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幸田露伴の史伝「頼朝④英気2」

 「十二三にもなって、馬上で眠るなどとは不甲斐ない」と、義平は義平の料簡で頼朝の馬眠りを批判したが、それに答えて父の義朝が「十四五になればお前に劣る事も無いだろう、末は大将となろう」と云って却って頼朝を庇って、「先に立て」と云って頼朝を先頭にして鏡宿を過ぎたと云うが、思えばこの馬眠りも臆病なら出来ないハズのことであった。不破の関は敵が固めていて落人を捕えようと網を張っているので、小関を通って落ちようと云うので、小野の宿から街道を右手に取って小関を通って落ちた。二十七日は朝から戦、その夜は歩き通しで、二十八日になった。昨日の夜明け前も雪で、待賢門や郁芳門前の戦も残雪が日に照る中でのことであったが、今日はまた美濃路の土地の北に高く寄った中を、空はかき曇り寒風烈しく雪も落ちて来たから、落人の悲しさ情けなさがヒシヒシと骨身に沁み徹る。ドーッと吹いて来る雪颪(ゆきおろし)は馬前に渦巻いて行く手の道も見えない。コウなると馬上は堪えられるものでは無い。風が当たる、手足が次第に凍って来る、一度吹雪の中を馬を駆ったことのある者は夏でもこれを想えば肌に粟が立つほどのものである。小関の路は詳しく知らないが、不破の関が通れないのでそれを通ったと云うのであるから、何れ国見峠から伊吹山や中霊山(霊仙山?)へと連なっている山脈の中の伊吹山の裾の何処かを西から東へと突っ切ったので、今云う藤川越え(剱の巻によれば藤川越えではない)か横嶺越えあたりの抜け道だろうから、人里遠く道も険しくて、雪は勿論深かった事だろう。牛若丸等三人の子が常盤御前に抱かれて雪の伏見に悩んだのは翌年の二月十日だが、真の辛さは物心が付いているだけ、頼朝のこの小関越えの方が勝っていた事であったろう。何れにしても雪は源氏の人々に恐ろしく辛い目を見せている。そこで到底馬上では落ち延びられないので、武士に取っては子のように可愛い愛馬を捨てて、徒歩になって人々は落ちたのだが、憐れと云うにも余りある。サテ徒歩になってみると、鎧兜が馬鹿に重く、いよいよ疲労が増してくる、雪はいよいよ深くなる、如何に勇士の面々でもどうして堪えられよう。木曽義仲は木曽の荒山育ちの猛将であるが、その義仲ですら最期の日は数時間の戦いに疲れて、薄鉄(うすがね・義仲の鎧)が肩を引くと云って、鎧の重いのを歎いている位である。まして頼朝たちは散々戦った挙句に夜通し歩いて美濃路まで来たので、意地にも我慢にも鎧では苦しいので、苦しい時は身を剥ぐ道理で、秘蔵の家重代の鎧であるが、義朝の楯無、頼朝の産衣、義平の八龍、朝長の沢潟、これ等は何れも日頃から汚さずに大切にして来たものであるが、それを振り積もる雪の中に捨てて仕舞って、身軽になって雪を分けて進んだのである。可哀そうなのは頼朝である。何といっても十三才なのだ。馬ならまだしも人々について歩くことも出来たのだが、徒歩では雪路を大人と一緒には歩けない。キット義朝は憤怒を心に懐く勇士の沈黙で、物も言わずに口を一文字に結んでサッサと歩いた事であろう。頼朝は一生懸命に歩くが小股の悲しさ追い付くことが出来ない。義朝は我知らず先に立って歩いていたが、立ち止まって人々を待って、「誰が遅れたか」と云うと、鎌田が「佐殿がまた後れさせ玉いて」と云う。「ソレ探せ」と云うので鎌田が疲れ足を引きながら引き返して、「佐殿は何処に居られますか」「佐殿は何処に行かれましたか」と雪嵐の中に呼びかけたが、寒林に吹きすさぶ風の音だけの一面に白い雪の山道、どこにもそれらしい姿は見えない。