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幸田露伴・支那(中国)の話「扶鸞之術」

扶鸞之術

 扶鸞(ふらん)の術、また飛鸞(ひらん)の術とも云う。俗にこれを乩(けい)とも云う。洪若皐(こうじゃくこう)は、「乩は或いは卟(けい)とも書く、稽に同じ、卜占(ぼくせん)をして疑問を問うのである、後人は僊(仙)が降(くだ)って批乩を為すと思い、これを名付けて乩僊(乩仙)と云い、また箕僊(箕仙)と云い、またこれを扶鸞とも云う」と云うが、洪の言は詳しくない。扶鸞は鸞が先にあって後に扶鸞の名が起こり、扶箕は箕が先にあって後に扶箕の名が出る。その理は同じだがその事は異なることでその名を異にする。ただ扶鸞と扶箕の、その名のもとづくところは同じではないが、その実際においては異ならない。俗に皆これを乩と云う。洪の言は間違いではない。
 乩の音は雞(けい)、堅奚(けんけい)の切で、卟と同じである。卟の字は説文解字では「卜(ぼく)して以って義を問うなり、読んで稽と同じ」と出ている。しかしながら、「卟の字は占の変態であって、後人が誤ってまぎれ込ませたものであろう」と段氏は「説文解字注」で云う。乩卟の二字は古典には出ていない。小徐本で卟の字は尚書に出ていると云うが信じることは出来ない。乩字に至っては説文解字では載せていないのも同然である。康煕字典は乩字を載せて説文解字を用いて之を解釈しているが、本書に基づいた校正をしなかったための失態であろう。乩卟の二字は古いものではない。
 宋長は、「この術は漢の神君や宛若から起こったようだ」と云う。漢の皇帝(武帝)は甚だ神異を好む。そのため奇怪な荒唐無稽な言が当時紛然として起る。神君のことは封禅書に出ていて、「この時、上(武帝)は神君を求めて之を上林苑中の蹄氏観(ていしかん)に置く。」と云う。神君は長陵の娘で子が死んだのを悲しんで自死する。その後、その霊魂は兄弟の妻である宛若(えんじゃく)に乗り移って霊験を現わす。宛若が神霊を自分の部屋に祠(まつ)ると、多くの人々が参詣するようになり、平原君(武帝の后の母)も往って参詣をする。その後、子孫はこれによって尊貴となり名を知られるようになる。武帝は即位すると礼を厚くして神君を宮中に置祠する。神君の言葉は、聞くことはできるが、その姿は見えないと云われる。孝武本紀(史記)は記して云う、「文成将軍の死んだ翌年、武帝は鼎湖に行幸して甚だ病む、巫者や医者が最善を尽くすが、治らない。・・人を通して神君に問わせると、神君は言う。天子、病を憂うる勿れ、病少し癒えれば我と甘泉で会うが善いと。そこで少し良くなったので、甘泉に行幸すると病気が全快する。そこで天下に大赦を行って寿宮に神君を置く。神君の最も尊い者は太夫で、その補助者を大禁という。司命の属(ともがら)皆これに従う。神君を直接見ることは出来ないが、その言葉を聞くとその言葉は人の言葉と変わらない。神君は時に去り時に来る。来る時は風は粛然として静かで、室の帷(とばり)の中に居て、時に昼間に言うが、夜に言うのを常とする。天子は御払いをして浄めた後に入る。巫者の仲立ちで神君を主人として飲食を共にする。神君の言に際しては天子は座を下りる。また寿宮を北宮に置き、羽旗を張って祭器を具え神君を礼遇する。神君の言うことを、天子は人に命じて書き留めさせる。之を名付けて書法という。その語ることは世俗の知ることと異なるところはない。天子は独り喜び之を隠す、世に知られることは無い」と。これによると宛若の法は扶鸞の術に近いが、同じとは云えない。その言葉は聞くことが出来るがその人は見えないと云い、その言葉は人の言葉と変わらないと云うので、神君は声で人に告げるが、文字で人に告げることは無い。扶鸞の術は文字で人に告げるのであって声で告げることは無い。したがってその術は似ているが同じでは無い。神君の術は巫覡(ふげき)が人を欺く肚言術(腹話術)や反言の技というものに類する。肚言の術は、巫者が自ら言うがその声はその口から出ない、反言の技は巫者が自ら言うがその言葉は遠いところから来るようで、皆これ妖妄の者達が変わったことを行って不思議がらせて、人を欺く作術陋技である。扶鸞の術が神君や宛若から出たのであれば、後世が徒(いたずら)に呂仙や紫姑(しこ)を称(たた)えて、神君や宛若のことを言わないのは不思議である。尤悔菴は、「漢史に、帷の中の神君はその姿が見えない、ただその声を聞くだけと記されている。乩仙はその声を聞くことは出来ない、ただ恍惚状態になるだけである」と云う。この言葉は善く神君と乩仙の違いを説明する。
 紫姑を招くというのも、これまた乩のことである。紫姑を招いて紫姑が来れば、即ち詩を知らない者も忽ち佳い詩を作り、無学の者も急に博識になる。宋の紹興の時代に斜橋の客邸に紫姑を招く者がいた。艫(ろ)を命じて題とする。詩に云う、

