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幸田露伴・支那(中国)の話「仙人呂洞賓②」

 開元の十九年、道者の呂翁(ろおう)が邯鄲を通ると、道のほとりの旅亭の中に、腰掛を置き敷物を敷いて客待ち顔の主人(あるじ)が居た。翁は袋を担いだままツと入り坐って、しばらく休んでいた。邯鄲村の若者で盧生と云う者が、短い毛衣を着て青毛馬に乗って、自家の田に行こうとして通りかかり、此処に休んで翁の近くの席に座った。一ツ二ツ言葉を交わすうちに互に心が合って、隔てなく語り合い笑い合いして打ち解けた。ヤヤあって、盧生は自分の服装(みなり)の見苦しいのに気づき、「アア男として世に在りながら、こうまで苦しいのはどうした事だ」と云う。翁が諫めて、「君の肌を見ると麗しく、身体もよく豊かにあぶらづいて何処にも病気らしいところも見えない、笑い合い語り合って、楽しく今日の日の光を浴びておられるのに、嘆き声を出されるのはどうしたことか」と云えば、盧生は、「私には何の楽しいこともおもしろいこともありません、ただ長生きをして空しく日を送るだけです。」と答える。翁また、「オヤオヤそれは同意できない、こうしているのが面白く無いのであれば、何を面白いと云うのかね」と云うと、盧生は腹立たし気に云う、「男たる者は功を立て名をあらわし、戦場に出ては将軍となり、朝廷に入っては宰相となり、食器をズラリと並べて食らい、美声を選んで聴き、三ツ葉四ツ葉の家造りをして、一家眷属末々の者までをも茂り栄えさせてこそ面白いと云えるのに、私は幼少から学を志し六芸を学び、いささか学び収めたところもあって、衣冠は望むまま、官位も拾うように手に入ると思っていましたが、思うようにならず願いも叶わず、男盛りとなりながら今なお田畑で朝夕を勤めるのは苦しむに非ずして何でしょうか」と云い終わると、希望に輝かない眼は自然と暗く、心に張りは無く、身体もだるくなって、急に眠むくなる。この時主人が黄色い梁(あわ)を蒸して昼食の支度を始めると、翁は自分の袋の中から枕を取り出して、「君これを枕にしたまえ、君の出世の希望を適(かな)えてあげよう」と云った。枕を見ると焼き物で、その両端に穴があいている。盧生は枕を借りて眠りについたが、夢とも現実とも無く、その穴が大きくて人の入れるほどなのを見て、身体を起こして中に入り遂にその家に着いて、清河(せいが)の崔氏の娘を娶(めと)った。その娘は姿甚だ麗しく、家産も甚だ盛んであったので、思いがけず幸福を得て、これからは着るもの乗るもの日々に華やかに好くなった。その翌年には進士に推挙され甲科に登り、初めて官の校書郎に就き、また制挙に応じた。制挙は天子が自ら詔(みことのり)をして非常な才能を見出す基本制度である。盧生は天子から渭南県尉に任命され、次いで監察御史、起居舎人と遷り変わり、次いで制誥となり、三年で舎人となった。次いで出て同州を治め、また陜州に転じる。土木工事に巧みで、陜西から河を開くこと八十里、それによって水運の便をよくしたので、土地の人々はこれを慶(よろこ)び碑を立てて徳を顕彰した。汴州嶺南道採訪使に遷り、ついで都の長安に入って京兆尹(きょうちょうのいん・都の長官)になる。この時玄宗皇帝は夷狄(いてき)と交戦していたが、吐蕃(とばん)の新諾羅(しのら)と副将の龍莽布(りゅうもうふ)に瓜州や沙州を攻め落とされ、節度使の王君𡙟(おうくんたく)は戦い敗れて死に、黄河上流や湟川(こうせん)流域の人々は震え驚いた。玄宗帝は将帥の大切な事を痛感して、遂に盧生を選んで御史中丞に任命し、河西隴右の節度使に仕給う。盧生は感激し力を尽して画策に努めて、やがて大いに夷狄を破って、首を斬ること七千級、領土を広げること九百里、三大城を築いて要害とし、西北の方面はこれによって安康を得られ、人々は碑を建てて功績を紀(しる)す。戦いを終えて都へ帰れば、玄宗帝はニコヤカに笑みを含んで迎えられ、極めて厚い論功行賞にあずかり、御史太夫・吏部侍郎を授けられる。玄宗帝の御覚えも目出度く、世人の信頼も得て、晴れた空に月がかかったような勢いになると、時の宰相の嫌うこところとなり讒言(ざんげん)を被って端州の刺史に左遷されたが、罪の無いことが知れて、三年で召し返されて戸部尚書に任命され、ほどなく中書侍郎・同中書門下平章事に配され、中書令の蕭嵩(すうこう)や侍中の裴光庭(ひこうてい)と共に大政を司ること十年、天下治平の計画や軍機秘密の事について一日に三度も聖問に答え奉り、玄宗帝を補佐して、思うことを隠さず申し上げることに怠りなく、賢相の名が上下に知れ渡ると、同僚達はこれを憎み、「盧生は辺境の将軍と共謀して謀叛を計画している」と讒言を言い触らす。