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幸田露伴・支那(中国)の話「支那戯曲(拜月亭の話)」

支那戯曲(拜月亭の話)

 「拜月亭(はいげつてい)」は別に拜月庭とも書いて、最初のものは「閨怨佳人拜月亭」と云う、元の時代に出来たものである。関漢卿の作と云い伝えられている。云い伝えられてはいるが、関漢卿の作と王宝甫の作の二作がある。それは北曲(雑劇)で、今の残っている北曲の「拜月亭」は関漢卿の作か王宝甫の作か、何れもやや不明である。強いて云えば説が無いことも無いのだろうが、どうも古いことだから、「西廂記」等の古い曲がどこまでが誰の作であるかが不明なのと同じように、今残っている雑劇の「拜月亭」が関の作か王の作かということは預かりにしておいた方が先ず無難な話だ。また云い伝えでは施君美の作だとも云うけれども、それも怪しいもので、なぜ怪しいかと云うと、施君美の事やその他いろいろ元人の作家のことが書かれている「録鬼簿」と云う本がある。もし「拜月亭」が施君美の作なら、その中に施君美の名が出ているのだから、その事を書いた條(くだり)に君美が「拜月亭」を作ったとありそうなものだが、それが無い。南曲(伝奇)の方も多分施君美よりは後の人の作だと思う。多分、明の初め頃に出来たものであろう。いろいろ本があるようだけれど、眼にしたのは元曲の雑劇の「拜月亭」と、それから明の時代に出来た「幽閨記」、これもやはり拜月亭のことである。それとごく最近、宣統になって出来た「拜月亭」と、この三種しか見ていない。
 その中で、雑劇のものが最も古いのだが、雑劇の通例で極く簡単で、その簡単な雑劇でも名作であれば論は無いが、支那(中国)の伝奇類を論じる場合にともすれば荊・劉・拜・殺と云うが、その四ツの好い作品の中に入れて論じられるのは伝奇の「拜月亭」のことで、この雑劇の「拜月亭」に基づいて出来たものに相違無いが、それよりもズット面白味が備わっている訳なのである。「琵琶記」と「西廂記」を除いてこの荊・劉・拜・殺の四ツを褒めて並べることは誰から始まったことか知らないが、何時となく定評になって仕舞った。それは芝居にすることが多く、演じられることが多いところから出て来たことで、必ずしも作そのものが他の諸作よりも優れているという訳でもなさそうに思われる。何故かと云えば、ただ読むだけの時では、荊・劉・拜・殺の四ツよりも確かに面白いものがあるようだから、多分、上演されること、芝居にされることがこの四ツが最も多いのであろう。そこで伝奇を論じる時に、荊・劉・拜・殺という順序で指を折っても、特に異論はないという訳なのだろうと思われる。日本の浄瑠璃に於いても、必ずしも好い浄瑠璃でなくとも、人がよく語り、多くの人に知られているものがある。そう云う理屈で荊・劉・拜・殺の四ツが世間の評判を得たのであろう。「やまと文範」とか云う世間に流行(はや)っている浄瑠璃の幾クサリを集めた本がある。そう云うものを見ると好い浄瑠璃でも抜けていたり、それほど好くないものでも必ず載せられていて人に知られているのがある。そのような理屈で、支那にも「綴白裘新集」と云うものがあって、いろいろな芝居を寄せ集めている。その集は全部を集めたものでなく一部を集めたものだが、荊・劉・拜・殺の四ツが「西廂記」や「琵琶記」に次いで大いに巾を利かせている。先ずこの四ツは俗世界に於いて威張ったものと云って間違いは無いので、文学的価値から云えば、必ずしも「西廂記」や「琵琶記」の後にこの四ツが来るとは限らないだろう。しかし文学的価値などは、これはまた別に詳しい批評や鋭い評価が大勢の人によって下された後に自然と定まることで、今私がとやかく云う事はないのである。
