、実にめでたい孝子の真情であって、真に優しいと云わないでソモソモ何と云って之を表現できよう。つまりは父に愛されて育っている為に、父に対する愛情も素直に発達して居て、思慕敬仰の思いが深いので、聞く者を感動させるような振る舞いをしたのである。囚われの身で自ら卒塔婆を作ろうとするなどは、鬼界ヶ島の康頼の話よりも遥かに哀れな話である。義仲や義経や範頼を殺したところから世の人は無暗に頼朝を頭から角の生えている人のように思って居るけれども、それは通り一遍の論であって丁寧な論では無い。何処の馬の骨が書いたか知らない新聞の雑報などを信じて、天皇の信任された大臣を刺し殺しにかかる一種の人は、とかく悦んで昔の英雄などを罵倒するものであって、ともすれば炒り豆を咬み咬み楽しみながらダミ声を張り上げて手製の浄瑠璃を語っているが、猜疑と嫉妬と少量の覇気を除いたら、それらの浄瑠璃の中にソモソモ何が残るだろう。そう云う人に遇っては頼朝や家康公などは何時も散々であるが、冷静に考えれば炒り豆先生等が理由もなく威張り散らしている様子は、皮膚病患者が熱い湯に浴して愉快がっているようなもので、因(もと)は身体に皮膚病があるために熱い湯が快く感じるのと同様に、炒り豆先生はもともと持っている猜疑心や覇気の為に毒舌悪言を放って、昔の英雄らを罵って快を覚えるものと見える。頼朝や家康公はタマタマ大きな湯船に満々と湛えられた熱い湯であるので、炒り豆先生等の皮膚病には特に愉快を感じさせるものと見える。しかし炒り豆を齧りながら昔の英雄を罵るなどのケチな楽しみをする位なら、念仏を唱えながらソラ豆を田の畔などに播いた方が洒落ている。英雄となって人に罵られる事は出来ないまでも、一二の事を取り上げてシタリ顔をして昔の英雄を罵る事も無いだろう。頼朝は酷薄で恩愛が少ないなどと論じるのは、マズ大抵は酷薄で恩愛少ない人の論で、頼朝はソウ酷薄酷薄と云うだけの人では無い。第一に孝心の深い人である。たった十三の時までしか親と一緒では無かった人であるから、寒さ暑さの心配や衣食の奉仕や湯薬の世話などの世間の孝子のするようなことは仕無なかったのであるが、前に挙げた卒塔婆の話でもその一面は知ることが出来る。それだけでは無い、十四才で伊豆の蛭ヶ小島へ流されてから三十四で挙兵するまで、二十年間と云うものは、毎日毎日千百遍づつ仏名を唱えて居たので有って、その千遍は父親の菩提の為に、その百遍は鎌田政清の菩提の為にと云うのだった。念仏だ唱道だと云うと今の人は直ぐに詰らない事のように考えるが、詰らない事かも知れないが、二十年の間の毎日の勤行などは中々容易に出来るものでは無い。真心が無くては或いは怠け或いは止めて仕舞うものである。念仏が果して父や政清の冥土も福利に成るかどうかの論は措いて、とにかく父や政清の為に二十年、七千幾百日を怠らずに持続したことは、頼朝の亡父を思い亡臣を思う心の厚いことを立証するもので、その孝心と慈悲心は誠に普通を超えている。治承四年八月十七日に挙兵して山木判官を斬ったその翌日に、「今までは日々千百遍づつ仏名を唱え奉ったが、今日以後は戦場に馳駆し軍陣に往来すれば、戦闘に追われ念仏を忘れる事も有ろう」と気付き歎いて、妻の政子が経の読み方を学んだ伊豆山の法音比丘尼と云う聖尼に目録を与えて、日々自分の代わりにコレコレを行って呉れと依頼した事実が有る。して見れば戦場往来の忙しい身になっても、亡父や亡臣の冥福増進の為に仏事を怠ることの無いことを願ったのである。その日常の殊勝な行為が思い遣られるのである。尤も法音尼に頼んだ目録を見れば、父や政清の為ばかりでなくて、心経十九巻を一巻づつ、八幡・若宮・熱田・八剱・大箱根・能善・駒形・走り湯権現・雷電・三島明神第一宮・同第二宮・第三宮・熊野権現・若王子・住吉・富士大菩薩・祇園・天道北斗・観世音菩薩へ法楽に奉り、観音経一巻・寿命経一巻・毘沙門経三巻・薬師呪二十一反・尊勝陀羅尼七反・毘沙門呪百八反・これは祈願成就子孫繁昌の為に読誦するのである。