幸田露伴・支那(中国)の話「仙人呂洞賓③」
呂洞賓は史上にその名は無い。呂洞賓の名は宋史の陳摶伝に初めて出る。唐の人だと云うが唐の逸史・野乗・小説・雑記の類で、その名を載せその事を伝えたものが有るかは、私は独学孤陋のため未だこれ有るを知らない。しかしながら仙家は相継いで洞賓の履歴並びに仙を証明して、その後の軌跡を伝える。云う、洞賓、名は嵓(がん)、或いは云う、一字は巌客と、代々河中府永楽県の人である。或いは云う、蒲阪の人と。或いは云う、初めは東平に居り、後に京川に遷ると。曽祖父の延之は唐に仕えて河東節度使に終わり、祖父の渭は礼部侍郎に終わり、父の譲は海州刺史であったと云う。唐書を調べると、巻百六十に渭の父は延之、渭の子に温・良・恭・倹・譲がいて、譲の太子右は庶子であると記す。洞賓が確かに譲の子であれば、儒学の家に生まれたと云うのも偽りではない。神仙鑑に云う、「名は紹光、家を捨てて師に従い終南の鶴嶺に至るに及んで、師に因って名を嵓と改め、字(あざな)を洞賓とする」と。その生年は諸説まちまちでどれを信じて良いか分からない。貞元十四年四月十四日生まれるというものがその一で、貞元二十年に生まれるというものがその二である。天宝十四年四月十四日生まれるとするのは上陽子の説でその三である。上陽子また云う、一ツには貞元十二年に生れると、その四である。或いは曰く、天宝元年正月九日生まれると、その五である。乩(けい)の自叙伝に云う、八月初四日に生れると、その六である。洞賓が譲の子であれば、譲の父の渭は代宗や徳宗の時代の官人なので洞賓が太宗の時代に生れる筈は無い。それなので貞観の説は破棄できる。貞元年間に生れたという説が妥当のようだ。生まれて金形木質、鶴頂亀背、龍腮鳳眼、左の眉の角に一ツの黒子があり、左の眼の下に一ツの黒子があり、若くして聡敏、日に万言を記し、言は自然と文章になる。二十で劉校尉の娘を娶る。或いは曰く、娶らずと。赤ん坊の時に馬祖が之を見て云う、「この子は骨相が平凡で無い、おのずから是(これ)風塵以外の者である。将来盧に遇えば則ち居り、鍾に見(まみ)えれば即ち扣(こう)せられよう、心に留めて覚えているようにさせよ」と。馬祖は即ち南獄懐譲禅師に、「吾心を得た」と云わせた江西道一禅師のことで、達磨大師子の予言書に云ういわゆる「馬駒は踏殺する天下の人」の馬駒に当たる。開元年中に懐譲禅師に啓発されて終に奥義を得る。洞賓が貞元に生れて馬祖の予言を受けたと云えば、年代はおよそ相当する。「神仙鑑」では馬祖の言を四祖の言だとする。四祖の道信大師は、隋の大業から唐の永徽にかけての人である。洞賓が貞観に生れたのであれば、「四祖の塔は永く閉じず」と言っても、洞賓がその言を得られる筈はないように思われる。四祖か馬祖か、私には分からない。ただ盧に遇い鍾に見えるの語は、何か小説伝奇中にある未来記のようではないか。
洞賓は後に盧山に行き火龍真人に遇い、天遁剣法を授けられる。盧に遇い則ち居るというものは是である。武宗の会昌年間、或いは徽宗の咸通年間、或いは武后の天授二年の事だという、洞賓は長安の酒楼に遊んで一羽士に遇う。青い頭巾を冠り白い衣装を着て、髯が長く眼が秀でている。手には紫の杖を持ち、腰には大きな瓢を提げている。壁に三絶句を書きつける。その一に云う、
得道の真僊 遇い易からず、
幾時か帰り去って願わくは相従わん。
自ら言う住処は滄海に連なる、
別に是蓬莱の第一峰。
呂洞賓は奇異で詩趣飄逸なその容貌を訝り姓氏を問う。云う、「吾の姓は鍾離、名は権、字は雲房という者である」と。洞賓は二礼して座に就く、鍾離云う、「君の一絶を吟じなさい。私がその志を拝見しよう」と、呂洞賓が一詩を賦す。その末二句に云う、
誰か能く世上に 名利を争わんや、
王皇に臣事して 上清に帰せん。
鍾離は詩を見て喜び、共に酒楼で憩い自ら炊飯に起つ。洞賓は疲れを感じて眠くなったので仮眠する。夢の中で都に行き、進士に合格して地方官から始まって中央の役人に抜擢され、次第に昇進して種々の役職で歴任しないものは無く、昇進しては左遷され、左遷されては再び昇進する。前後二人の妻は富貴の家の娘であり、孫や甥は数多(あまた)居て官職に着く者で一門は満つ。殆んど四十年、そのうち十年は宰相として光り輝く。しかし突如重罪を被り、家産を没収され、妻子に別かれ辺地に流される。独り孤立して馬を風雪の中に立て、今まさに歎こうとする時、忽然として夢が覚めると、鍾離は傍らに居て、未だ炊飯は出来ていない。鍾離は笑って「黄粱は未だ炊けていない、好い夢を見たかね」と云う、洞賓が大いに驚くと鍾離は云う、「五十年間は一時(いっとき)の事、得も喜ぶに足りない、窮も悲しむに足りない、且つ大いに悟るところあり、そして後に人生の一大夢であることを知ろう」と。洞賓が悟り感じて、二礼して道を学びたいと願うと、鍾離は許さずに飄然と別れ去って行った。洞賓は自失し、これより儒学を棄てて隠れ、世間への意(おもい)を持たなくなった。