 それなら「拜月亭」は面白く無いかと云えば、他の多くの作に比べて優れているかいないかと問題をさし措いて云えば、中々面白いものである。好い作であるという方に不賛成では無い。先日お話しした李卓吾なども「拜月亭」を評して大層褒めている。「先ず初めは散漫だが末は奇絶である。西廂記に比べても引けは取らない」などと大変な褒めようで、「この世界あれば即ちこの伝奇は離せない」とも云っているが、これはチョットほめ過ぎのようである。ほめ過ぎではあるが、確かにそう云わせるだけの面白味はある。サテ、そんならどんなものかと云うことを大雑把にお話しよう。
 伝奇の方が別名を幽閨記と云うのはどういう訳かと云うと、それは本の外題が王瑞蘭幽閨拜月記となっているから、そこで幽閨記との云うのである。
ここに蒋世隆と云う男がいる。妹が一人いて瑞蓮と云う。この男は学問も出来、試験に合格して官吏になって身を立てるのが支那のキマリであるが、蒋は両親が亡くなった後なので、忌服を着ているので試験にも出ない。自分はもう好い年配になり妹も年頃になっているが、やはりそんな訳で定まった縁も無く、大分抱負もある男だが、先ずはそういう理由で何事も無く日を送っている。その中に夷狄が段々と北の方から都へ攻め寄せて来る、そこで都を汴梁(べんりょう)に移して難を避けようということになる。すると、イヤ、それよりは有能な大将を派遣して敵を追い払おうと云うものがいる。それは陀満海牙(だまんかいが)と云う者で、自分の子の陀満興福を推薦して敵に当らせようと云ったが、反対する者がいてアベコベに讒言されて、陀満一族は謀叛人のように云われ、悉く懲罰の命令が下った。そこで倅の興福は軍人であったが、いよいよ殺されると云うことになって、讒言を唱えた聶賈(じょうこ)と云う男が大勢の人馬を引連れて押し寄せて来る。すると興福の部下の者たちは承知しない。ここに三千の軍人がいるので、アベコベに聶賈を捉えて、既に罪されていた父の冤罪も解いて、その後に為そうと欲するところを為したら好いだろうと云う者もいたが、元来がおとなしい了見の素直な人なので、それでは腹の中が好くなっても、朝廷には背くことになる。ここは一ツ難を避けて何処かへ落ち延びて、再起を期そうと云うので落ちて行く。
 その興福が落ちて行くところに、「双手擘開生死路、一身逃出是非関」と云う句がある。この句が現存の本にあるので、それがキッカケとなってこの作が何時頃出来たのかと云う議論の種になる。チョット気を付ける箇所である。この句は明の太祖の句で、これがこう云う個所に使ってあるものだから、「現今の拜月亭は明初期の作であろう、少なくとも太祖より後のものであろう」と云っているが、私に云わせるとどうも分からない。この間話した「水滸伝」等も本が機種もあっていろいろと違うように、こう云う古いものは、後から新しいものが付いたり抜けたりすることが有り勝ちで、一個所に後人の詩句がくっついていたからと云って全体がどうだと云う論は、部分を以って全体を推測する議論で、随分危ない話である。それなので、この一個所で兎角を論じることは難しいかと思う。