今日から見ると心経を諸神に対して法楽として誦唱するなどは一寸異様に聞こえるが、当時にあっては神仏は絶対なもので本地垂迹説(神仏同体の説)が一般に認められていたのだから、不思議でも何でも無いのである。このように自身の為に神仏を頼み奉っていたに違いないが、あくまで亡父や亡臣を忘れないのは有り難い心掛けである。父の義朝の野間の荘の墓を誰も弔う者がいなかった時に、尾張の国を治めた平康頼法師が之を悲しんで一堂を立てて供養して呉れたのであるが、文治二年の閏七月にその恩を悦んで、康頼法師を阿波国麻植の保司に為(し)ている。建久元年の上洛の途中では野間の墓前で大仏事を行って居り、文治四年の盂蘭盆会には父の為に万灯会を勝長寿院で執行するなど、総て仏事追福は丁寧に之を行って、亡父に対しての孝養は少しも之を怠っていないのである(野間の義朝の墓所は今の知多郡柿並村大御堂寺)。そればかりでは無い、相模の小田原の近くに早川と云うところがある。その村に父の義朝の乳母であった摩々の局と云うのが、平治の乱のあとに京都から下って来て住んで居たのを、文治三年六月十三日に呼び出して、八十七才になっているパクパク婆さんに、サゾかしその言葉も聞きづらかったであろうが、父の在りし日の種々の事を語らせて天下人頼朝がしきりに落涙したと云うが、これ等も父上懐かしと思えばこその孝思の余りの事である。摩々にはその時に早河荘を与えて遣り、また後の建久三年二月五日にその婆々が九十二才でまだ達者で居たが、老い先短いので拝謁願いたいと云って、酒などを献上し鎌倉へ来たので、快く対面して憐憫の言葉を掛けて、前に三町、新たに三町、合わせて十町の土地を与えて年貢一切を免除して遣ったと云うが、これもまた父上が居玉わればコウされたであろう、と云う孝心の思い遣りから恵みを掛けたに違いないのである。聞き取りにくい婆さんの話がどれほど頼朝を泣かせたかは知らないが、鎌倉の将軍御所の中で、あらゆる艱難辛苦を嘗め尽くして天下を取った頼朝と、その頼朝の親の義朝を懐中に入れて育てたところの白髪雪のような老媼(ろうおうな)とが対話して、義仲でも行家でも草を刈るように殺して仕舞ったほどの男が、虚空へ消えた夢のような往時を追想して、涙眼しきりに弾く水玉の濁り無い心になって悲しんだところは、実に古(いにしえ)の詩仙の優秀な詩を読むようでは無いか、また実に画才抜群な人が描くのを待つような好画題ではないか。婆さんついでに思い出せば、義経の討伐に出て行った土佐房昌俊の老母に、建久二年十二月十五日に対面して、昌俊の勇気を褒めて物を賜って丁寧に老母を慰めているなどは、趣が違う瑣事ではあるが、その優しいところを現しているのである。頼朝は子のように十年過ぎても二十年過ぎても、また戦場馳駆の忙しい身になっても、父の冥福を願うことを忘れないほどの孝子なのである。人として既に孝である、その性質の美しいことを知るべきである。ナルホド義経を殺した、範頼を殺した、しかしそれは義経に反抗の事実があり、範頼に疑いの痕が有ったからである。一概に弟に情の無い人とは云えないので有って、義経を捕えようとして捕え損ねて、しきりに手を尽しているその最中に、弟の稀義の為には文治三年五月八日、土佐国介良荘に稀義の墳墓として寺(今の長岡郡介良の西養寺)を建てて料米を寄付し、源内民部太夫行景と云う者に、嘗て稀義を葬った琳猷上人を援助するよう全てに便宜を与えているが、稀義の為には、文治元年五月に琳猷上人が鎌倉に来た時に、既に介良荘・恒光名・津崎在家等をその供養料として与え、三年正月にはその墓田を雑人が乱暴するのを禁じる命令を出している。後になって建久元年七月十一日には、土佐の住人の夜須七郎行家に本領安堵の下文(くだしぶみ)を賜っているが、これは寿永元年九月二十五日に稀義が兵を挙げて、兄と呼応して平家を退治しようと思って居る最中に、国が土佐であった為、関東と違って平家が多くて、反対に逆襲されて止むを得ず自害して仕舞った。