すると玄宗帝の怒りを買い、雷が突如轟き雹が急に襲うように、急遽投獄される事になって、捕手の頭が多勢を率いて門に迫った。盧生はどうなる事かと驚き恐れ、泣いて妻子に対して、「私は、元は山東に住んで良い田を数百畝持ち、飢えず凍えずに暮らしていたが、何を苦にして仕官を求めて今ここにこうして居るのであろうか、アア再び短い毛衣を着て、青け馬に乗って、邯鄲の道を往き来したいと思っても、もう叶わない」と云って、刀を取って自ら死のうとするが、その妻が「早まりなさるな」と云って強く争って死なせない。とかくする中に同じ罪名の者は皆死罪に就いたが、盧生だけは宦官の弁護により不思議に生命が助けられて、遥か遠い辺境の地に流され、不遇な役を勤めて年月を送っていたが、玄宗帝がその無実であることを知り給われて、また召し還して中書令として趙国公に封じられた。また春に逢う梅の花、寒苦を経て来ると人も花も一入(ひとしお)愛でられる習いで、天恩はいよいよ厚く勢いは以前を凌ぐ。子供は五人いて、長男を僔(そん)という。その次は倜(てき)、倹(けん)、位(い)、倚(い)という。僔は考功員外となり、倜は萬年尉となり、倹は侍御史となり、位は大常丞となり、倚は最も賢くて年二十四にして右補闕となる。子供等の結婚先の家々は皆天下に名高い家柄で孫も十人あまり出来た。およそ二度も遠い地に流され、二度も高い位に登り、都と地方を往来し、台閣に活躍し、三十四年の間、世に時めき栄え、及ぶ者も無いほど輝き渡った。晩年になってようやく奢り楽しんで、舞姫歌姫は天下の第一を選んで、春の朝や秋の夜の宴楽のひと時を大層楽しく賑やかに騒いだ。前後に賜ったところの良き田や良き家、佳人や名馬は数えられないほどであった。そのうちに年は次第に老いて身体も衰えたので辞職を願ったが許されず、老病がやや逼(せま)るようになると、宮廷の宦官は聖慮を承(う)けて、「今朝はどうですか」「今宵はどうですか」と見舞いの使いが退きも切らず、また名高い医者や不思議な妙薬がことごとく枕辺に並ぶ。しかしながら人の世の定めであれば、限りある命もまさに尽きようとするのを知って、盧生は謹んで書を奉って、「私はもと山東の書生として、田畑の生活を楽しんで居りましたが、たまたま聖帝の御世に生れて、官職に連なることを得まして、忝(かたじけな)くも恩寵を頂いて、頻りに栄誉奨励を受けては、戦地に出でては指揮を執り、台閣に入っては宰相として内外に周旋し、幾年も御恩顧を頂いて任務に励んで参りましたが、お役に立つこと少なく御座いました。まことに能力も無い者が地位に在るは害のもとと、薄氷を踏む思いで日一日と勤め、老いが迫るのも気づかずに居ましたが、今年八十を超え、位三公を経て、意力も筋骨も共に衰え、長患いで力も乏しく、ほとほと余命も尽きようとして御座います。顧みますと私の忠誠尽力は陛下の君徳英明にお答えすることが叶いませんでした。空しく深恩に負(そむ)いて辞職することは、堪え難いことで御座います。謹んで表を奉(たてまつ)りお詫び申し上げます。」と書いて筆を止める。詔(みことのり)が忽ち下って云う、「卿は優れた徳を以て朕を扶け、辺地に出ては外敵からの守りを固め、朝廷にあっては政務を扶(たす)け、太平の二十四年間は実に卿に扶けられた。最近、病(やまい)を得たとのことを聞いて、日々に良くなるだろうと思っていたが、なぜか急に長患いとなるとは、まことに深く憐憫する。早速驃騎大将軍高力士を派遣して卿の邸(やしき)に見舞いさせる。針灸治療に勉めて朕の爲に慈愛せよ、思い悩まずに回復を願い、喜びの訪れを期せ。」とあった。しかし、その夕べ遂に死亡する。盧生は大きな欠伸(あくび)をして眼を覚ました。見ると自分は今まさに旅亭の中に臥して居て、振り返ると呂翁は傍らに居て、主人は黄梁(あわ)を蒸して未だ炊けていない、辺りの様子も物も皆元の通りであった。これに盧生は驚き起きて、「アア、夢であったか。」と云えば、翁は笑って、「人世の事はこのようなものだ。」と云う。盧生は暫く憮然としていたが、やがて感謝して云うには、「アア、寵辱(ちょうじょく)の運命も、得失の道理も、生死の情況も、悉く分かりました、これは先生が私の欲を塞ごうとしてなされたものでしょう、謹んで教えをお受けいたしました。」と、翁を再拝(二礼)して去って行った。