 余談はサテ措き、興福はアチラへ逃げたりコチラへ逃げたり、お尋ね者になっているので苦しんでいたが、ある時井戸が一ツある所へ追い詰められてしまった。そこで自分の着ている軍服を脱ぎ捨てて、垣根を伝わって他所(よそ)の庭へ逃げ込み、そしてどうか助かるようにと神に祈っていた。興福が他所の庭へ逃げて仕舞ったので、追手は帰って仕舞う。この庭が初めにお話しした蒋世隆の家の庭で、蒋は知らない人が入って来たので、何で他人の庭内へ入り込んだのだと詰(なじ)ると、興福も「しばらく怒るのをやめて聞いて呉れ、私は盗賊でも何でも無い」。デハ何者だと聞かれて、「自分もお尋ね者になって、差し当たり仕方がないので身を隠している」と云う。顔を見ると堂々とした人物なので、成程と思い、その言葉に偽りがないので却って之を憐れんで、「イヤ私はお前を突き出す気はない。私はこう云う者だが、艱難の時に救うのを恩に着せる訳では無いが、力を尽してやろう」と、偶然の出会いから二人は義兄弟の約束をして、蒋は興福が帽子も着物もないのでそれを与え、金を与え、「私の家に居ても仕方ないから何処へでも逃げて行って、後々何とかしたら好かろう」と、遂に表門から送り出して逃がしてやる。興福はここを逃れて他所へ行くのだが、例の通り支那は盗賊の多い所で、ましてこうした乱世のことだから、興福が虎頭山と云う所へ差し掛かると、盗賊に出会う。この盗賊共は相応の人物を得て首領と仰ぎ、自分たちの大将に頂こうとしていたところなので、陀満興福を大将にする。興福は心ならずも盗賊の頭となったが、今自分が真の名前を名乗って親の名を辱めるのも厭だから、兄弟分の蒋世隆のことを思い出したのを幸い、姓は蒋、名は世隆と名乗り、その大将となって盗賊共に云い付け、「妄りに書生を殺すな、蒋と云う姓の者を殺すな、素直に銭を出す者を殺すな」と約束して、寄る辺ない身をしばらくこの山中に落ち着けている。
 この話はここで切れて、別に王尚書と云う立派な役人のことになる。この人の娘に名を瑞蘭と云う娘がいる。これが女主人公である。まだ嫁にも行かず、大層美しい容色で、ものもよく出来る人であった。ところが父親の王尚書が勅命を受けて、軍情を探る為に出て行くことになる。王はもう年が七十であるから行きたくもないが、仕方なく家内と娘とに別れを告げて、この気にかかる家を見捨てて出掛けて行く。別れの杯を酌み交わして、六兒と云う家来を連れて遂に家を出て仕舞う。するとサア乱が始まって、だんだん方々に戦争が出来て、例の蒋世隆の居る方でも家に居られなくなり、人々が四方八方へ逃げ散る。天子は汴梁の方へ避難される。こうなっては最早逃げるより外に仕方がない。故郷に居たくても居ることが出来ないから、そこで蒋は兄妹連れで逃げて行く。一方王尚書の留守宅でも、やはり世の中が滅茶苦茶になって来たから、娘と母親が身に金珠を着けて逃げ出さなければならない。娘は意気地なく「逃げられない」と云うが、「天子でさえ難をさけて都を逃げ出されるのだからどうにも仕方がない」と、母娘はトボトボと家を出て行く。ここから芝居が始まるのである。
 蒋の兄妹は逃げることは逃げ出したが、アチラでも血なまぐさい話、コチラでも兵火が起きると云う始末で、誠にハヤ難儀な旅を苦しみ抜きながら逃げて行く。コチラの王尚書の夫人と娘も、しばらく危なくないかと思えば、またもやドッと寄せ返す戦乱の巷(ちまた)に少しも安心無く、まるで泥にあえぐ魚か何かのように辛くも落ち延びるその途中で、とうとう母と娘は離れ離れになって仕舞う。アチラでは蒋世隆が妹の瑞蓮の名を呼びながら行く。コチラでは王尚書の夫人が娘の瑞蘭の名を呼んで行く。瑞蓮と瑞蘭と音がよく似ているので、蒋が林の中で瑞蓮を呼んでいる所へ、王尚書の娘の瑞蘭が出て来る。そこで双方は共に驚いた。娘は呼ばれたと思って出会って見ると母親では無くて一人の男、蒋の方でもまた妹ではなくて出て来たのが見知らぬ女であるから互いに驚いたが、訳を訊いてみるとドチラも似たような身の上である。娘は母親と離れて一人旅はとても出来ないので、「貴方の御恩は忘れないから連れて逃げてくれ、助けてくれ」と頼むが、「どうも妹さえ庇うことが出来ないこんな始末なので、とても貴方のお供をして安心な場所へ届けてあげることは出来ない。」