やむなく引き返して報告をすると、流石の義朝もガックリと心が折れて仕舞って、「エエ、情けない、運の尽きだ、どこまでも頼朝を手離さないよう思っていたが、ついに頼朝に離れたのは心外だ、残念だ、敵に取られて斬られるか、雪に倒れて空しくなるか二ツに一ツ、もはや満足に生きてはいまい、義朝の運もモウこれまでだ」と、雪にドッかと坐って小刀に手をかけ、あわや自害と胸を押し広げると、義平も朝長も皆立派な男子達だが、「父上が御腹を召される上は、仕方がない我等が運命、御供仕る」と皆自害を為(し)かかった。鎌田や金王丸が左右から取り付いて、「御道理ではございますが、佐殿一人を惜しみ玉いて御自害あれば、二人の御子息も御自害なされますのに、なぜ二人の御子息を失い玉われます、御心が弱い、御考え直しを」といろいろと諫めたので、義朝もようやく思い止まったと云うのである。実にこの時の光景を思い遣ると、悲しみの上の悲しみ、苦しみの中の苦しみ、失望の極みの失望で、流石の義朝でも死にたくなっただろうと思われる。それが争えない人情と云うものである。しかしまた、考えて見るとそれを諫めて止めた鎌田も一ト通りや二タ通りの性根の男では無い、ここで鎌田が、「されば私めも御供して、死出三途の御馬前に立って御先払いをいたしましょう」とブツリと切腹して仕舞えばモウそれ迄なので、義朝も義平も朝長も金王丸も佐渡重成も平賀義宣も皆伊吹山の裾野の雪に骨を埋めて仕舞った事であろう。義朝や義平や朝長は却ってその方がよくて、内海で長田庄司に討たれたり、六条河原で難波次郎に斬られたり、青墓で父の手にかかったりするようなことも無かったろうが、その代わり頼朝は父や兄等が自害して果てたと云う事を聞けば、いくら大器量人でも十三やそこらであるから、血迷って何処かの辻堂かなんかで不憫な自殺者になって仕舞ったかも知れない。したがって日本の歴史の大回転を起こす大事業も、出来ることは無かったかも知れない。ここでウンと踏み堪えて死を止めた鎌田は実に見上げた強い男で、流石に保元の戦で鬼人と恐れられた鎮西八郎為朝に駆け向かって、「昔は御主君筋におわすが今は朝敵、政清は下郎の分際なれど遠慮致し申さぬ」と云って、矢を放ち為朝の兜に中てて烈火のように為朝を怒らせた男である。昨日の戦では敵の大将の子の重盛に二矢を射ったが、重盛の鎧が唐皮と云う有名な鎧であったため跳ね返されて仕舞った、二本目は馬を射って屏風倒しに重盛を転げ落としておいて、「イデヤ」と取って掛った時に、重盛の郎党の与三左衛門景安と云う大剛な男が駆け塞がって、「平家第一の大切な人をオノレ等に打たせてなるものか」と睨んで取り組んだ。死力猛烈で鎌田ほどの勇士も取って押さえられた。その時、悪源太義平は目指す敵の重盛を見つけて飛んで来たのだが、鎌田政清が組み敷かれているのを見て、政清を助けようか重盛を討とうかと迷ったが、重盛にはまた会うことも有ろう、政清を討たせてはと咄嗟に考えて、与三左衛門を三刀刺して首を取って仕舞った。それを見て重盛の家来の新藤左衛門家泰が義平に組んで掛ったのを、鎌田が落ち重なって首を搔いて仕舞った。これほどの忙しい中でも主人に敵の大将よりも重く思われていた鎌田であるが、義平にそう思われるのも成程の器量のある男である。義朝が落胆して自害しようとしたのを止めた事は、中々心のネバリ強い、シブトイところのある強い男だ。鎌田のことはさておいて、義朝が頼朝を見失ったために自害しようとしたことは、どんなに義朝が平常から頼朝を愛していたかを証拠立てるではないか。前に載せた鬼武者の章と照らし合わせて見たならば、誰もが義平や朝長よりも頼朝を愛していたことに気付くだろう。馬眠りを貶(けな)した義平の言葉に対して弁護した義朝の言葉などを考えると、後の作家が頼朝を偉く書いただけで無く、どうも実際に頼朝は他の兄弟よりも父に愛されて居て、そしてその愛された原因が、日頃から頼朝の英雄の気象が溢れ露われて何となく傑物に見えるところから、沸(たぎ)り立った烈しい気象の義朝に甚だ好かれたらしく思われるのである。サテ義平は鎌田に諫められて死ぬことも出来ないで、目指していた青墓に着いた。