 盧生の夢は本(もと)はこのようであった。謡曲や「太平記」の記述に比べて、如何に「枕中記」の記述が情を尽し、事を尽しているかが看て取れる。邯鄲の一夢は、夢では無くて現実のようで、現実のようで却って夢であるところに、その妙味があるのである。謡曲や「太平記」の記述のように淡泊では、それほど面白くも無い。サテこの「枕中記」では、夢を見た人は盧生で、夢を見させた人を呂翁としている。夢を見た人が盧生であることは謡曲も同じであるが、夢を見させた人を呂翁とすることは、「太平記」が呂洞賓とするのと異なっている。呂翁と云えば呂氏の翁は皆これに該当するが、洞賓と云えば洞賓以外の人はこれに該当しない。呂翁は果たして洞賓であろうか否か。

 今は先ず、いささか「枕中記」を考えてみよう。「枕中記」の中に、翁の貸し与えた枕に穴があることを云う。これは思うに晋の時代の仙人である葛稚川が著わした「神仙伝」巻五に出ている泰山老父の枕から転化して来た話であろう。「神仙伝」に云う、

 泰山老父の姓字は分からない。漢の武帝が東方を巡狩された時に、老翁が道のほとりで田地を耕して居るのを見ると、頭上に高さ数尺の白光が有る。怪しんで之を問い給う。老人は年頃五十ばかりの人で、顔は童子の色をして、肌は光輝いて俗人と異なる。帝が「何の道術を持つか」と問われたが、答えて申すに、「私は年八十五の時、老い衰えて死が近づき、頭白く歯も落ちてしまいました。たまたま道者が居て私に教えて、穀を絶ち、ただ朮(じゅつ・オケラ)を服用し水を飲み、併せて神枕(しんちん)を作らせました。枕に三十二の穴があって、二十四穴を用いて二十四気に対応し、八穴を用いて八風に対応します。私はこれを行い、老を転じて若返り、黒髪は再び生じ、歯もまた生え出て、日に三百里を歩きます。私は今百八十歳であります」と云う。帝はその法を受けて玉帛を与え賜う。老父は後に岱山に入る。十年五年ごとに、時に郷里に帰る。三百余年経つが、未だ還って来ない。

 このような古談がある、即ち「枕中記」の文章はこれを借用転化したものであろう。今伝わる「神仙伝」では三十二穴を三十二物としている。枕中に三十二物を容れるのは難しい。物は穴の誤りだろう。その証拠に「芸文類聚」が「神仙伝」を引いて三十二穴としていることで分かる。「芸文類聚」は唐の初めに出た。馬聡の意林や欧陽詢が「類聚」の類を引用するところは、時に今の本と異なっていて、却って古(いにしえ)に求めたものがあるのは学者の認めるところである。

 「枕中記」は寓話の文か、はたまた事実の記か、世の人の多くは一篇の創作であるとしている。しかしながら、その作者の李泌は開元天宝から太暦貞元にかけて現実に生きた人で、「枕中記」が開元に実在した人の事を載せていることは、いささか考えるところである。「枕中記」に節度使王君𡙟の事が載っているが、君𡙟は字(あざな)を威明と云い、低い身分から起って勲功を重ねて、節度使・右羽林将軍となり、終には大将軍・晋昌県伯となった人で、青海の氷を渡って大いに吐蕃を破った時には、その凱旋するや玄宗皇帝は特に宴を設けて、君𡙟の妻の夏(か)も一緒に謁(げ)を賜い労をねぎらわれた。そして妻の夏は封ぜられて武夷郡夫人となり、君𡙟の父の寿(じゅ)は少府監となったほどで、「唐書」百三十三巻にその伝記がある。吐蕃の新諾羅とあるのは、即ち吐蕃伝に云う悉諾羅であって、兵を率いて大斗抜谷に入り甘州を襲って帰る際に君𡙟の為に大敗を喫した者である。後に新諾羅と副将の龍莽布は不意に乗じて瓜州に入り刺史の田元献と君𡙟の父の寿を捉え、進軍して玉門を攻め、人を介して君𡙟に云う、「将軍は常に自ら誇って忠勇なりと云うが、今一進して戦わないのはどうしたことか」と。君𡙟は当時心乱れて糸のようであったようで、城壁に登って西向し、声を呑んで痛哭し、「時の不可なるを以て兵を出さざる」と云う。「枕中記」では吐蕃に破れて死んだとあるが実はそうでは無い。君𡙟は以前、回紇(かいこつ)の澣海大都督承宗を首(はじめ)として回紇部の酋長の四人を謀叛ありと奏上したので、承宗は瀼州に配流され、その他も各々配流された。このため回紇は大いに君𡙟を怨んで、承宗の一味である澣海州司馬の護輸は隙を伺っていたが、たまたま吐蕃の使いが間道から突厥(とっけつ)に通じようとするのを君𡙟が軽騎を率いて粛州で捕らえ、帰還の途次に甘州まで来た時に、護輸は忽ち起って急襲した。君𡙟の兵は少なく、君𡙟は力尽きて戦死する。帝はこれを痛惜して、荊州大都督を追贈し、官でその葬儀を執り行い、張説に文を撰させ、帝みずから之を書して墓誌を刻まれた。君𡙟が青海で大勝したのは開元十五年の正月で、甘州で死んだのは同じ年の閏九月である。そして「枕中記」の劈頭に開元十九年とあるのを見れば、フロイドの精神分析では無いが、盧生の夢も由来するところがあると云うことが出来る。