寒巌 雪圧して 松枝折る、
斑々 剥尽(はくじん)す 青虬(せいきゅう)の血。
斤を運する巧匠 たく削し成し、
剣脊(けんせき) 半(なかば)開きて 魚尾裂く。
五湖の仙子 奇致多し、
仙丹に駕して仙穴を探らんと欲す。
碧雲 動かず 暁山横たわり、
数声 揺落(ようらく)す 江天の月。

 舟に用いる艫などは難しい題目である。たとえ七歩の才(すぐれた詩文を七歩の間に作る才能)があっても、即時の求めに応じることは難しい。であるのに、この詩は少しも苦慮した様子も無く縦横に記して、しかも自然な趣きがある。題の難と詩の佳と事の奇によって伝わる話だと云える。この事は明の田汝成が撰する「西湖遊覧志余巻」の二十六に出ている。
 紫姑とはどのような人か、「紫姑は萊陽の人で、姓は何(か)、名は媚(び)、字(あざな)は麗卿という、寿陽の李景と云う者の妾(めかけ)である。正妻の曹氏の妬(ねた)を買い、正月十五日の夜に厠(かわや・トイレ)で殺される。上帝は之を憐れんで厠の神として祀るように命じる。そのため人々はその日(正月十五日)にその人形(かたしろ)を厠に作り、これを迎祝して衆事を占う」と、これは「顕異録」の記すところである。迎えて諸事を占うと云えば、紫姑が招かれる理由が分かる。ただそれが何時の時代の人なのかは分からない。唐の玉谿生は一代の大家だが、その詩集の巻一の聖女詞の詩に、「消息青雀を期す、逢迎は紫姑に異なり」の一聯がある。即ち唐の時代には既に世間で紫姑を送迎することが行われていたことが分かる。集中に「異苑」を引いて、「紫姑はこれ人の妾たり、正妻の嫉むところとなり、常に汚れ仕事に使役される。正月十五日に悲観して自死する。そのため人々は人形を作り、夜間の厠或いは豚小屋のほとりで紫姑を迎え祝して云う、子胥は居ない、曹姑も里帰り、小姑(妾)出るべしと。子胥は壻の名である、曹姑は正妻である、戯むれに人形を執って重さを感じれば、即ち紫姑神が宿ったのである。尊めて酒や果物を供えると人形の顔が輝き、飛び跳ねて止まらず、能く諸事を占い、将来の養蚕を占う。また善く射鉤(しゃこう・射的)する。機嫌が好ければ大いに舞い、悪ければ仰向けに眠る」と云う。また註に「荊楚歳時記」の洞覧を引用することを挙げて、帝嚳の娘は、将(まさ)に死のうとする時に云う、「平生より音楽を好む、正月になったら音楽で迎えるべし」と。また「雑五行書」は云う、「厠神の名は後帝」と。後帝の霊が紫姑に乗り移って言うのか。また他書は云う、「則ち寿陽の李景の妾」と。紫姑に就いての説はこれで尽きる。別に照合するものは無い。戯れに捉えて重さを感じれば則ちこれ神が乗り移っていると云い、跳躍止まらずと云うをみると、この事は我が国の俗に顆石上人と云い、狐狗狸(コックリ)と云うものと同類である。射鉤は隠れている鉤を憶測して当てるのである。射鉤を善くすると云っても大したことは無い。児女の遊びに過ぎない。善い哉、清初期の人が著わすところの百末詞巻二、戯挽閨中十二月楽詞、正月の詞に、