その時の敵の頭の蓮池権守家綱と云う者をこの行家が討ち取ったからなのである。勿論稀義は頼朝と同じ母の弟なのであるから、母が違う弟共よりも憐みも深かったのかも知らないが、稀義に対して追憶悲慕の思いが深かった事は、琳猷上人を愛重して関東に一寺を創立して住まわせようとしたり、餞別をしたり、しばしば命令を出して上人を尊くしたりしている事でも明らかである。稀義と能保の妻と頼朝とは同じ母の兄妹であるが、稀義だけは運の無かった人であって、また稀義が死んで仕舞った事は頼朝も運が無かったのである。何故かと云えば、同じ母で同じ父なら同じような性質の子が生まれるとは限らないが、稀義がモシ少しでも頼朝に似た気象の人で、せめてその「人取る淵は声を立てない」ようなところだけでも有ったならば、鎌倉の御所に立派な役者が一枚加わって、案外頼朝が酷薄な人で無いところを実際に示したかも知れないので有って、そう云う者が間に入ったならば、御影石と根府川石の間に真石が挟まった為に双方の石の角と角が触れ合わずに済むように、頼朝と義経の間も具合好い距離を保ったかも知れないのである。義経は瀬鳴りを立てて流れる川の瀬のように潔いところの有った人であるが、稀義は不幸にも若死にしていてその人柄はよく分からない。稀義の身の上はサテ措いて、頼朝はこのように弟に無情では無いのである。臣下に対しても随分と優しかった人で、鎌田政清の為に毎日百遍の念仏を唱えたことは前に挙げた通りであるが、建久五年十月二十五日に鎌田の娘が義朝と父政清の為に追善供養をした時には、政子と共に之に臨んで之に光栄を与え、且つ政清に男子が無かったので此の娘を尾張国志濃幾と丹波国田名部の二ツの荘の地頭補にしている。又その前月の二十九日には、三浦義明の為に三浦郡矢部郷にその祠堂を建立しようとして、前右京進仲業と云う者に土地を占わせている。義明は源家に対して尽忠至誠な人で、衣笠城に立て籠って腕の立つ次郎義澄や十郎義連や、和田義盛・金田範頼・長江義景・大多和義久等を頼朝の加勢の為に安房の国へ赴かせ、八十九才の老躯を以て自分一人城に立て籠って、治承四年八月二十七日の風雨烈しい中に城を枕に討ち死にした勇士であるから、頼朝にソウ思われるのは当然であるが、三浦一族には既に大碌を与えられて居るのであるから、頼朝のこの行為は義朝の恩に酬いることの厚いことを示している。石橋山の戦で運悪く無情な死を遂げた佐奈田余一義忠とその家来の豊三家康は、頼朝の挙兵の初めにあたって真っ先に駆け付け、源家の為に紅血を注いだ者であったし、特にその討ち死にの仕方が如何にも悲壮で、今猶これを聞く者に口惜しさを感じさせる程であるから、頼朝も時に之を思い返しては心を傷ませていたに違いないが、建久元年正月十五日に鎌倉を立って伊豆箱根両神社を参詣して同二十日に帰った時に、「今後の参詣は先ず三島明神と箱根権現に参詣して、その後、伊豆山から直ちに下向すべし」と定めたのは、伊豆山権現への途中に石橋山を通ると、そこには余一や豊三の墓が有る、それを見ると悄然として心動き蒼然として深哀が起こって、思わず落涙数行に及ぶので、参詣の途上でこのような事は好くないと神事を司る者たちが云ったため、石橋山の麓は帰路に通るようにしたのである。余一や豊三の墓前を通って、我の為に命を落とした二人を思うと、山の景色も暗くなり、水の流れも寂しく、松吹く風の音もそぞろ物悲しくなって、ハラハラと涙を落とすのを免れないので、道順を換えたと云うその頼朝が、ソモソモ優しい人で無くて何であろう。その後、建久八年に余一の菩提のために証菩提寺を建てているし、そのズッと前の文治三年十月二日には、由比ガ浜で牛追物を観たついでに岡崎四郎宅で余一の小さな子供を召(よ)び出して憐み慰めている。生きている臣下を優遇することは随分酷薄な人でもできるが、既に死んで仕舞った者を思い遣って、「去る者は日々に疎し」の諺に違って、悲哀の涙を煙り寂しく立ちのぼる墓前の草地に注ぐと云う事は、情有り誠有る人だけが出来る事である。