 王君𡙟が死ぬと、「枕中記」では、帝が将帥(しょうすい)の人選を考えられて、遂に盧生を河西隴右節度使に仕給うとある。しかしながら事実を考えると、君𡙟が死んだ後に、主として吐蕃に当る任務に就いたのは蕭嵩(しょうすう)である。蕭嵩は蕭瑀(しょうう)の子孫で「唐書」巻百一にその伝記がある。それに云う、「吐蕃が瓜州を陥れ、回紇が君𡙟を殺す。帝は辺境の任務に堪えられる者を選ばれて、蕭嵩を河西節度使に仕給う」とある。これより蕭嵩は裴寛・郭虚已・牛仙客の三人を幕僚とし、張守珪を瓜州刺史として、智謀によって敵の雄将悉諾羅を死なせて、遂に副将の杜賓客や鄯州都督の張志亮や瓜州刺史の張守珪等を使って各々戦功を立てさせて、開元十六・十七の二年間において偉勲を立てた。そうであれば「枕中記」に云うところの盧生は唐史に載る蕭嵩のようでもある。

 「枕中記」に云う、「盧生は蕭嵩や裴光庭と共に大政を掌る」と。蕭嵩は吐蕃に大勝すると兵部尚書・同中書門下平章事となる。これは盧生が辺境の地で勲功を上げた後に、戸部尚書・同中書門下平章事となったことと殆んど同じである。裴光庭もまた当時の人で、史伝に云う、「裴光庭と蕭嵩はしばしば敵対する」と。これは「枕中記」に、同列者之を憎むとあるのに相当する。盧生は即ち蕭嵩であって、蕭嵩は盧生なる者に似ているといえる。史伝に云う、韓林が蕭嵩と位が同格となると、峻厳に妥協しないで正不正を帝の前で争うようになる。蕭嵩は恥じて隠退することを願う。帝はこれを慰め給いて、「朕には未だ卿が必要である、卿は何故去ろうとするのか」と。蕭嵩は伏して申し上げる、「私は勿体なくも宰相を勤め、爵位も既に極りました、幸いに陛下に未だ必要とされ任務についておりますが、必要とされなければ私の宰相としての任務も保てません。隠退して私人の生活に入りたいと存じます」と涙を流して云えば、帝も容(かたち)を改められて、「朕は未だ決断できない、帰れ、夕刻に詔(みことのり)をする」と云われる。そして、その日に宰相を罷めさせ給われた。蕭嵩のこの時の心中を誇張すれば、「枕中記」に云うところの、「再び短い毛衣を着て、青い馬に乗って、邯鄲の道を往来しようと思っても叶わない、」と歎かせたのと同じである。盧生の事は、何と蕭嵩の事に似ているではないか。

 蕭嵩はまた宦官の牛仙童に城南の別荘を贈った事で左遷され青州刺史となったことがある。これも盧生の一進一退の事跡と似ている。しかも太子太師の職に在って隠退することを請い、子の華は工部侍郎となり、衛は新晶公主に尚して三品に成る、一家貴くして富み、世は挙げてその栄華を羨むに至っては、盧生と蕭嵩は共にその終わりを同じくする。盧生あるいはついに蕭嵩であるか、無いか。盧生も年八十を超え、蕭嵩も年八十を超える。これも甚だ相似ている。蕭嵩は天宝八年に死して開府儀同三司を贈られる。「枕中記」を著わした李泌は、この時年二十八。

 盧生の夢と蕭嵩の事は実によく似ている。しかしながら明の湯顕祖は思う、「枕中記は殆んど李泌が自分を語る」と、であれば即ち作者の李泌が盧生であるのか。顕祖は思う、「李泌は若い時から神仙の学を好んで世主の重用されるところとなり、また頗る経営の才能があって、陜虢(せんかく)の観察使となっては、山を穿って車道を三門まで通じ、それによって食料の輸送を便利にする。また、しばしば吐蕃や西域の事を管理する。元載(げんさい)はその寵愛を嫉み、天子は之を庇うことが出来ずに、李泌を魏少遊の所に隠す。元載が失脚すると、李泌は再び召される。懶残和尚が「多言する勿れ十年の宰相を領取しよう」と言ったのは是なりと、後人は論じて云うが、もし、果たして李泌が自分を云うのであれば、何で之を盧生に託す必要があろう、殆んどまた夢中の出来事が、たまたま李泌と同じであることに因って李泌の作だとするだけである。」と、これは盧生の夢が李泌の事だと肯定できないだけでなく、「枕中記」が李泌の作だとすることさえ肯定できないとするものである。湯顕祖の言は是か、呂洞賓の集を刊行した後人の言が是か。