閙蛾(とうが) 道に満つ 鰲山(ごうざん)の会、
灯謎(とうめい)を猜(すい)し、
輸了す 鴛鴦(えんおう)の翠(すい)。
却って隣家の姉妹を拉(らっ)し、
紫姑 相伴ないて戯る。

と云うが、閙蛾や鰲山や灯謎は、皆これ正月十五夜の景物である。紫姑はこの夜に死んで、この夜に迎えられる。詞人の才能が総合的に発揮され巧みに情景や景物を写すと云える。ただ紫姑と扶鸞の術の因縁を私はこれを古(いにしえ)に求めることは出来ない。思うに紫姑を送迎することは唐以前に既に有って、俗間では卜問(占い事)が早くから行われていたことであろう。「荊楚歳時記」は梁の宗懍(そうりん)の著わすもので、「異苑」は宋の劉敬淑の著わすものなので、紫姑の説が起こったのは晋・宋以前のことであろう。コックリの話などは千四五百年前の昔の話である。今の人は多く古(いにしえ)を斥けて無知とする。古人また今の人を笑って浅識とする。扶鸞の術は、ただ紫姑をするだけでなく、情仙才鬼皆するべしとする。たまたま古に紫姑と云うものが有って人が卜問に応じたことによって紫姑を招く者が多くなり、遂に扶鸞の術が即ち紫姑を招くことのように思われるようになったのであろう。紫姑が詩を好くし文を能くすると云うことは、雑書や野史には出ていない。乩を仕事とする者にひとたび神が乗り移れば、人はその人でなくなり鬼や仙人が憑いたようになって幽識(意識下のもの)が発動するのは、必ずしも紫姑や呂洞賓や張帝だけに限らない。
 乩を仕事とする者は紫姑を招く以外に、呂仙(呂洞賓)を招くことが多い。呂仙は名を厳、字を洞賓と云う。俗伝に呂仙は唐の時代の人で、道を鐘離権に学んで仙となる。しかし直ぐ天に昇ることを望まず、人々を救った後に天に昇ることを誓う。そのため俗界に優遊して今なお世に在ると云う。宋や元の時以来、呂仙の事を伝えること甚だ多く、その作る詩詞もまた多く、遂に全唐詩にある呂の詩を収録して「呂純陽文集」を刊行する者が現われて、厳然とその人の実在を思わせる。しかしながら私は嘗て呂洞賓の事跡を考えたが、信ずるに足りるものは無く、その名が宋史の陳搏伝に初めて出ているのを知るだけである。殆んど烏有氏や亡是公のような架空の人の類である。ただ小説や戯曲や群書で呂仙を記すものは少なくない。また金の王重陽は呂仙に教えを受けたと称して道家の一派を作り、その法系は鬱然として元・明・清の時代に栄えて、今や呂仙の有無を論じる者は無くなった。詩詞の多くは仮託から出て妄断に作られ、或いはまた扶鸞の術によって現れる。呂の伝と称するものも、また思うに世間の話と術士の筆に因って出来たものであろう。今に遺る呂の全集六十四巻は、詳しく考えると多く扶鸞の術から出ている。ただ、その言は深くないが、三教を兼摂し五倫を敦修させようとするものなので、識者がこれを酷論しないだけである。世間はもとより呂仙を信じ、遵奉して疑わない。呂すでに鸞筆龍沙(自動筆記)によって世に出る。呪者が呂を招いて場に臨ませるのも不思議ではない。明の謝在杭が一笑話を記す。「私が東郡に居た時に、功曹に能く呂仙を招く者が居た、名を籍甚と云う、私の代わりに数事を卜(占い)させる。出て来たその詩を読むと章に成っていない。どうして呂洞賓が詩を能くしないことがあろうかと笑って指摘する。他日また他事を卜させる。しばらくしても筆を下さない。これ引くと徐(おもむろ)に書して、彼は我が詩の佳くないことを笑うと云う。大笑いである。」と云う。
呂洞賓の詩に云う、