「そんなことを云わないで助けてくれ」と、一方はか弱い女だから縋り付こうとする。「イヤこのような戦乱の中では甚だ困る、それに道中若い男が見知らぬ女を連れて歩くのも誠に困る」と云うと、「では貴方の妹さんだと思って連れて行ってくれ」と頼む。「イヤそれはどうもいけない、顔かたちから物言いの恰好、様子も違う、兄妹と思う者はないだろうから」と云えば、「それでは仮に夫婦となって、夫婦の形になって逃げてくれ」と、こう云う事になった。「それならば他人に対してもそれらしく思われるだろう」と云うことになる。ここが「琵琶記」のような道学臭いものと違い、また「西廂記」とも異なっている点で、男女七才にして席を同じゅうせず流の風習や理想に半分は従い半分は反して、臨機応変に対処して行くと云う中間を行っている。妙なところである。
 この時、瑞蓮の方でもヤハリ名が似ているものだから、瑞蘭の母親の方へ行ってしまうが、コチラは女同士だから訳はない。話が早くついて瑞蓮は召使のようになって同行させて貰う。夫人の方でも仕方が無いから、「マア私の娘分にして連れて行こう」と、同じように南京を目指して行くこととなる。コチラはイザコザ無しに行ったが、世隆の方は寒い道中を足弱を連れて、アチラへ逃げたりコチラへ逃げたり、世間が穏やかでない時だから、苦しい旅路を苦労を尽して行く。女は天にも地にも頼みに思うのは此の男ただ一人、時にはドラやラッパの音に驚かされ、ようやくのこと虎頭山の麓に着くと、お約束の盗賊が出て来て、「通行銭を置いて行け、置かなければたたっ斬ってしまうぞ」と云うから、コチラは驚いて、「どうぞ勘弁してくれ」と詫びるが、「イヤ太(ふて)え奴だ」と、山へ引縛(しっちば)って行かれる。そこで大将になっている陀満興福が見ると、義兄弟の約束をした恩人の蒋世隆であるから、ビックリして縄を解いて、「これはかねて云い聞かせた吾が義兄弟の蒋世隆と云う同苗の人だ」と盗賊共に紹介する。驚いたのは連れて歩かれた婦人で、盗賊に縛られたのは情けないが、山塞へ引張って行かれて見ると、自分が頼みとする男が山賊の兄弟分と云うのだから、大変な者と一緒になったと一旦は驚いたが、ヨクヨク見ればそんな悪い人でもないようなので、何だかサッパリ分からず、ヘンテコな具合で居る。興福は配下の者に金百両を持って来させて、「山に居ることが出来なければ、マア酒でも酌んだ後に、何処へでもお出でになりたい所へお出でになるが好い」と云う。瑞蘭は王尚書の娘だから却って山塞の主人を罵ると云う件(くだり)がある。身分のある人の令嬢だから中々に気が強い。王尚書の夫人の方も、瑞蓮を連れて苦しい旅を続けて行く。これから可笑しな事になる。
 そういう苦しい思いをして世隆と瑞蘭の二人が旅をしている中には、そう危ないことばかりでなく、少しは具合の好い、気も伸び伸びとする落ち着いた場所へ泊ることもある。ここが何とも云えず可笑しいのである。二人が宿を取った時、長い旅路で疲れているから、男は今朝は酒があれば少し酔いたいと云う気持ちで、娘に向い、「どうか酒を飲ませて貰いたいが好いか」と訊くと、「貴方の勝手になさい」と答えるので、そこで酒を頼んで飲む。宿の者は二人が若い者同士で何となく様子が妙だから、調戯(からか)ったりする気味になろうと云うものである。世隆は一人で飲んでいるのも妙だから、「貴方も一杯飲まないか」と云うが、此方は処女的驕慢を抱いているから、「どう致しまして」とばかりで口へも持って行かない。この宿での、若い者と手持無沙汰でモジモジしている娘、長い旅を共にして来たので幾らかの情合いが出て来ているところで男が酒を飲むと云う、ここに面白い情趣が生じようと云う訳である。