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幸田露伴の小説「一妙丸」

一妙丸

 栄華の春は去って、凋落の秋の風に西海の藻屑と吹き沈められた、平家の末路の何れも哀れな中に、この人有りと知られた平家の武士に平貞能という者がいた。幸いに屋島や壇ノ浦の戦いにも死ぬことはなかったが、世は白旗が充ち満ちる源氏の御世となって、ただでさえ頼りない老いの身を心細く忍んで、尾張の国熱田神宮の傍らの原大夫高春という昔なじみの者の館に隠れ住んでいた。平家残党の根を断ち葉を枯らして源氏万世の礎(いしずえ)を固めようと苦心する武士の中で、人も知る梶原源太景季という者が貞能が高春の館に匿(かくま)われていることを聞き出して、「高春の考えはまことに怪しからん、朋友の情けは分るが、今この源氏の世に在って、どのような企みを抱くかも知れない平家の老臣貞能を隠し置くとは不届きである。」と自ら討手の役を引き受け手勢を引連れて高春の館へ向かった。もとより覚悟はしていたが、いよいよ来たかと高春の館の中は慌てふためいて、「よくない人を匿ったために大事が起きた」と眉をひそめて我が主人を心配する者もあり、「こうなっては武士の意地を貫いて飽くまでも討手を欺き貞能を逃がすか、それが叶わなければ、相手にとって不足はない、梶原源太等を切って切って切りまくり、館に火を懸け、腹掻っ切って名を止めんこそ本望なり。」と腕をさすって主人の心を心得顔の者もある。
 貞能はこれを漏れ知って、「老いさらばえてはいるが、我が身のために人に難儀をかけて、知らぬとするは武士の恥なり、惜しくもない命を思わしくない世に永らえることもない。高春の好意を仇で返すようになっては心苦しいだけでなく、臆病な貞能の様を見よと若者たちに笑われるのも口惜しい、まことに心無い振る舞いであると亡き後までも恥を歌われては、平家の面目にもかかわる。イザ我自ら捕らわれて由比ガ浜の波の飛沫と消えよう」、と高春に頼んで、「我を縛って源氏へ突き出し給え、貴方の今までの好意の程は常々忘れる時はないが、もはや是迄です。訳あって筑紫の方に隠し置く我が子の一妙丸に会わずに冥土へ行くのは、最後まで心残りでありますが、これも致し方ない。ただ私の亡き後に一妙丸に会われる折がござれば、心を正しくして道を守り清らかに世を送るがよいと、父が最後に教訓を残したと伝えて頂きたい。」と云い終わり、両手を後ろにして、「早く縛って下さい。」と身を突き付ければ、高春は涙を払いながら、「鎌倉殿(頼朝)の命令には反抗できないが、貴方が自ら命を粗末にすることは無い。後々の事は私が宜しく取り計らいますから、裏門から逃げて筑紫に行って今一度愛児に逢われて、その後に名乗り出てもよろしいではありませんか。」と云うのを、「イヤイヤ、私はもはや覚悟を決めました。お情けは嬉しいが、そう言ってくださるな。」と承知する気配が無い。そこへ表では人馬の音がしてヒシヒシと門に迫って梶原勢が押し寄せた様子である。高春ついに止むを得ず貞能の意向に従って、白髪老躯の貞能に見るも痛ましい荒縄をかけ、討手に向って、「高春、一旦は昔の誼(よしみ)により平家の残党を匿ったものの、どうして鎌倉殿の仰せに背きましょう、このように神妙に縄をかけた上は、イザお受け取り有りたい。また貞能が鎌倉殿の命令を畏みこのように神妙に縄にかかった上は、寛大な御処置を賜らんことを貴方からもよろしく申し上げ下さい。そうして頂ければ私は申すに及ばず他の平家の残党までもがこの事を伝え聞いて、鎌倉殿の御恵み深さに感じ入って各地から名乗り出るでしょう。」と云えば梶原源太は頷いて異議無く、貞能を引き立てて行き鎌倉比企谷の土牢に入れた。