落日 斜めに、
秋風 冷ややかなり。
今夜 故人 来たるや来たらざるや、
人をして立ち尽くさせる 梧桐の影。

 これは後人が梧桐影の詞体とするものである。静かでものさびしいそのさまには愛すべきものがある。また云う、

眉は 剣を拍つに因って 星電を留(とど)め、
衣は 雲に眠るが為に 碧嵐を惹(ひ)く。

仙人の趣き賞すべきではないか。また云う、

杖は揺(うご)く 楚甸(そでん) 三千里、
鶴は翥(はう)つ 秦煙 幾万里。

 豪放を悦ぶべきではないか。呂仙の詩はこのようである。しかるに謝在杭に対して章を成さない詩で答える。謝が、「呂洞賓は、私が彼を笑うのを知って、終(つい)に一佳詩を作って贈ることも出来ない」と嘲るのも、当たっていると云える。
 謝は云う、「世に箕(き)の詩が伝わる、極めて佳いものがある、想うにこれは鬼神がこれに附くからであろう」と。また云う、「箕仙の卜が何時頃から起ったかは知らないが、唐・宋以来紫姑の説が有り、今や箕によって仙を招くことは、里巫や俗師や士人もこれを能くする。およそその初めは皆遊び事で、幻惑して俗人を欺くことから始まった。そして、これを行うことが長い間つづく中に、物が有って憑くと思われるようになった。思うに遊鬼に因って之に附いて、吉凶禍福が時々に的中することが有ったが、これを行う者もどうしてなのか知らなかった。私の友人の鄭翰卿は最もこの遊びを上手にした。萬暦庚寅辛卯の間に、我が郡に疫病が大いに起こる。家々は五聖人(尭・舜・禹・湯王・文王)をおごそかにお祀りした。鄭はその迷信であることを知り、乃ち詐(いつわ)って箕を降して、陳真君が上帝の勅命を受けて専ら疫病神の命令を下したと云って、即ち廟を五聖の側に建てる。思いがけず文書が土地の神と五聖に下る。愚民一同はこれを崇奉し、日々忙しく請卜する。たまたま閩(みん)の牢獄で囚人を失う。箕を招く。書して云う、

天網 固(まこと)に漏れ難し、
人寰(じんかん) 安(いずく)んぞ逃げる可き。
石牛 鉄馬に逢う、
この地 牢を尋ねる可し。

 幾らも経たずに之を石牛駅の鉄馬舗(ふうりんや)の中で得る。名声大いに高まり、遠近(おちこち)より雲集して祈祷する。その中に私の友がいる。私は笑って卜を問う。皆もまた自ら託す者がどうして中(あ)てるのかを知らないと云う」と。これまた笑話である。ただ謝が鬼神が憑くと云い、世間がそのようなことも無いことは無いと云うのは、未だ理由(わけ)も分からずに鬼神が現われ仙人が降ることで、幽識が顕発し無意識が現出するというだけである。
 それにしても箕仙の行為には、神通が有るようで、霊才が有るようで、真に鬼神が現われ仙人が降るようなことも実に甚だ多かった。まして自分から何某の鬼神と云い何某の仙人と云えば、古人が物怪(モノノケ)が憑くと云うのも無理はない。董無益が記す女仙の三絶句の一に云う、

松影 壇を侵して 琳観静かに、
桃花 水に流れて 石橋(せききょう)寒し。
東風 吹過ぐ 双胡蝶
人に倚(よ)る 危楼の 第幾欄。

 真(まこと)にこれこそ女仙の詩ではないか。また李和父が貴人の家に降った仙人にその名を問うが答えず、忽ち薛禝体(せっしょくたい)の大文字で一詩を書く、その辞に云う、

星冠 玉帯 辺塵に落ち、
幾たびか見る 東風の好春を作(な)せるを。
江南を過ぎるに因って 宗廟を省みれば、
眼前 誰かこれ 旧京の人。

 さながらこれは、帝者の悲しみを写すものではないか。また宋慶之が箕仙を苦しめようとして、七夕の新詞を求めて八煞(はっさつ)を用いて韻とすることを求めると、険悪の韻を用いて箕は飛ぶように動き、忽ち「鵲橋仙(しゃくきょうせん)」詞の一闋(ひとくさり)を作る。このようなことは凡才では一日苦吟しても、出来ないことではないか。この事は皆、明の田叔禾の書に出ている。また士有り、芭蕉葉を袖に入れ乩仙を試みて袖中の物を問う。乩筆を運ばせて云う、