 李泌は「唐書」巻百三十九と「旧唐書」巻百三十にその伝記がある。これとは別に李泌の子の繁と云う者が冤罪を被って獄中で、死に際して、先祖の功業が失われようとするのを悲しんで、獄吏に廃紙を乞い求め筆を執って家伝十篇を著わした、その概略と思われる「李泌伝」一巻が今も残っている。「唐書芸文志」を調べると李泌の集が二十巻あるが、しかしながら今は残っていないようだ。二唐書の伝記と繁の伝記を併せ考えると、李泌もまた俊敏英明で滅多に居ない人であることは明らかである。李泌は玄宗帝の開元十年に生れる。七才で詩文を作ることを知り、開元十六年に、幼少にして異才あることが知られて宮中に招かれ、玄宗帝と宰相の張説が碁を観ておられたのに因み、詩を求められて之を作る。四言四句の一篇の詩は忽ち出来る。帝は大いに悦び給い、張説もまた聖代の吉兆ですと云う。ここにおいて宮中に留められること二タ月、家に帰されるにあたって、「正に善く之(李泌)を育てるべし」と玄宗帝から御言葉があった。張説は李泌を迎えて家に置いて、その子と一緒にして師友のようにさせる。張九齢や賀知章の輩は一目見て好意を抱き、皆心から李泌を愛重する。十六七の時に長歌行を作り、結尾二句に云う、「請う君、看取せよ百年の事、業就(な)りて扁舟五湖に泛(うか)ばん(見ていてください貴方、将来は業を為し終えて、范蠡のように太湖に小舟を浮かべて、去りたい)」と。張九齢が見て、「幼い身で大言してはいけない、身を慎みなさい」と、これを戒める。李泌は陳謝して以後は大言をしない。九齢はその心掛けのよいことを喜んで、その前途は測り知れないとする。また嘗て直言して九齢を諫める。九齢はこれに感じて、遂に小友(年下の友)と呼びかけて友とする。成長するしたがい博学や神仙の道を喜び、嵩・華・終南の諸霊山で修業して会得するところがあった。天宝十年に玄宗帝に召されて老子を講じる。勅命を受けて皇太子と身分を超えた交わりをする。楊国忠の忌むところとなって斥けられて蘄春郡に置かれる。「全唐詩話」巻二に「鄴侯家伝」を引用して、楊国忠が李泌を怒る理由の詩句を載せる。安禄山が反乱を起こして玄宗帝は都を逃れ、皇太子は北に向かい、霊武の地で即位(粛宗)されると、使いを遣って李泌を呼び寄せる。李泌もまた危険を冒して行在所(あんざいしょ)に赴き、古今天下対処の方策を述べて大いに御意を得る。官人に召されようとされたが堅く辞退して受けずに、客人として国事に尽すことを願う。政治においては大計に参画し、行幸に際しては御輿に付き随った。民衆は指さして云う、「黄色を召されているのは聖人で、白色を着ているのは山人である」と。当時、広平王は太子であり、建寧王は元帥であって、軍事の事は総て建寧王に属していた。李泌は密かに帝(粛宗)に申して云う、「建寧王は誠に賢明にあらせますが、広平王は家継ぎで人の君たる度量をお持ちです。なぜ呉の太伯とされないのですか」と、帝は云う、「広平は太子である、何で元帥とする必要があるか」と、李泌は云う、「元帥として大功をあげられれば、陛下はよき後継者を得ることになりましょう」と。帝は悟り給いて、広平王を天下兵馬の元帥と仕給い、李泌を元帥府の行軍長史と仕給う。粛宗がまだ皇太子であった時、宰相の李林甫の讒訴(ざんそ)に遇い、しばしば危いことがあった。このため帝位に即かれると林甫の墓を発(あば)いて骨を辱(はずかし)めようと仕給う。李泌がこれを止めると帝は、「卿は往時を忘れたか」と叱り給う。李泌の申すには、「私の思いは此の事にありません。今、上皇殿下(玄宗)は天下を有し給いて五十年、今は失意の中に蜀の地に行在されております。南方は気候も悪く、かつまた御年(おんとし)も高くございます。陛下が古い怨みを覚え居給えるのをお聞きになれば、内心に恐れを抱かれて鬱々となされるでしょう、万々一にも御病など召され給われることがあれば、これは陛下が広い御心で親を御安心させ給わないというものです」と云う。帝は感じて泣き給い、「朕は危うく大きな過ちを為すところであった」と云われ、御取り止めになり給う。官軍の勢いが次第に隆盛となり遂に両京(長安と洛陽)が元のように恢復すると、帝と上皇との間を善処して、上皇は喜こばれ、「吾まさに天子の父たるを得たり」と宣(のたま)われるに至ったことは、李泌の功績まことに少なくない。崔園や李輔国等が争いごとを起こすと、李泌は畏れて衡山に隠れた。粛宗が崩じて広平王が立って帝(代宗)となり給うと、代宗は李泌を召して蓬莱殿に住まわさせ、恩寵甚だ厚く処遇され給う。李泌は神仙道を好んで、肉を食わず、妻を娶らず、粛宗が嘗て弟の頴王等と夜坐する時に、自ら梨を二ツ焼いて李泌に賜る、頴王が乞うが与えずに、「汝らは肉を飽食し、先生は粒すら絶つ、何んで梨を争うか」と云い給う。頴王等は又云う、「先生への恩寵の厚いこと分かりました。私等は連句を以て将来の語り草にしたいと存じます」と。サテ頴王が先ず云う、