青墓は大垣の西北に当たる小駅であるが、義平が青墓に落ちたのは一ツには街道であるからで、又もう一ツは因縁の地でもあったからである。と云うのも、青墓の宿の長者の大炊と云う女は父の為義の妾の妹で、そのまた大炊の娘の延寿と云うのが自分の妾で、それには十才になる夜叉と云う女の子さえ出来ている仲なのであるからである。すべてこの時代の遊君遊女と云うものは後の飯盛女の始めのように見えるが、後の飯盛女とは大いに違って、その独立した者は土着して居る外妾のようなもので、無暗に遊客に接する者ではないから、そう賤しい者でも無く、氏素性も知れていて、多くは子なども有り、その子もまた社会から排斥などされて居ないのである。一ツ二ツ例を挙げれば、鎮西八郎為朝の母は江口の遊女であるし、富士川の戦で平家を驚き潰えさせた武田信義の母は池田の遊女で、また範頼の母もまた池田の遊女であるようなものである。特に義朝の妾の延寿の母は為義の外妾で、乙若・亀若・鶴若・天王の四人の母だった。そして大炊姉妹の父の内記太夫行遠と云う者は、保元の戦で為義方で死んでいる内記平太政遠や平治の戦で鷲栖の玄光と名乗っていた悪たれ坊主で昔の名を内記平三真遠とは兄弟なのである。こう云うように青墓の長者の家は重ね重ね源氏に深い縁が有ったので、後に頼朝が天下を取ってから威風堂々京へ上る途中、建久元年十月二十九日に青墓の宿で大炊の息女とあるから即ち父の妾の延寿であろう、それを召し出して褒美を与えている事実がある。辛い雪道を落ち延びてやっと妾の延寿のところへ辿り着いた義朝は、ホッと一ト息ついて暫し温湯(ぬるゆ)の一杯をも飲んだことであろうが、どうしてどうして安穏では居られない、平家の手が廻るのは分かり切ったことであるから、碌に休息も取らず十才になる娘の夜叉も一目見たきりで、「義朝の運は悪くはない、東国に着いたならば呼び寄せよう、モシ討たれたと聞いたならば後世を弔わせよ」と云い含めて、「サア、あちらへ行って居ろ」と云うような情けない状態だ。そこで義朝は義平と朝長をよんで、「義平はこれから北国へ下って、越前の国から始めて北国勢を揃えて攻上れ、朝長は信濃へ下って、甲斐信濃の源氏を集めて攻上れ、我は東国に下って兵を集めて上るぞ、三手が一ツになれば平家を滅ぼし源氏の世にする事疑い無い」と云い付けたと云うのである。義平は十五の時に叔父の義賢を討ったほどのしたたか者だから、そのような命令を受けても能く出来るのであるが、朝長は年わずか十五なのだもの、どうして一人単独で行ったことも無い、知った人が居るでも無い信濃や甲斐の国へ行って、兵を募って都へ攻め上るなどと云う事が出来ようか。十五才がたとえ二十五才でも、単独でしかも朝敵と呼ばれる身で、信濃や甲斐の国をうろついて、いくら源氏の多い国であっても人の心は測り知れないのに、一致結束して兵を挙げることなどは、一ト通りや二ト通りの思慮才覚や勇気や熱心などで出来ることでは無い。可哀そうに十五や十六の朝長へその様なことを云い付けるのは実に無理なことなのである。ただそれだけで無く一家凋落の此の悲境において、親子散り散りになる事は忍び難いところである。そこで流石の義平も朝長と共に、「ここにて父上に別れ参らすことは悲しく思います、何処までも御供仕りたく存じますが」と、一応は云ったのであるが、自分等の思いは個人の事で軽く、父の命令は大事に関わる事で重いので、「お言葉に随います」と義平も朝長もその夜直ちに青墓の宿を出たのである。朝長も実に義朝の子である。身も疲れ切っていたであろう、心細くもあったろうが、ともかく一度は父の命令に従って、出来かねる大任を引き受けて勇を振るって出た。たった十五の少年がこのような大役を背負って千里を独行しようと云うのである。その時の朝長の心中を想うと涙が溢(こぼ)れる、朝長もさぞ涙であったことだろう。