袖裏 懐き来る 一葉の青、
知る君が 意(こころ)の功名を問う無きを。
憐れむべし 昨夜 三更の雨、
滅却す 窓前 数点の声。

 また人有り、雁来紅(がんらいこう)を用いて之を問う。乩判して云う、

蘓武 当年 胆気雄に、
曽て一箭(いっせん)を将(もっ)て 飛鴻を射る。
今に至って 血は染む 堦前の草、
一度(ひとたび)秋来たって 一度紅(くれない)なり。

 巧中(こうちゅう)すでに珍しく、詩もまた拙くない。この事は「渉異志」に出ていて、「柳亭詩話」巻二はこれを引く。およそこのようなこと、古人が物怪(もものけ)が憑くというのも実に頷けることである。(物怪の二字は史記に出ている。邦語の「もののけ」はこれを和読したように思われる。)
 紫姑の二字は李商隠の詩に見えるが、紫姑を迎える者の状態は書かれていない。宋の陸放翁は一代の詩人だが、その「剣南詩藁」巻四に無題一篇が有って云う、

書閣 人無くして 昼漏(ちゅうろう)稀なり、
離悰(りそう) 病思 両(ふたつ)ながら依々たり。
釵梁(さりょう) 双燕 春先ず到り、
筝柱 覊鴻 暖かにして帰らず。
紫姑を迎え得て 近信を占い、
白紵(はくちょ)を裁ち成して 征衣を寄す。
晩来 更に隣姫に就いて問う、
夢に遼陽に到る 果たして是か非か。

 これに拠れば紫姑を迎えて卜問するのは、寝室における児女であり、その状況を看取るべきである。宋の洪邁の夷堅志は云う、「紫姑は仙の名である、唐の時代にやや之を見る、世間ではただ箕を用いて筆を挿み二人に之を扶助させる。そして沙(砂)の中に字を書く」と。陸詩が紫姑を迎えて近信を占うというものは、即ちこの箕筆で占うことである。
 清以来の書は、多く扶乩の二字を用いる。乩字は古い字ではない、卟字は疑わしい。乩卟の音はみな稽で、稽は箕の音に近い。乩の術は箕を用いて筆を挿まないが、その法が箕卜に酷似することは、その淵源が箕卜に在ることを推測させる。そこで「兪曲園雑纂」は、「当(まさ)に扶箕に作るべし」と云う。その言は正しく、扶乩と扶箕は異なるものでは無い。
 扶箕の状態を最も善く描いたものに、古くは陸放翁の詩があり、「剣南詩藁」巻五十に箕卜と題する詩があって、云う、

孟春 百草霊なり、
古俗 紫姑を迎える。
厨中に 竹箕を取り、
冒(こうむ)らすに 婦の羣繻を以てす。
豎子 挟みて扶持し、
筆を挿みて その書くことを祝す。
俄かにして物有りて憑くがごとく、
対答 須臾(しゅゆ)ならず。
豈 中(あた)るや否やを考えるを要せん、
一笑して 聊(いささか)相娯(たの)しむ。
詩章も また間々作る、
酒食 須(ま)つ所に随う。
興(きょう)闌(たけなわ)にして 忽ち辞し去る、
誰か能く その袪(きょ)を執らん。
持って竈婢(そうひ)に畀(あた)えて、 (一字失記)
棄筆 牆隅(しょうぐう)に臥す。
几席 また已に撤すれば、
狼藉たり 果と蔬(そ)と。
紛々 竟(つい)に何ぞ益あらん、
人と鬼と 均しく一に愚なり。

 羣繻は或いは裙繻の誤りではないだろうか。この詩は平叙巧描して能く古俗を眼前に現わす。孟春の一語によって、紫姑の没日が正月十五日なことが分かる。竹箕扶持の四字によって扶箕の一語の由来は極めて明白である。一笑聊相娯の五字と人鬼均一愚の句によって当時の箕卜の様子を推察することが出来る。しかるに此の古俗のママゴト遊びが、人の奇異を喜ぶ気持ちを培養して終に箕仙と称する占いが生じ、また道士が利用するようになって、終に箕著箕撰と名付ける書が生じて、「金華宗旨」・「広慧修心保命超劫経」・「醒心真経」・「清微三品経」・「五品経」・「八品経」・「広化真経」・「参同経」など数十百種を世に贈り、涵三会・棲真会などの結社が生まれることとなった。それ等が起こり物が生ずるには必ずその起生する理由と機会があって、鬱然と起こり勃々然と盛んになるのであるが、箕の事が清の初めに興隆して、呂仙や文帝を信奉する者が天下に満つるようになるとは、アア、また奇なりと云おうか。
「奈何天」・「慎鸞交」など十種曲を著わした李漁は、字(あざな)の笠翁で広く我が国の人に知られる。呂仙の集を読むと、笠翁に示すという詩があって云う、