この辺の事を詳しくお話すると落語家のようになるので、そこは御免を蒙って置くが、男は段々話を聞いて見ると人情が出て来て、今ではただ表面の夫婦だが、マア一緒になりたいような気持が起こって来る。瑞蘭の方でも連れ立って歩いている人が野卑な男でなく、学問もあるのでこれに頼り縋っている。まさか噛んで吐き出して嫌うような人でもない、好い人だと思っている。好い人だと思っているが、いわゆる道義的な念(おもい)が強いので、後々穏やかな世になってから云い出して貰えば二ツ返事でお受けもするが、戦乱の世に万止むを得ず、こうして連れ立って歩いている間は、少しでもチャラけた口など利きたくもない。と何処までも小笠原流で話をして居たい。ここは作者が、妙なフザケや皮肉を云い合ったり、マジメを云ったり、中には嘘のない、情に訴えるところもあって、面白い男女の情趣を出している。ここが前半の最も味のある個所なのである。そこで到頭宿の爺さんが顔を出さなければ、どうしても納まりが付かないと云う理屈になる。これが出て口を利いて、明らかにそれこそ民法上に役立つ媒酌人の形になって二人を媒酌する。ここに滑稽あり皮肉もあって、馬鹿馬鹿しくも可笑しいのである。
 一方、王尚書は六兒を連れてアチラコチラ歩く中に、世の中が幾らか好くなって来た。陀満興福も山賊の親方を何時までもいるのは本意でない。幸い都で武挙の試験があると聞いて、山塞を捨てて都へ出て行く。世の中へ出直して所志を貫こうと云うのである。世隆と瑞蘭の二人も仮初(かりそめ)のことが実際となり、嘘から出た真(まこと)でなおも二人で旅を続けて行くが、頑丈でない体質の世隆は旅の途中で病気になる。もうどうにも仕様がない、瑞蘭が介抱する。北曲は瑞蓮兄妹と瑞蘭母娘が逃げて、互に娘と妹を取り違えるところから始まっている。サテ医者を呼んで診て貰うが、世隆の病は中々悪い。また一方の王尚書も長い旅路をめぐりめぐってこの宿に来る。それは広陽鎮と云う所で、ここで瑞蘭父娘が落ち合う。王は身分のある人のことだから、宿を取ると宿を掃除させて入るのだが、そう云う所でヒョッコリ娘に出合った。「母親はどうした、そして母親にはぐれたお前がどうして此処に居る、」と畳かけて訊かれた瑞蘭が、途中で一人の書生に世話になった事を話して、今もその男と一緒だと答えると、父親の王尚書は忽ち怒って、その訳を話そうとしても話す余裕を与えない。何しろ年は七十以上だし、天涯の地で娘に逢ったのだから気も昂ぶって、今では親一人子一人のことではあり、狂気の姿で世隆のことを云い出しても取り上げるどころではなく、六兒を呼んで馬へ縛り付けて、何でも構わないから連れて行けと、瑞蘭を連れ去って仕舞う。世隆は少しの間亭主らしくあったが、介抱してくれていた女を奪われてしまったので、病人先生はポカンとして仕舞う。支那の好い身分の人の我儘なこと、書生の身分の意気地が無いこと、親には絶対に従わなければならないと云う国情がよく写せている。
 サテ、王尚書夫人と瑞蓮の二人は、ある駅に着いて、夜、宿屋へ「泊めてくれ」と云って入ったところが、「泊めてやりたいが泊めることは出来ない、と云うのは、恐ろしい大官がこの家に泊っている、他の客は皆追い払えと云うことだから、可哀想だがどうも泊める訳には行かない」と情けなく断られた。「デハどんな庭の隅でも好いから泊めてくれ」と云うと、「そんなら泣いたり喚いたり話をしたりしなければ、大官のお耳に入ることもないだろうから、内緒で泊めてやっても好い」と云う駅丞の情けで、ようやく隅の小屋へ泊めて貰う。コチラは堂々たる大官、駅館の状況がチョット日本では想像が付かないが、支那ではよくある事で、大威張りに威張れるキマリである。