先生年幾許(いくばく)ぞ、顔色 童児に似たり。

信王次いで云う、

夜は抱く九仙骨、朝は披(ひら)く一品衣。

益王つづけて、

食(は)まず千鍾(せんしょう)の粟、唯餐(たださん)す両顆(りょうか)の梨。

三王は共に進んで、末の二句を請い給いければ、粛宗は、

天 この間気(豪傑の士が世を隔てて世に現われる特別な気運)を生じて、我を助けて無為に化す(特別なことは何もしなくても、天下は自然に治まる)。

とある。しかし代宗は李泌を重んじられる余りに、光福里に邸宅を賜われ、強いて召して肉を食わせ、また佳人を娶って後継の心配の無いようにされた。このように代宗は李泌を優遇された。これが元載や常袞等の忌むところとなったが、身を持った知恵で終(つい)に危険を避けることができた。徳宗の時に、吐蕃に安西北庭を与えようとする建議があった。李泌は、「安西北庭は西域五十七国と十姓突厥を牽制する重大な地であります。安西北庭がある為に蛮族は力を振るうことが出来ず、そのため吐蕃の東進を防ぐことが出来ています。それなのに今その地を与えては、関中(国)は危うくなります。与えるべきではありません」と云う。李泌の説を聴かれて事は取りやめとなった。李泌の伝の中で吐蕃に係わることはこれだけである。李泌がしばしば吐蕃や西域を管理すると云うが、それは何のことか分からない。言に誇張を感じる。貞元元年になって陜虢観察使に任命され、山を穿って道を開いて輸送を便利にする。その功績によって検校礼部尚書に栄進し、その後、三年の間、中書侍中・同中書門下平章事に任命されて鄴侯に封じられる。徳宗の太子の誦(しょう)は、その妃の母の郜国公主が呪詛の罪を得て、それに連座する者数百人及ぶ、太子の誦も帝の怒りを得て窮地に陥る。李泌が仲立ちに入ると帝は舒王の賢さを称え給う。李泌はこれによって帝に太子廃嫡の意(おもい)があることを推測し、その不可であることを申し上げる。帝は激怒して云う、「卿は朕の意に反す。卿の家族に累の及ぶ事を考えないのか」と。李泌答えて云う、「私は衰え老いて宰相の位に居りますが、御諫め申して罪を得るのであれば、もとより本望であります。将来陛下が太子を廃したことを悔い給われた時に、我が一子を殺すに際し、李泌はこれを諫めなかった、我もまた李泌の子を殺さん。と思い給われれば、私の家の祭祀は絶えてしまいます。たとえ兄弟の子があっても祭祀を受け継ぐことはできません」と。舒王が帝の弟の子であって帝の子ではないので、李泌はこう云うのである。帝は翻意しない、李泌もまた争って屈しないで、涙を流し、嗚咽して諫めれば、帝は遂に悟り給いて太子の安泰は得られた。李泌の一生の中で身の危険を冒したのはこの時だけで、枕中記の中の「アア、再び短い毛衣を着て、青い馬に乗って、邯鄲の道を行こうと思っても叶わない」と歎かせるようなことは、この事の他には見当たらない。この事は「李泌伝」および「唐書」の伝記に載っているだけでなく、「唐書」の順宗紀にも、「徳宗これを疑い、殆んど廃されようとする事しばしばなり、李泌の保護によりて乃(すなわ)ち免れる」とある。李泌は徳宗の貞元四年八月に、月が東壁に月食したことで、自らの死を覚悟し、翌五年三月に死んで太子太傅を追贈される。

 李泌は若い時から神仙や不思議な事を好む。年十五の時、白昼に天に昇ろうとする。空に異香の気や霊楽の声があると云う。家人はニンニクを摺って大きな柄杓で之を撒いて、臭い匂いで神仙の降迎を遮ったという。また李泌は衡山や嵩山に学んで羨門子や安期先生等の古仙人に遇ったという。明瓚(めいさん)禅師はいわゆる懶残(らんざん)と号す人であるが、李泌は夜中密かに往って面会した。懶残は李泌を坐らせて、火中から芋を掘り出して食わせ、改まって李泌に云う、「慎んで多言する勿れ、十年の宰相を拝領するだろう」と。李泌は穀類を避けること多年、身軽く能く屏風上を行くことが出来、また導引の術(身体を按摩する)を善くし、之を行う毎に骨節が玉のような音を発する。当時の人は之を鎖子骨(さしこつ)と云う。鐶と鐶が繫がり合う甲(かぶと)を鎖子甲と云い、綰と綰が繫がり合う帳を鎖子帳と云えば、鎖子骨の意味は分かるだろう。神人や仙人は鎖子骨であると世に伝わる。それゆえに後世になって金の王害風(おうがいふう)は、鎖子骨によって世を欺こうとした。また占い師の葫蘆生(ころうせい)は、員外郎の竇庭芝(とうていし)の危難を救うにあたって、暗に李泌を指して鬼谷子と云って世にその異常を伝える。李泌の先祖の墓が河清谷の前に在ることに因る。この事は李繁の著わした伝記や雑書に出ている。李泌が死ぬと、その月に中使の林遠と藍関は旅先で李泌に遇う。単騎常服にして、暫く衡山へ行くと云い、四朝(玄宗・粛宗・代宗・徳宗)の恩遇を話し、惨然之を久しくして別れた。林遠は長安に着いて李泌が死んだことを聞き、大いに之を不思議がったという。このことで徳宗は李泌が脱屣尸解の仙(肉体を脱ぎ捨てた仙人)ではないかと疑われた。李泌の死は、自身が前年に知っただけでなく、桑道茂という者もまた此れを予言している。桑道茂は「唐書」巻二百四にその伝記がある。太一遁甲の術(方術)を善くし、言うことが当たること多く、その最も史上に於ける事跡は、朱泚(しゅせい)の乱の時に、予め奉天の城を補強することを進言して、城を頼りに徳宗を安心させた事で、その為に徳宗を、貴い天子の身で運命論を信ずるに至らせた。李泌が病むと、桑道茂は紙に書いて、「三月二日厄、身危うし」と云う。李泌は節日に拝謁のため病んではいるが強いて宮に入る。天子はその歩む能わざるを見て、詔(みことのり)をして帰らせる。李泌は屋敷に帰って死んだ。伝える所が皆真実ならば李泌もまた異人である。しかしながら李泌は大言を好み、時に嘘をつきデタラメであると、常識ある人々から非難されたと雑書に散見する。且つまた詩人の柳渾や顧況の輩と交友する。顧況は軽薄で諧謔を好み人を侮ることが多く、人に憎まれることを多くした。李泌はこれ等の人を友人とすることで世の人の悦ぶところとならず。ゆえに「旧唐書」の李泌の伝記は、李泌に不利なものが多い。推察しない訳にはいかない。