瀟洒たる文心 慧自ら通ず、
無端に 筆下 長虹を起こす。
波平らかに 雲散じて 毫(ごう)を停める処、
万里 秋江の 一笠翁。

 箕詩であること論無し。笠翁は思うに乩仙に親しむ。為にその著わす小説「十巹楼(じゅっきんろう)」に、降仙の言がよく中(あた)ることを書いている。「十巹楼」は雑多なくだらないことを書いた短編で語るに足るものでは無いが、中に仙を招いて事を判じることの上手な者を描いた場面は、当時このような者が居たことを思わせる。記して云う、明朝の永楽初年の浙江温州府永嘉県に、一字も識らないような愚民が居て郭酒癡(かくしゅち)と呼ばれていた。大酔しては能く仙を招いて占い事をした。その応じること打てば響くようであった。最も喜ぶべきは、いつもは無筆な彼が仙を招いて占い事をするときになると、彼の懸筆で書く字は法帖に比べ幾分か優っている。ただ招く仙はすべてこれ書顚草堂である。そのためこのようになる。嘗て「淳化法帖」に名の無い者は招かなかった。云々。・・以下姚家の主人が息子の為に楼を造って嫁を迎えるのに備え、郭酒癡を招いて楼名を仙に乞うことを記して、酒癡が一酔の後に、口もきかず言葉も出さず筆を提(ひっさ)げて十巹楼と大書して九日道人酔筆と署名する。陪席する客等はこれに因って張旭が降臨したことを知ったが、十巹二字の意味が理解できなかった。後になって姚秀才が十たびその楼に合巹(ごうきん)の礼を挙げる話を叙述する。事は卑陋で今更語ることも無いが、只このような小説が有り、このような小説を著わした者が居たことに照らして、当時このような者が居て、このような事が行われて居たことを知るだけである。
 笠翁の著わした「閒情寓寄(かんじょうぐうき)」に序す者に尤西堂(ゆうさいどう)が居た。尤西堂は名を侗(どう)と云い別号を梅菴と云う、心が広く温かい風流な人で早くから才能を清帝に知られる。康煕の時に博学宏詞に任命され、官位は侍講となる。呉梅村や王漁洋等の集に序す。その才学が当時に軽んじられていなかったことが分かる。学問は道教や仏教に通じ、才能は詩詞に長じる。余技に釣りを楽しむ。「読離騒」・「弔琵琶」・「桃花源」・「黒白衛」・「清平調」などの曲を作る。「読離騒」は天覧を得て教坊の楽人や妓女によって演じられ、「黒白衛」は王漁洋がこれを喜び持ち帰って、冒辟疆の家令に渡して自ら顧曲を作る。西堂はもとより笠翁の比ではない。しかもなお西堂は云う、「僕元来多恨なり」と、実に多恨ではないか。多恨ではないか。その妻を失って絶句六十首を作る。足りないとして七律十章を作り、又足りないとして十絶句を作り、又々足りないとして楽府補題を作り、又々々足りないとして十余章を作り、太乙の乩語に「亡婦今天妃宮に在り」と云うのを聴いて、

親旧 相逢い 且つ杯(はい)を尽すも、
君を思いて 独夜 恨んで徘徊す。
ただ応(まさ)に 扈従(こしょう)する 天妃の駕に、
翠蓋 霓旌(げいせい) ともに往来すべし。