余一の祠堂を建てようとし、余一の墓前で落涙し、遺児を憐れみ、仏寺を建てるなどの事は、ただ単に功臣を優遇して諸臣を鼓舞する意味から為した事では無い真に優しい感情の流露であって、悲しみが自然と湧いて涙が自然に流れたのである。千葉常胤が挙兵の初めに来たのに感激して「父とする」と云った事や、石橋山の戦の時に、敵の大場景親軍の陣中から裏切ってたった六騎で頼朝軍に馳せ参じた飯田家能を褒めて、「本朝無類の勇士である」と云った事などは、真に優しい人で無くても云いそうな言葉だから、臣下に優しい例には出来ないが、死んで仕舞って居る三浦義明や佐奈田余一に対しての事は臣下に情の厚かった事の証拠としても可(よ)いようである。伊豆箱根両神社の参詣や証菩提寺を建てた事のついでに説けば、頼朝は神仏を尊崇した人である。神仏を尊崇したからと云っても、それがその人の優しさを証拠立てる訳にはいかないが、時代の思想とは云え、人間以上に威力の有るものが存在することを認めて、そしてその威力あるものの教え、即ち神意や仏道に背かないことを願う心は、正しく驕慢では無く敬虔であり、粗剛横暴では無くて柔和温順であり、まとめて云えばつまりは物優しく美しいと云ってもよいのである。三島明神は伊豆に流されてから度々頼朝が参詣した神社で、その途中にまどろみの森と云う森が有って、頼朝が道に疲れて仮寝をした所だなどと云う俗伝さえある程である(無論、俗伝は信じるに足りないが、三島明神崇敬の事は確証が多い)。箱根権現と伊豆権現を崇敬したのもまた隠れない事であって、伊豆山から箱根に行く峰通りの道は背通り路と云って何度も頼朝が歩いた道である。伊豆山の蜜厳院の文陽坊覚淵と云うのは頼朝の師であって、頼朝は読経や念仏の事をこの人に習ったのであるが、ただそれだけで無く、交際甚だ濃やかであって、後に頼朝夫妻がこの人の御蔭を被っていることは少なく無い。伊豆に流されて二十年の後、以仁王の令旨を得て挙兵しようとした時に、千部の法華経を読誦してから決起しようという心願を立てていたのに、まだ八百部しか読誦していない。千部の読誦を終えてからでは機を失し事遅れて身を危うくする虞れがある、しかし、ここで直ちに兵を挙げれば神仏に対しての誓いが果たせない、頼朝の胸中に少なからず不安が生じた、その時、「既に八百部を済ませ玉えることこそ目出度けれ」と云って、八の字のめでたい事を説いて、「貴君は八幡大菩薩の氏人にして法華経八軸の持者であります、八幡太郎の跡を受け、八幡太郎の昔のように坂東八か国の勇士を従え、八逆の凶徒の清盛入道一族を退治すること掌中に在りでございます。」と云って、断然挙兵する事を勧めたのも此の文陽坊覚淵で有って、それが治承四年七月五日で、それから秘密裏に味方を募って八月十七日に山木判官を討ったのであるが、千部読み終わってからと思ったのに八百部しか読み終わっていないので、どうしようかと思い迷ったところは英雄らしく無いようであるが、この二百部の読誦不足を気にした正直な心根は、神仏をおろそかに仕無い、自分を欺かない、いかにも優しく穏やかな美しいことでは無いか。それだけでは無い、頼朝は幼い時から正観世音を信仰して居て、毎月十八日には普門品を誦し、放生をして、間違っても罪業がましい事などはしないで居たのである。ところが山木判官兼隆を討とうという時になって、十六日には頼みにしている佐々木四兄弟(太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱)が来る予定だったが日が暮れても来ない。十七日の夜明けには山木を討つ計画なのに、佐々木兄弟が来なくては人数が不足で手が出せない。佐々木兄弟を待って十八日の早朝となれば、十八日は観世音菩薩の日に当たり、年来潔斎しているのを破り犯すのも残念である。十九日になっては事が露見して仕舞って、却って此方が山木判官に押し寄せられて苦しい目に遇わせられるかどうかわかったものでは無い。そのため、十六日の夜の頼朝の苦悩は一ト通りのものでは無くておそらく一睡も出来なかっただろう。