 「枕中記」の蘆生は、蕭嵩だろうか、李泌だろうか、その主要な行動は蕭嵩に近く李泌に遠い。李泌が蘆生と重なるのは山を穿って道を通じた事ぐらいだ。臨川の言は遽(にわか)に信じるには不足がある。また、「枕中記」は果たして李泌の撰になるものか否か。「枕中記」の作者が李泌であるなら、李泌自身が云うのでなく蕭嵩の事を借りて、世を軽んじて仙を尊ぶ思いを述べたのであろう。また、「枕中記」が李泌の作でないならば、一夢はハッキリしていても、今になっては誰がその夢の由来を知ることが出来よう。

 「枕中記」はもともと深く論じるに足りないが、しかしながら、現実と思われたことが実は夢であったところに人を動かすものがあって、詩人たちは一夢の話を借りて各々の創作の材とする。一夢の亡びないこと千年、李泌が此れを撰したのであれば、李泌もまた力があると云える。李泌の集を得て「枕中記」に比べ、その文章の文気詞彩が似ているか否かを調べれば、事はおのずから正解を得よう。しかしながら、「枕中記」一巻は、今李泌撰として現存しているものは片々たる数紙のみで、一巻を成すには不足する。思うに宋の当時にあっては「異聞集」というものの中に在ったものであろう。その証拠に宋の初めに李防等が編集した「広記」の巻八十二に載せる呂翁と題した一文は、今伝わる李泌の「枕中記」と全く同じで、そして文末に「異聞集」に出ると注記があるからである。「異聞集」は未だその全部を見ない、またその存否も分からないが、集の一字に照らしても邯鄲一夢の話だけを載せたもので無く、他に幾つかの話を載せたものだと推知できる。思うに録異記や集聞記等のようなもので、多くの異聞や奇事を載せたものであろう。であれば李泌が「異聞集」を撰んだのか、あるいは後人がたまたま「枕中記」の文を見て、玄宗から徳宗の間において、身は朝廷に仕え心は神仙を慕う者を求めて李泌を得て、盧生に代えて李泌自らが云うものとして、「枕中記」を李泌の撰としたものか。「異聞集」の全体を得ず、「李泌の集」を得ないので、今は考え尽くす事が出来ない。

 「枕中記」では単に呂翁と記されているだけで、洞賓の名は無い。であるが、「太平記」には呂洞賓と記されている。呂翁と云えば呂氏の翁は皆これに当る。洞賓と云えば洞賓一人だけである。呂という姓の老人は多い。「太平記」はどうのようにして洞賓の名を得たのか。呂洞賓の名は巌(がん)、世の人はそれが唐の時の仙人であることを知らない人はいない。しかしながら、「新唐書」にも「旧唐書」にもその伝記が無い。「全唐詩」に洞賓の詩を採録してあるが、「全唐詩」は胡震亭の唐晋統籤を藁本として増補訂正したもので、清の康熙帝の命によって作られたことで、博く且つ精しいとされているが、実は間違いや脱漏が甚だ少なくなく、信じるには不足がある。正確な史書に洞賓の名が出たのは、そもそも何の書に出たのが最初であろうか、私は「宋史」の陳搏伝にその名があるのを知るだけであるが、「太平記」が呂翁を洞賓とするのは、思うに撰者の私意妄解ではなく、当時既に洞賓の名が広く人々の間に知れていて、盧生を開悟させた者を洞賓として記した雑書を目にしたり伝説を耳にしたりした撰者は、洞賓であることを疑わなかったのであろう。黄粱一炊の夢を、洞賓の仙術によるものとするものは、早くは元の雑劇にあって、これを「開壇闡教黄粱夢」という。第一折は馬致遠が作り、第二折は李時中、第三折は花李郎、第四折は紅字二が作ったという。「録鬼簿」はこのように記す。既に元の時代に呂翁は洞賓となっている。「太平記」が呂洞賓とすることに怪しむところは無い。明になって湯顕祖が「邯鄲記」を作る。一篇三十齣の大概は「枕中記」に拠る。しかも呂翁としないで呂洞賓とする。洞賓の名は金や元の時代以来人々の耳目に親しく、学者・無学者の別無く神仙としてこれを呼ばない者は無く、そのため元の時から呂洞賓は即ち呂翁ということになっていたのである。