と吟ずる。多恨なる痴人に近い。しかしながら既に詩詞を愛す、ただ正に多恨にして痴人にあらず、何ぞ多恨にして痴人に非(あら)ずか、蔡邕(さいゆう)は五娘に負(そむ)き、李益は小玉を棄てる、たとえ作品中の話といえども、また憎むべし。ただ尤西堂が多恨なる痴人であるのみならず、多恨にしてまた多恨、痴人にしてまた痴人であるに於いて、人はまたその笑うべきか悲しむべきかを知らず。
 何を以てこれを云うのか。私は西堂の「瑤宮花史」と「木瀆仙姫(もくとくせんき)」における文章を読んでこれを云うのである。木瀆仙姫は実在の人ではない。扶箕の術によって丙辰の冬に郡侯高蒼巌の役所に現れた美人である。これがために西堂はその伝記を作る。文は「雑爼三集」巻六に載る。その概略に云う、「姫は武林の人で、姚氏にして名は玉、五才にして孤児となり、外祖に育てられる。九才にして外家が亡び没落する。同輩は歌舞を勧めるが断って行わず。これを強いられ因って琴を学ぶ。五十曲に通ず。清風明月に当る毎に、瓶花一枝、炉香一縷、鼓すること一再、蒼然として涙は下る。自ら呼んで云う、「玉や玉や、ついに苦しみに陥るか。故郷の雲樹は遥かに遠く、孤山の鶴の啼き声は何時また聴けることか。父や母は我を育て終えずに逝く、どうしたら善いのか」と。年十五にして詩八百首を読む。全てを失い、誘われて某太守に献じられる。姫すでに我が身を失い鬱々として楽しまず、詩を賦して自らを慰める。群妾妬み誣いて、遂に殺害される。その霊は昇天せずして、たまたま崋山の破雪仙師の教を受けて遂に仙籍に隷属し、木瀆の地を主(つかさど)らされて水神となる。木瀆の地は胥江の横搪から霊巌の香水渓に接し、更に進むと鄧尉諸山の梅花萬樹や衆香国のような処である。姫の詩に云う、

年を経て 憔悴 梅花に到る、
木瀆の寒風 石径 斜めなり。
記し得たり相思 明月の下、
炉煙 縹緲 児の家を認む。

 姫の為にその姿を画こうとする者あり、その装束を問う、答えて云う、「幅広の深衣(しんい)を着て、手に竹枝を持つ」と。思うに道士の装いである。高公の幕客に桑楚執・汪栗亭・陳山農・程香升の諸君が有り、姫と唱和する。佳句多し。
 尤西堂云う、「才子の運命は数奇にして、佳人の運命は薄命である、その運命の不遇な者は死するや必ず神霊鬼怪となり、浩蕩(こうとう)たる天地の間に飛揚する、道理は固(もと)より当然である」と。西堂はまるで実際に木瀆仙姫姚玉という者が居たと信じて、その薄命と雅才を憐れもうとする。その木瀆仙姫に贈る十絶句が、「看雲草堂集」巻八に出ている。今その一ツを採録する。云う、

遥かに指す 斜橋 小玉の家、
西山 月落ちて 梅花に酔う。
天台 劉郎に嫁し去らずして、
女伴 還って尋ねる 蕚緑華(がくりょくか)。

 蕚緑華は梁の時代に現れた仙女で、詩才壮麗にして風神縹緲、真(まこと)に天界の人である。木瀆仙姫の真に世に在るや否や、有無既に考えるべきではない、そして十絶句を贈る、西堂も実に多恨である。ではあるが情の及ぶところ、どこに有無を問う暇(いとま)があろうか、これなお可(よし)と云えよう。しかし、「瑤宮花史」を叙するに至っては、西堂もまた野放図になって、オフザケもその極みに達する。
 「西堂二集」巻六に花史小伝を載せる。云う、「癸未(きび)の年、私は書を王氏の如武園に読む、偶々(たまたま)扶鸞之戯(ふらんのあそび)を行い、瑤宮花史に遇うことができた。花史は何氏か、小名は月児にして、明初の山陽福家の娘である、年は十六、独り花下に在って花を摘む、一書生の調する(からかう)ところと為る。父母怒って之を責める。遂に水に入って死す。西王母はその幼敏を憐み。(仙人簿に)録して散花仙史と為す。これは掌文真人の唐の孫過庭が私に告げて云う。初め壇に降る。詩を作って云う、