佐々木兄弟は洪水の為に来られなかったのであるが、事態は切迫して居るし、十八日は観世音菩薩の日であったりするので、それで十七日の夜に決行したのである。今から考えると頼朝程の者が詰らない信仰に囚われて苦悩したものだと、人は論じるかも知れないが、このような薄氷を踏むような時に当たってなお、観世音菩薩に背いて殺生するのは忍びないと思う心は、ソモソモ胸の中が広くて余裕のある証拠であるが、また実に心中に一片の優しさのある故では無いだろうか。それで朝駆けの計画を夜討ちに変更したのであるが、幸い三島明神の祭りで山木方の人数が少なかったりして、却って首尾よく山木兼隆を斬って仕舞ったのである。清盛が熊野神社や厳島神社を尊び仰いだり、大威徳法を修めたり、頼朝が神仏を尊仰したりしたのは、皆その時代の思想の潮流がそうさせたのだが、清盛の信仰には何となく自己の威徳の爲が見えるが、頼朝の信仰は自己の為ばかりではないように見える。神仏を崇敬すると、神仏に囚われていると今の人は頭から笑うが、囚われていても何でも清盛や頼朝は雄大魁偉の人物で、囚われて居なくても、咳の一ツでも出ると藪中竹庵先生を神か仏のように頼みに奉るようでは、そのヘロヘロした態度は余り立派でも無い。十八日は観世音菩薩なので山木を討てないと云って困るところなどには、全く自己中心の信仰では無い、奥ゆかしくも優しい清らかな情緒に基づいた煩悶懊悩が見える。定綱と経高は疲れ馬に跨り、盛綱と高綱は徒歩で、十七日の午後二時ごろにようやく参着した時に、頼朝が涙を浮かべたと云うのも嘘では無かっただろう。十六日の夜の頼朝の心中は察するに余り有るのである。一体に頼朝は隠忍の人であって、喜怒が顔に表れないことは誰もが知っている事であるが、成程それは軽々しい気さくな人では無かったらしい。アハハと笑ったり、コン畜生と云って怒ったりするような、そんな浅い人では無かったに違いない。前に云った通り、深い淵のような、物静かな落ち着いた様子の人に違いない。しかし下手に禅などを修めた人にともすれば有るような、木を彫って拵えたかと云いたいような、顔の筋を動かさない、そんな人では決して無いので有って。案外涙もろい人であって、或いは慨然として、或いは黯然として、或いは愴然として、或いは憤然凛然として、如何にも大様に、立派に、正直に、明白に、優美に泣いた人である。十七日に佐々木兄弟を見て泣いたなどは、余程複雑な思いで涙を浮かべたに違いないのであるが、要するに佐々木兄弟が頼み甲斐の有る男で、或いは馬に乗り或いは徒歩で来たと云うのであるから、鎧の縅(おどし)の糸も色汚れ、身は貧に窶(やつ)れていても、鉄石の心、火炎の意気、同じ兄弟でも五男の義清は平家側の大庭の妹を娶っているので誘わずに、碌な味方もいない小勢力の頼朝に加勢して、今を天下の平家に向って、矢叫びの声高く一の矢を切って放とうと云う、その勇猛誠実な思いに感激したのが主因であろう。山木の夜討ちから石橋山の戦、土肥の杉山の七度の返し合わせまで、佐々木兄弟の働きと云うものは一ト通りでは無くて、「頼朝が世を取ったならば日本半国を与えよう」と頼朝に云わせたほどの男達であるから、それが来なかった時の十六日の夜の頼朝の苦しみ、それが洪水を乗り越えて来てくれた時の十七日の嬉しさ、天下に領地も無く砦一ツ無く城一ツ持たない頼朝に加勢して、沸騰する釜の中へ飛んで入るような危ない企てに、真っ先に立って呉れようとする佐々木兄弟の、それほどの大丈夫で有りながら貧しい情けない姿を見て、種々の思いが一時に湧いて泣いたのであろう。佐奈田余一の墓前に泣き、摩々の局の昔話に泣き、土佐の坊昌俊の老母を見て歎いているが、神仏を崇敬する深い真心から、建久二年三月四日の鎌倉の大火で八幡宮が焼けて仕舞った時の、その六日には焼けた礎石を見て啼泣している。思い掛けない災害で人力の及ばない事とは云え、至誠足りず救護及ばず、いささか神徳を損なうことを歎いて悔いたのだろう。