 高春もよく匿った、貞能もよく自ら申し出た、友の誼を尽した高春が鎌倉殿の仰せに従ったこともよし、友の誼に報いて身を差し出した貞能が、高春の勧めに応じなかった振る舞いは殊勝であると云い伝えて、心ある人々は皆この事を賞賛し合い、また同感の涙に咽ぶ者さえあった。この噂は早くも九州肥後の国大橋の里に隠れ住む一妙丸の耳に入った。その時一妙丸は思案して、「私は年わずか十二才、身長も大人に劣る、力も知恵も一人前ではないが、子としてどうして父の危難を無視できよう、私の赤心は軟弱な弓の矢を大岩に突き刺す、海山遠く隔てるといえども、谷伝い磯伝い雲に入り霞を分け辛苦を重ねて行くならば、鎌倉に行かれないことも無いであろう、何んとしても関東に行って仲介者を求めて請願し、父上の御命に身を以て代わりたい旨を願えば、鎌倉武士も情あれば許されないことはないだろう。そうだ、そうだ。」と自ら問い自ら答えて覚悟を決めて、ついに大橋を発ち、歩き慣れない山坂道の岩角に足の爪を剥がし、谷の倒木の荊に衣の袖を裂かれ顔を傷つけられるのも構わず、雨に苦しみ風に悩んで涙露けき旅枕、幾夜重ねてやっと鎌倉に着いたが、先ずは名の知れた人々の家に行って密かに、「父貞能の命に代わるため、一子一妙丸はるばる筑紫より参上しました、願わくば私の身代わりで父が助かるように計らってくだい。」と乞い求めると、或いは口では承知しても実際は応じず、或いは初めから、「とてもその事は出来ない。」とすげなく言われ、或いはまた、「汝は貞能の小倅か、年こそ行かぬが汝も平家の残党だ、引き立てて門注所の送るぞ、」と嚇して門から追い払う者もある。
 しかし一妙丸は屈することなく、昨日は東今日は西とあちらこちらと哀願して廻ったが、ついに鎌倉に居る限りの大名は一人として応じる者がいない。「この上は仕方ない。人は世に媚び時に諂い権力を恐れて情けも義理も汲んで呉れないが、神仏はそうでは無いでしょう、哀れな私の心を憐れんで私の願いをお聞き下されて、何卒父を無事にしてください。」と夜毎夜毎に鶴ケ丘八幡宮の社前で、幼い身にも聞き覚えの妙法蓮華経普門品第二十五の巻を覚束ないが読誦して、「神仏私を哀れみ給え」とひたすら祈願する。月黒く風冴える夜も霜結び露凍る暁も怠ることなく丹精込めて、人無き社前で一心に祈っていると、全身の誠を籠めた読誦の声は尋常でなく聞く者を愴然とさせる。密かに窺えば年は今だ十五にもならないような色白く眉の濃い男の児が、頭を神前の砂に埋め小砂利の上に蹲ってハラハラと涙をこぼして祈る様子は、他所眼にもいじらしく哀れで、心を動かさない者はなく、このことを誰云うとなく、「貞能の子の一妙丸は鶴ケ丘八幡宮の社前にて夜毎父を助けようと経普門品を誦唱する。哀れな者であるよ」と云い伝え、頼朝内室の政子の耳に入った。政子も孝子の心根を思って涙に堪えず、「老いたる貞能一人を放免しても何事もありますまい、今は太平の世であります。恩をかけ徳を勧めることこそ政道には必要です。殊に幼い身で筑紫の果てからはるばると父の身を助けるために来た一妙丸の至孝は感ずるに余りあります。彼の真心に免じて貞能を許せば孝を勧める手段となります。益あって害のないことです。どうか貞能を放免してください。」と頼朝に勧められると、頼朝もまた頷いて、「もとより貞能は神妙な者であるが、一妙丸の至孝感ずるに余りあれば、鎌倉から追放するのみとして、貞能を比企の牢より出せ。」と命ぜられた。一妙丸計らずも本望を達成して天に喜び地に喜び、貞能の手を取って嬉し涙に泣き咽べば、貞能もまた思いがけない命を得て、最愛の子に会って泣くばかりに喜び喜び、共に九州大橋に帰ったという。これがその後九州で勇名を馳せる大友家の先祖である。
(明治二十六年六月)

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