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幸田露伴の小説「幽情記⑥ 一枝花」

幽情記⑥ 一枝花

 水は流れて已まず、時は移って止(とど)まらず、風は東西南北と廻り転(めぐ)って吹き、花は紅白紫黄と交(か)わる代(が)わるに咲く。
 中国・明(みん)の詞壇に旗印をおごそかに掲げ、当時に盛名を馳せた者は李攀龍(りはんりゅう)と王世貞(おうせいてい)である。格調を重んじて高華を崇び、いわゆる高尚な辞(ことば)を使うことを宗旨(むね)として一世を風靡したが、次第に模倣(もほう)や剽窃(ひょうせつ)の弊害が顕著になると、突如として立ちこれを排撃して性霊(せいれい・真情)を唱え、清新を尚び、真情の素直な発露が詩詞の生命であると云って、李・王に取って代わったものを袁宏道(えんこうどう)と云う。宏道、字(あだな・通称)は中郎、兄の宗道や弟の中道と共に並んで才名があり、当時三袁(さんえん)と称される。宗道は唐の白楽天と宋の蘇東坡を好み、その書斎を白蘇(はくそ)と名付けたという。平易で軽俊なことを喜び窮屈なことや難し過ぎることを斥けたことは、評価できるところである。宏道ともなるとその覇気辣才(はきらつさい)は遥かに兄を超える。もちろん李・王を攻める急先鋒であり、三兄弟の中でも傑出している。末弟の中道も十余歳で詩を作って才能を現したといえば、これも人を超えた者と云える。三袁と呼称して周囲に取り入る者が多くなり李・王の風も次第に息(や)んで、公安の文体が独り世に行われる。三兄弟が公安地方の出身なので公安体の呼称が生まれたのである。公安体を為す者達は清新を喜ぶ余りに古詩から背き離れて、戯れふざけ、嘲り笑い、時に下世話語を交え、やがては文章詩作の道も空疎粗雑な者達のオモチャとなって識者が之を憂慮するようになると、鍾惺と譚元春が幽深孤峭(ゆうしんこしょう・寂しさと深み)を唱えて竟陵体(きょうりょうたい)が公安体を圧倒する。竟陵体とは鍾・譚が共に竟陵の人なので、その文体をいうのである。とはいえ李・王の擬古主義を倒した功績は実に三袁にあるのである。
 我が国の漢文学は、荻生徂徠よって大いに開けた。徂徠が古文辞学を唱えるや平安朝以来の陋弊は一挙に掃蕩された。その功績は勿論大きいが、ただ徂徠が信奉するのは李・王等の古文辞派の説であって、古文を模倣した格調高い文体を宗旨(むね)とする。このため徂徠やその二三の高弟や実力ある者は可であるが、末流ともなると徒(いたずら)に意味不明の文章を作って得意満面、その自尊の状態は笑止千万な厭うべきものとなる。徂徠の死後五十余年して山本北山が起って、徂徠の古文辞学を猛烈に排撃して世に警告を発して人を驚かす。北山は実に袁宏道を理想とする者である。
 これ以前に、邦人で袁宏道を好んだ者がいなかった訳では無い。深草元成は親によく仕え戒律を固く守る人であったが、思うに袁宏道の文の軽薄なところを却って好んだようだ。また、「中郎集」の復刻が元禄年間に行われているが、これによっても袁宏道を好む者が北山以前にも少なくないことを知ることができる。
 しかしながら、徂徠学が隆盛な世では袁宏道を好む者があっても、柄杓(ひしゃく)の水で猛火を消そうとするようなものでどうすることも出来なかったが、北山が出て「詩文志殼(しぶんしかく)」を著わして古文辞派を排撃すると、徂徠一門も既に衰え文運も将(まさ)に末の時であったので、徂徠の古塁は忽ち破れて北山の幟(のぼり)が高く翻る。天地の運や春夏秋冬は順に代わり、人も役割を果たせば次の者に代わるのが定めである。李・王の才能が三袁や鍾・譚に劣るのではない、徂徠の説が北山に劣るのでもない、風は廻り転って吹き、花は交(か)わる代(が)わる咲くだけである。
 袁宏道は本国や我が国の文壇にこのような影響をあたえたが、また宏道の風流韻雅の好みは厚く、「瓶史(へいし)」一篇を著わして瓶中(へいちゅう)に花を挿して机上の春を楽しむ風情を記す。これ以後に張謙徳(ちょうけんとく)の「瓶花譜(へいかふ)」や李漁(りぎょ)の「閑情偶寄(かんじょうぐうき)」など瓶花を書くものはあるが、宏道の書が最も先行する。そしてその持論は高尚で煩瑣でなく、匠気や俗気が全くなく、欣賞すべきものがある。思うに文雅の士で花を好まない者は無い、花を好めば之を瓶に挿すことも自然にあることである。しかし古(いにしえ)から瓶花のことを記した者は無かった。宏道になって初めて瓶花の書が成る。素晴らしいことだと思う。
 我が国の瓶花の道は護命(ごみょう)僧都(そうず)や明恵(みょうえ)上人(しょうにん)等を源とするので、袁宏道の「瓶史」に先だつこと遥か昔であるが、いわゆる抛入(なげい)れの一派は宏道の影響を受けている。大阪の釣雪野叟(ちょうせつやそう)が撰集した「岸の波」二巻は、抛入れの花の書の先駆けと称される。その中は「瓶史」からの引用が多い。宏道と抛入れの関係を知ることができる。そして北山は之に序文を載せる。因縁は後に続くというべきか、釣雪から数十年後の名古屋に舎人武兵衛(とねりぶへえ)という人がいて、瓶花の技(わざ)で一家を成し道生軒(どうじょうけん)一徳(いっとく)と名乗って靖流(せいりゅう)を創める。袁宏道の流儀に基づくと自ら云う。今でも袁宏道流と称するものもある。我が国の挿花家の中に袁氏の子孫が居る。これもまた素晴らしいことである。
 「瓶史」があり、「瓶花譜」がある。中国の韻士や才女が瓶花の佳趣を理解することは勿論である。しかし詩文雑記に瓶花に関するものは甚だ稀である。中国の子女が瓶花を愛することの我が国の子女に及ばないことを思う。しかしながら、この頃たまたま或る美人が大層瓶花を能くしたことを読書で知って、袁宏道の言が机上の空論でないことを知った。
 美人は、姓は周で名は文と云い綺生と云う。嘉(か)興(こう)の人である。遊郭の妓女であるが学才があり尋常の妓女ではない。詩を理解し仏を信じる。瓶花を好んで自ら楽しむ。後に身請けされたが非遇のため心楽しまず、衣は破れるに任せ、容貌は窶れるままに、朝夕に香を焚いて仏前に死を祈り、ほどなく憂欝の中で死去したと云う。胸中の秘はただ之を詩詞に託して洩らしただけなのでハッキリと知ることはできないが、佳人薄命、短い寿命の恨みを抱いて、黄土無言、晴らすことの出来ない悲しみを埋(うず)めたのであろう。袁宏道にその死を傷む詩があって云う、