余り話をしなければと云う条件で、廊下の隅のような所へ入れて貰ったが、女同士のことだから話をしている中に情けない話になり、遂には泣きベソになって、ヒソヒソと泣き話を始める。片方は年寄りの大官だから中々寝付かれない。グチャグチャ泣き声で話すのが耳に付いて煩(うるさ)いから、駅丞を呼び出して苦情を言う。駅丞も呼び出されて叱られたから、早速隅の所へやって来て、「全くお前たちも訳が分からねえじゃねえか、話をしないと云うから泊めてやったのに、泣き声なんぞ出しては俺が迷惑する」と云いに来る。この駅丞に小言を云うのは六兒の役だから、王尚書夫人が聴くと、どうも駅丞に小言を云っているのは家の六兒に似ているというので、見ると果して六兒だから、そこで夫婦母娘主従が再会して泣いたり笑ったり、王尚書は夫人が見慣れない娘を連れているから、「それは何だ」と訊く。いろいろ話もあるが、コチラは先ず安全な方へ落ち着くのだから好いとして、困るのは旅に残された病人先生だ、ここが曲中の情けない所で、死に瀕している。一方の興福は山賊をした挙句であるから金を持っているし、軍人上りなので身体が強い。天子の恩赦で今まで罪名のあった者も残らず許して人材を登用すると云う噂だから、武挙の試験に応じるために都を目がけて続々とやって来る。と此処で、瑞蘭を連れ去られた死にかけのヒョロヒョロした、泣きっ面の蒋世隆に出合う。元来が侠気(おとこぎ)のある奴だから、「そいつアどうも酷い」と助けてやる。功名心のことを云い立てて、「一婦人の為にゴタゴタ云っている時ではない。今朝廷では文武の人材を得ようとしている時なのだから、私は武挙の試験に応じるが、ひとつ文学の方で試験に応じたらどうか」と、ここで二人は出立する。
 王尚書は大いに喜んで、娘にも家内にも会って落着きも出来、旅で夫人が連れて来た娘はどうやら良家の娘らしい、マア召使のような娘のような事にして一緒にいる。この方は先ず以前よりも家庭の幸福は増した訳である。だがお嬢さんは肚の中では困っている。親父さんは方では、その中に良縁でもあったらと云う了見だろう。瑞蘭と瑞蓮とは主従のように姉妹のように、そこは女同士だけに心易くごく柔らかくいっている。夜、花の陰の深い所で、月の穏やかな景色に、柳のもとに香案を置いて瑞蘭が、月に対して心中の苦しみを云うでもなく云わないでもなく漏らすところが身上で、月に向って再び円(まどか)なることを願う、拜月亭の名もそこから出たのである。先ず瑞蘭の心中は侍婢(瑞蓮)にも凡そ分かろうと云うものである。「私がどう見える」と瑞蘭が云えば、先ずその物思わし気な様子から、「想う人があるのだろう」と仄めかす。これを聞くと、「イヤ飛んでもない」と打ち消す。八重垣姫と濡衣とも違うが、月の晩に奇麗な女が二人が語り合う所は、好い景色であり、また成程面白い場面に違いない。段々話して見ると瑞蘭の想いの種となっている男は瑞蓮の兄貴だから、最初は妙な調子に隠し合ったり打ちと解けないところのあったのが段々解けて来る。一方で、男の方は試験に合格して立派な身分となり、瑞蘭と一緒になり、また陀満興福も武挙に合格したことから、これまた世隆の妹の瑞蓮と一緒になって、目出度く二夫婦が揃うと云うので、王尚書を責めたり何かするところもあるが、それはホンの余興で、役者が悪達者だったら宿屋の所が可笑しいだろうが、歌のいかにも奇麗なのは今の閨窓拜月の件(くだり)で、俳優が奇麗で歌が好いと面白い場面である。興福の方はつまり要らないのであるが、それでなければ始末が付かないから、マアそんな強味なものが一方に出て居るのである。
(大正七年八月)

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