 元の時代に於いての神仙呂洞賓の信仰は、実に大きなもので、この事は史書に記されていないにしても、元の時代の雑劇を考えることで理解すべきである。当時の世間一般の心胸中には仙人呂洞賓があって、神通化度することが無ければ、どうして雑劇中に頻繁に呂洞賓が出て来よう。呂洞賓が劇に現れるのは、李泌が一ツの大椿楼の主人公に成ったような小さな事では無い。明や清の時代になっても猶、人々の口々に称えられているのである。

 およそ元の雑劇の中で、その主題に選ばれることが多いのは「水滸伝」であり、包待制の疑獄明快の話であり、玄宗と楊貴妃の風流事であり、尉遅敬徳の武勇伝であり、鄭元和や呂蒙正の世態記であり、桃花人面の感愴詩であり、皆十数種から数種の劇があるが、この他では呂洞賓に関するものが最も多い。

 「黄粱夢」はその一である。「鉄拐李」はその二である。「鉄拐李」は岳伯川の作で、呂洞賓が岳寿という者を化度して、死んで三日たった李の子の屍を復活させたことを記す。世のいわゆる鉄拐仙人は、即ち李の子の屍が復活した岳寿で、後に洞賓に従学して仙と成った者である。支那(中国)で今、俗に云う八仙とは、鐘離権、張果老、韓湘子、曹国舅、呂洞賓、何仙姑、藍釆和と李鉄拐を併せて云うのである。何仙姑もまた呂洞賓に化度されて仙となった者である。しかしながら元以後になって八仙と言われた者はこれだけである。鉄拐などは最も確証が無い。八仙の名称は早くから有って、杜甫に「飲中八仙歌」のあることで、既に唐の時に八仙の名称があるのが分かる。どうして古(いにしえ)の八仙の中に、後の岳伯川の作品で世に出た李鉄拐が在ろう。王弇州や胡応麟等は八仙は元に起ったと言うが、別に古に八仙のあることを知らない。疎漏というべきである。俗伝の八仙の外に、蜀の八仙があり、また別に古の八仙がある。翟灝などの考察も詳しいとは言えない。今は措いて詳しくは論じない。サテ鉄拐は岳伯川の作品でその来歴が知られたが、思うにそのことは岳伯川の作品以前から世に知られていたことであろう。何故かと云えば同じ元の范子安の「竹葉舟」や谷子敬の「城南柳」や馬致遠の「岳陽楼」等の劇に、李鉄拐の名が諸仙人と共に出ていて、また賈仲名の「金安寿」では、鉄拐仙人が安寿を化度する事などが出ているからである。であれば、鉄拐は伯川によってその事が伝えられたが、その伝説は元の時代に既に在って、岳伯川がこれを取り上げて一作品としたのであろう。借屍還魂の事もまた伯川の説とは異なる別の説があるが、今は措いて之を語らない。

 「岳陽楼」はその三である。馬致遠の作品は呂洞賓が岳陽楼で郭馬を化度する事を述べる。郭馬は即ち郭上臈である。「呂洞賓集」の望江亭自記に、「吾が道が成ってから化度した者は、何仙姑と郭上臈」とあるものがこれである。馬致遠は元劇の作者の中でも錚々たる者で、好んで神仙が人を化度する作品を作る。その「馬丹陽」は王嚞が馬丹陽を化度することを叙し、「任風子」は馬丹陽が任屠を化度する事を叙す。これは柳の精が郭馬になったものを化度するものである。「純陽集」に載る詩に、

独自に行き来し 独自に座す、
無限の世人 我を知らず。
唯有り 城南の老樹精、
分明に知道す 神仙の過ぐるを。

とあるのに本づくか。私の読んだ範囲は狭いので、今は此の三種を指摘できるだけだが、他の作品で呂洞賓が出てくるものは勿論多い。

 馬丹陽は神仙であると元の当時の人々は思っていた。それなので「馬丹陽」と「任風子」及び楊景賢が撰した「柳梢青」がある。「柳梢青」は馬丹陽が汴梁(べんりょう)の美人の劉倩嬌を化度する事を叙す。馬丹陽は金の王重陽の弟子で、王重陽は道を呂洞賓から得たという。王重陽と馬丹陽は年代差が数百年あり、呂洞賓は既に神仙なので、常識では論じられないが、元の時代に王重陽と馬丹陽が相次いで出て、また同じ道系の邱処機はジンギスカンに優遇されて遠くインドへ旅行し、邱の弟子の李志常は大いに道教の権威を広めて仏教を迫害する勢いを示す。このような状況の中で元の雑劇中に神仙の事が多いのも不思議ではない。そしてその仙道の系統で王重陽に属するものが雑劇中で多く出るのは、王重陽系の道士が世に重視されていたからで、王重陽が師と仰ぐ呂洞賓が世間に大神仙と思慕されたのも、おのずから道理のあることである。「枕中記」に云う呂翁は自然と呂洞賓となり、黄粱一炊夢の事が神仙が人を化度する手段とされるようになるのも、またおのずから道理ありと云える。

 しかしながら、呂洞賓と邯鄲一夢との関係はこれだけでは無い。呂洞賓の伝記を調べると関連するものがある。呂洞賓とは一体どのような人か。(③につづく)

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