サテ兄の義平と一緒に遥か遠くに出てから、行く手の路も覚束なくなって、朝長は兄に対して「ソモソモ信濃や甲斐は何方(どちら)でしょう」と訊ねると、精悍無比の悪源太義平である、千丈の崖も大手を広げて飛び下りようと云う気象の男だから、一語鋭く二度と聞くなとばかり、天打ち仰ぎ遥か遠く雲間を打ち見て、「彼方(あちら)へ向かって落ちて行け」と云ったきりで、自分は鳥が飛ぶように何方(いずく)とも無く走り去って仕舞ったと云うが、義平のこの答は下手な禅坊主の言葉などよりもはるかに面白い、鉄を切るような恐ろしい教えである。朝長に取ってはどれほど情けなかったことであろう、仕方ないから指示された方へと目指して行ったが、身心ともに疲れ切っている上に、龍華越えで受けた矢傷が碌に手当てもしないで伊吹山の裾を雪を分けたのであるから、その傷が段々重くなってどうする事も出来なくなった。そこで已む無くビッコを引きながら青墓へ帰って来た。すると、「何で帰って来た」と云う義朝の問だ。「龍華の矢傷が、伊吹山の雪で悪化したので、傷養生をした後にと思い帰りました」と云うと、その時義朝は可哀想にとも云わないで、「憐れな不覚者である。頼朝であれば幼くともこのようなことはあるまいものを、お前をここに置いて敵に囚われ、恥を流すのも口惜しい、義朝が手に掛けて暇(いとま)を取らせて遣ろう」と云うと、「朝長も、この傷のため不甲斐ない命を生きて、ヨロヨロとした体で落ちて詰らない雑人共の手に掛かるよりは、父上の手に掛かり参らすこそ有難く存じます」と云う健気な答えだ。義朝は不覚者と云ったが何で朝長が不覚者であろう。立派に義朝の子として恥ずかしいことは無いでは無いか。義朝の言葉は壮烈で沈痛である、朝長の答は優美で幽かに咽ぶ、憐れ龍華の矢傷が朝長を苦しめたのである。矢傷さえ無ければ兎にも角にも信濃路に落ちて次の展開を見せた事であろうが、あたら紅顔の少年を矢傷の為にムザムザと、その美しい最後の言葉を置き土産に残して、終に父義朝の刃の中に世を終らせて仕舞ったのである。可哀そうに朝長は武士道の犠牲になったのである。十五や十六のことである、時代の道徳に疑いも持たず批判も加えない、ただ清らかな無邪気な心で、時代の道徳に随って死んで仕舞ったのである。その心の中は水晶のように奇麗なのであるが、今日から見ると、武士道と云うものを褒めることが出来ないほど、実に可哀想な人である。朝長を語るのが主題では無いので朝長の事は此処までとするが、朝長が帰って来た時の義朝の言葉に、「頼朝であれば幼くともこうは有るまいものを」とある所を見ると、頼朝は日頃から兄の朝長に比べて逞しいところが有って、その才覚や勇気に大事に当たることの出来る様子が見えていたものと思われる。兎に角頼朝ならばこうは有るまいと義朝に思わせただけの「平生の行為」が頼朝には有ったのである。後に天下を掌握した頼朝に、どう云うことが有って父にそれほど嘱望されていたかの個々の話は伝わって居ないが、何にしても「英気の発露」が一ト方ならず父の眼を射て、そして彼の梟雄の義朝に「頼朝、頼朝」と大切にさせたのである。頼朝が源内兵衛を斬ったことと云い、二十七日の朝の「我より寄せん」云った言葉と云い、馬眠りを咎めた義平の言葉に対して、「あわれ末代の大将軍」と義朝が云ったことと云い、頼朝が十三にしかにならない間に、既にその凡庸で無い英雄の気象を現していたことは実に明白であって、その英邁な気象を義朝が愛してかは知らないが、「鬼武者」と云って抱きかかえたり、産衣や髭切丸を持たせたり、義平に対して弁護したり、終にはその姿を見失って小関の山中で自害しようとしたことは、義朝が十二分に頼朝を愛していた事を語っているのである。であれば、頼朝は伊吹山の雪で父と別れるまでは、春の日のような和かな暖かな仁愛の下で、香草香木が自然と溌剌と霊香を放つように、美しく見事に成長したのである。決して北山の岩地で苦しみながら育った松などでは無かったのである。⑤に続く

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