  渓(たに)の頭(ほとり)に 曽(かつ)て見き 春の紗(しゃ)を浣(あら)えるを、
  珠(たま)の箔(すだれ)は 今に于(おい)て 天の一涯(はて)となりぬ。
 柴陌(しはく) 重ねて邀(むか)えんや 千宝騎(せんぽうき)、
  青楼 無し復(また) 七香車(しちこうしゃ)。
  美人 南の国 湘水(しょうすい)空しく、
  處子(しょし) 東の隣 是(これ)宋家。
  記し得たり 西廊の 香閣の裏(うち)、
  瓶花 長く挿して 一枝(いっし)斜めなりしを。
 (渓のほとりで曽て見た、春の紗を洗う美人は、今は天の果てに在る。柴道(しばみち)を再び千宝騎で迎えようと思えど、遊里に七香車は無い。美人の郷の南国湘江の水は寂しく、美人の東隣りはこれ宋家。西廊の香閣の中で、長く挿した瓶花の一枝が、斜めであったことを覚えている。)

 花はそもそも何の花か知らない。瓶もそもそも何の瓶か知らないが、綺生が挿した一枝の風情ある姿は、その人が現世の外に逝った後も宏道の前に浮かんだことが、末の二句で知られて余情は脈々とする。呉江の沈珣(ちんじゅん)という者が、綺生に贈る二絶の一に云う、

  十里の虹橋(こうきょう) 柳 萬株(ばんしゅ)、
  白蘋(はくひん) 紅葉 清渠(せいきょ)に満つ。
  今より管領す 秋江(しゅうこう)の色、
  総て属す 風流の女校書(じょこうしょ)に。
 (虹の架かった十里の道に柳が連なり、紅葉と白い水草は清い流れに満つ。今ここに得た秋江の景色は総て風流の伎女(綺生)のもの。)

と。綺生の俗気少なく風流余りあるのを見るべきである。また、海塩の姚子粦(ようしりん)が綺生の移居した時に贈る詩の句に、

  瓶花 旧蝶を携(たずさ)え、
  隣樹 新鴬換(かわ)る。
 (瓶花は旧蝶を伴い、隣樹は新鴬に替わる。)

の一聯がある。瓶花旧蝶を携える一句の巧みな趣(おもむき)は云うまでも無い。しかも綺生が日頃、美しい花を雅(みやび)な瓶に挿して、袁宏道のいわゆる、「明窓浄室の中で破顔微笑することを好む」状(さま)を写し出して情趣は生動する。瓶花の道を綺生が学んだか、宏道が教えたか、時代は悠久として今は之を知るすべがない。しかし、韻士と美人と、雨日の茶や雪夜の酒に瓶花の数枝の美を欣賞し、新詩の幾字に情趣の妙味を味わう折の楽しさは、如何ばかりであったことであろう。
(大正四年十月)

注解
・李攀龍:中国・明の詩人、文人。
・王世貞:中国・明の学者・政治家。
・白楽天:白居易、楽天は字(あざな)(通称)、中国・唐中期の漢詩人。
・蘇東坡:蘇軾、東坡居士と名乗った。中国・北宋の政治家、詩人、書家、画家。
・荻生徂徠:江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
・山本北山:江戸後期の漢詩人。
・深草元成:日政、通称は元政上人、江戸前期の日蓮宗の僧、漢詩人。山城の深草瑞光寺 (京都市)を開山した。
・張謙徳:中国・明の文人。「瓶花譜」は江戸初期に日本に伝わり、袁宏道の「瓶史」とともに当時の生花界に大きな影響を与えた。
・李漁:中国・明末清初の劇作家、小説家、
・護命僧都:護命、奈良時代末から平安時代前期にかけての法相宗の僧。
・明恵上人:鎌倉時代前期の華厳宗の僧

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