片々たる落英 飛騎の客、
翩々として 独り風前に向って立つ。
緩行 徐過す 小橋の東、
只恐る 春衫(しゅんさん) 香汗の湿(うるお)うを。

寒夜嘗て私と連句して云う、

樹頭の落葉 天衣舞い、
蕭瑟(しょうひつ)たる風篁(ふうこう) 露の晞(かわ)くに吟じる。(花史)
青火 半(なかば)鎖して 残月 継ぎ、
黄鐘(こうしょう) 初めて罷(や)んで 暁星 稀なり。(花史)
新寒 剪(き)って到って 羅帷 急に、
愁涙 弾き来たって 香息 微なり。(花史)
消遺 夜深くして 帷 夢有り、
巫山 片雲を携え得て帰らむ。(花史)

 以後、相対して多く断腸哀怨の長い連句をした。私は戯れに手紙を書いて送る。この夜ついに夢に花史が静々とやって来る。年頃十八九。頭上には百花の髻(もとどり)。芙蓉の冠を戴き。碧色のしだれ鈿(かんざし)を挿す。金糸銀泥で美しく、ぼかしの入ったうすものを着て、色鮮やかな靴を履いている。優雅な衣装を着て媚(こび)を含んで、振り返った容子は描画することが出来ない。帷を掲げ微笑して、物言いたげな容子に、私の胸は忽ち捕らわれ、また鬼神に肘を掴まれたような心地になる。驚いて目を覚ませば、残光が明滅し、明り障子の窓に風声が條々とするのを見る。嘆き泣く者が居るような気がする。明朝これを問う、「私は夜間に貴方の枕辺に来ること数度、貴方は五臓神の守る処となって覚める。則ち退くのみ」と云う。予が、「五臓神とは誰ぞ」と問うと、花史は、「凡そ人の一身は、皆神が居てこれを守る。耳目手足は神が居て外を守り、五臓魂魄は神が居て中を守る、縁有る者は、神これと親しみ、縁なき者は、神これと親しまない、私と貴方は情が深いのに、三生石上一笑の縁も無いのをどうしよう」と云い涙を流してすすり泣く。以下略。
 花史が作る所の太崋山の詩には佳句が多い。そしてこれを記すに蟲書(ちゅうしょ)を用いてする。蟲書の全文、載せて文末に在り、これを察するに字画を省いて字体を装飾するものなり、西堂は何で児童のするようなことを敢てするのか。また伝中に記す、「戯れに書簡を用いてこれに贈る」と云うものは、同集巻七にある戯与瑤宮花史啓一篇が即ちこれである。中に、「風裏の楊花と為るなかれ、永く天辺の匹鳥(鴛鴦)とならん」の句があって、人を笑わせる。
 西堂は、「花史は嘗て私の前に姿を現わす。一夕、月明りの竹下に、雲(黒い)鬟(みずら)に翠(青い)袖で、近づいて私を招く者が有る。これを望めば軽やかにやって来て、近づかんとこれを求めれば去って、その行く所は漠然として分からない」と記す。アア、西堂は多恨か痴人か、扶鸞の術に由って現れた明初の一霊魂を思って、句を連ね書を贈り、夢の中に之を見て、月下に之に近づこうとする。洒落放蕩もまた甚だしい、西堂の文は戯謔が多いと称せられるのもまた頷けるではないか。
扶箕の語の由来は既に説いた。扶鸞の語の由来は思うに蜀の梓潼帝君廟の降筆亭に飛鸞があるのに基づく。「文昌帝君本伝」に、「閬中(ろうちゅう)の住民が梓潼県に於いて廟を建てて祭祀し梓潼君と名称する。廟は九曲の北に在り、降筆亭が有って、その中に金索を用いて一ツの五色の飛鸞を懸ける。鸞の口に筆を挿んで、その下に金花箋数百幅を敷く。亭の門衛は封鎖を甚だ厳重にする。降筆が終われば、鐘が有って自ら鳴る」と云う。懸鸞が筆を銜(は)み、神が降れば筆は自ずと動いて訓(おしえ)を垂れる。これに因って扶鸞の語が生じるなり、後の術士や扶鸞を行う者は筆に代えて錐を懸ける。沙(砂)を盤上に平らに敷いて錐下に設置する、これを龍沙と云う。神降れば錐が上下左右して龍沙に書く。時には龍沙が飛び散る勢いになると云う。西欧のプランシェットと云うものは、実に扶鸞の術の千年余り遅れて起きたものである。梓潼帝君の事に就いては別考が有るが今は語らない。
(大正十二年四月)

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