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幸田露伴の随筆「物の声の最上乗」

物の声の最上乗

・今年は杜鵑(ホトトギス)がよく聴けますよ。たいてい毎朝二声や三声は聴ける。朝ですか?私はまず三時半には遅くも起きる。そうした物静かな未明の空に、あの鋭い声を聴く、何とも言われない佳(い)い気持ちだ。

・サア、「てっぺんかけたか」と聴けばそうも聴かれる。つまり迫った声だね。「ホトトギス」という名も迫った声をそう感じて、そこから来た名でしょう。「不如帰(ふじょき)」とも聴けば聴かれる。支那音(中国音)でいうと「バウジョキ」とか何とか、迫った声に響くのだろう。

・この向島方面・・ことに白髭付近では毎年杜鵑は聴かれるが、今年は特によく聴かれるんだ。気候の具合や何かでよく孵化(かえ)ったんだね。根岸辺りでも多く聴くそうだ。根岸の方にも早起党の老人などがいるので、聴いてみるとそうだと言う話だ。

・イヤ杜鵑の真味も近年になってから本当に分かったのさ、若い内は実は分らなかった。鶯などはもう若い頃から美(い)いものだと思っていたが・・。

・何が佳(い)いと言って恐らく水鶏(クイナ)に越すものはない!それは言われぬ味わいがある。そう・・これから追々聴かれるので、まず隅田川の上流の方などへ遡(さかのぼ)って行く。霧のような雨が降る晩で、若葦(わかあし)が有るか無いかの風にひそかにそよぐ。空らはボウッと・・・ちょうど写真屋の摺りガラスの天井を仰ぐようでだ。自分はひとり舟を若葦の間に入れて、ひめやかに更けゆく夜色を賞している。と、水鶏の声、あの何とも言えない寂びた中にむっくりと丸みのある声が、水を渡って響いて、そうして幽かに消えてゆく。その余韻!その幽寂!実に何とも彼とも言われないのだ。

・これを文品に喩えたら何と言おうか。人間にして見たら何と言おう?どうもただ理想的だ、実に理想的だ。何とも喩え様も無い。およそ物の声の最上乗だと思う。

・そうそう、ピアノなどを押して見て、水鶏の声に似たような音が出ないかとやって見た事があった。出ないね。到底(とても)出ない。私にはどうしても似かよった音は見つけられなかった。

・どういう鳴き方かと?そう、まあ「ボン、ボン」と言うような、それが水を渡って幽かに響く。その寂びた内にむっくりと、何とも言えない丸味がある。実に無類だ。

・河鹿も佳(い)いものさ、あれはまた清冷だ!まるで金の鈴を振るようだ。透き徹るようだ。まあ山国では河鹿、水郷では水鶏、これが両大関だろう。

・中川べりなどへ行って見ると、またあの葦雀(ヨシキリ)という奴が頻りに喋(しゃべ)っている。あれも佳(い)いものさ、けれども名の通りに実に「ぎょうぎょうし」だ。休みなしに喋っている。それでどうも価値(ねうち)を下げて仕舞う。今少し黙って居たら定めし珍重されるだろうと思う。

・今、そこの垣の外で鳴いているのかね?あの酸漿(ホオズキ)を鳴らすようなの?あれはただの青蛙(アオガエル)さ、そりゃあ青蛙(あれ)の声だって、市中の人に聴かせりゃ、耳を洗われるように思うだろう。けれど鳴く物の声としちゃ下々の下さ。あれより蝦蛙(ヒキガエル)の方がちょいと佳い。やはりまあ「ぼん、ぼん」というような鳴き方で、いくらか丸味がある。ちょっと佳いものだ。

・この間も根岸からの帰りに上野を通った。夜の事で、もう十二時に近かったろう。雨模様(もよい)に暗く曇っていた。鶯谷の方から山へ入って来て、あの辺の生け垣に沿って歩んでいると、蝦蛙の奴が鳴き出した。ハハア、こんな所にも蝦蛙がいるのだなと思いながら、その時なんとなく耳を惹かされた。気が付いて見るといろいろ面白い事が隠れているものさあね。(談)
(明治四十一年七月)

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