これ等も自己中心の利害から感傷しているのでは無く、敬神の念が厚いところから思わず知らず涙を落としたのであって、同じ頼朝の神への行為でも、治承二年七月や三年正月頃に伊勢神宮に奉弊したりしているのとは訳が違うのである。頼朝はこのように十四の春に都を追われた時に建部の宮で通夜をしたソモソモから、正治元年正月十三日に死ぬ(その二日前に剃髪する)まで、物心を覚えてからの頼朝は殆んど敬神奉仏の一生を送っていて、そしてその神仏尊崇が自利の為で無く、清らかな高い信念から出ていると思われる事実も多いのである。神と云い仏と云うものがモシ人間の擬人的に結晶した最高理想であるならば、キット頼朝などは十二分にその結晶した最高理想を持っていた人で、そして、その最高理想の実体は功名富貴などの卑小なものでは無く、仁義や道徳などの至徳を伴う至善至美なもので有ったらしい。頼朝と義朝は父子だが此の点で大いに異なっているが、思うに頼朝は母の方の系統の血を受け継いでいて、そのような敬神奉仏の思想を持っていたのでは無いだろうか。頼朝の母は人も知る熱田神宮の大宮司の藤原季範の娘であるから、その事跡は伝わっていないが神仏を信じて疑わない敬虔な婦人であったろうことは、当時の普通の思想とその特別な家系から自然と推測できることである。十三の春までこのような母に接してその感化を受けただけで無く、十四の春に伊豆へ流された時には、母の弟の祐範が人を付けて送って呉れたりしていて、その後も音信が絶やされずにいたようであるから、自然大宮司家の感化を受けたことは中々少なく無いと思われる。まして頼朝は年少の身で流罪となって、風冷雨凄の孤独に物淋しく過ごした二十年の春秋の生活は、花の開落を眺めるにつけ、月の陰晴を観るにつけても、宗教的思想を生じるものが有るではないか。であるから頼朝の優しい心は自然と神仏を崇敬するようになり、神仏を崇敬する情は自然と心の優しさや美しさになったように思われる。八幡宮の礎石を拝して泣いたのも、つまりは心の優しく且つ神仏を崇敬する念の厚いところから事である。建久四年五月二十八日の夜に、彼の名高い曽我十郎と五郎の兄弟が工藤佑経を討って富士の裾野を騒がした後に、兄弟が母に送った手紙を見て感涙滂沱した頼朝は、「その手紙は文庫に納めよ」と云ったと云う事であり、そしてまた、二人の養父である曽我祐信に対して曽我の庄の年貢を免除して二人の亡後を弔わせている。曽我兄弟は頼朝に取っては恨み有る伊東祐親の孫で、しかも巻狩りに参入して寵臣の工藤佑経を殺し、あまつさえ頼朝の居所に白刃を持って近づいたのである。であるのに、五郎を詰問してその事情を訊くに及んで、「この心を憐れんで許したいと思う」と云い、またその母に送る手紙を見て涙を流して、これを珍蔵しようとするに至っては、頼朝の心の広く優しいことを何で疑えよう。駿州富士郡厚原の八幡社の脇殿に曽我兄弟を祀って有るのだが、建久八年に岡部泰綱に命じて頼朝が両社を造立させて、富士郡御厨と仮宿郷を寄付したと云う事が本当なら、殆んど敵を愛するに近く、頼朝は一面に於いては恐ろしい人であるが同時に、一面に於いては誠に優しく愛すべき親しむべき人では無いか。アア、頼朝の娘の大姫は恋に死んでいるので有る。次男の実朝は歌人である。誰が頼朝の血が冷たいと断定できようか。いわんや頼朝が恨み有る伊東祐親を赦して生かそうとした事実に於いて、みだりに頼朝を冷酷の二字で評するようなことは、そもそもまた冷酷で情の無い言葉である。豆のような小さな石は丸いとか楕円だとか扁平だとか云い易くもあり、また云い尽くすことも出来るが、しかし山のように大きな石は、丸いとも云い難く楕円だとも云い難く扁平だとも云い難く、片々隻語では云い難くまた云い尽くすことは出来ない。頼朝などは大きな石である。片々隻語で之を表そうとするのはソモソモ間違いである。⑧に続く


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