洞賓の此の一夢と盧生の一夢の、何と似ていることか。呂翁と鍾離は共に自ら黄粱を炊く、それも甚だ似ている。人がこれを観て、関係ないとする者がいようか。盧生の夢は開元十九年に在り、洞賓の夢が会昌咸通の時であれば、洞賓は盧生の跡を踏襲する者であり、洞賓の夢が天授二年であれば、盧生は洞賓の跡を踏むものである。洞賓が天授に夢を見、盧生が開元に夢を見て、そして盧生を夢見させた者が洞賓であれば、洞賓は自分が受けたものを人に伝えた者である。師匠のものを弟子に伝える、これは人が有って無いようなことで宜しくない。洞賓の集巻八に、促拍満路花の詞があり、長安の酒楼の柱に書きつけたものだという。詞に云う、
西風 渭水を吹いて、
落葉 長安に満つ。
茫々たる塵世の裏(うち)、
独り清閑なり。
自然の炉鼎、
虎の繞(めぐ)ると龍の盤(わだかま)ると。
九転 丹砂就(な)り、
一粒 刀圭、
便(すなわ)ち成る陸地の神仙。
従(たと)い他の富貴、華軒を擁するも、
到り了(おわ)ってまた徒然(つれづれ)ならん。
黄粱猶未だ熟せず、
夢 驚残す。
是非の海の裡(うち)、
終に久しく身を立てること難し。
袖を払って江南に去り、
白蘋(はくひん) 紅蓼(こうりょう) 再び遊ばん、
湓浦(ぼんぼ)に盧山に。
満路花の詞の形は、菩薩蠻(ぼさつばん)のように唐代から在るものでは無い。宋になってから出たものでは有るが、洞賓は神仙なので唐人だが宋の詞形で作ってもおかしくはない。しかも詞中に「黄粱猶未だ熟せず、夢 驚残す」という。此の驚残すという夢が、盧生の夢なのか或いは洞賓の夢なのかが分からない。他人(ひと)の事か、自ら云うのか、思い廻らせば微笑ましくもある。しかし仙家相継いで、邯鄲夢で盧生が呂翁に遇う事、長安夢で呂洞賓が鍾離権に遇う事などは、世間にはよくあることで、考える事も無い、夢が似ていても人は別であり関連は無いとする。暫くは仙家の伝記に従うが、ただ黄粱一炊が、似た者の夢だけでは無いことを疑うべきだけである。
呂洞賓の伝記の中で最も光彩を放ち意義あるものは鍾離仙人に遇って、夢から覚めた後に起る。呂洞賓の心は既に俗界を脱出しているが、身は尚俗界に係留している。ここに於いて争闘が内に発し、試練が外から迫り来るのもこれまた自然な勢いである。釈迦もキリストも、皆その殆んど道体を認めた後の未だ聖位を立証しない前に於いては、一段の悪戦苦闘を免れなかった。呂洞賓もまた十の試練に遇ったと伝えられる。その一、ある日外から帰ると、家人はことごとく病没していて独り残され、寂寞惨怛、どうにもできない。しかし呂洞賓はよく堪えて動揺しなかった。その二、ある日市場で物を売るが、相手は約束の半分しか支払わない、しかし呂洞賓は争わずに去る。その三、元日に乞食が門前に来て施しを求める、銭や物を与えたがモットモットと求め続け、且つ大いに罵りを加える。しかし呂洞賓は和平の心を失わなかった。その四、ある日羊を山中で放牧していると、突如猛虎が現れて羊を追う。呂洞賓は羊を逃がして単身虎に対した。その五、ある日独りで山中の草舎で読書をしていると、突如美女が現れる。媚嫵百端、風情掬すべし。しかし呂洞賓は動揺しない。その六、ある日強盗が入って家財ことごとく奪い去って朝夕の用を足すものが無くなる。しかし呂洞賓に怒りの色無く、薬草を採取して生活しようと、ある日鋤を使っていると黄金数十片を掘り当てたが、急いで埋め返して取らなかった。その七、ある日街で銅器を買う、帰ってこれを見ると皆黄金であった。街に戻って売主にこれを返した。その八、風狂の道士がいて街で薬を売る。「これを飲めばたちどころに死んで、再び世に出て道を得よう」と云う。呂洞賓これを買う。その九、ある日洪水が突如起こる。呂洞賓は流れの中で小舟に座って動かない。その十、ある日家の中に突如鬼神が大勢やって来て、殺そうと襲いかかって来たが、呂洞賓は少しも懼れない。また数十の夜叉がやって来て一囚人を食い殺す、血肉淋漓、泣き叫んで、「オマエは前世で私を殺した。今すぐ私の命を償え」と云う。呂洞賓はそれに応えようとして死を願う、忽ち空中に一人が現れ、拍手しながら下りてくる。即ち鍾離権である。云う「塵心は滅し難く、仙才は遇い難い、仙が人を求めるのは、人が仙を求めるよりも甚だしい。お前は試練に遇って動揺するところが無かった。必ず道を得られよう。ただ、修業は未だ完全ではない。今お前に鉄を金に変え、鉛を銀に変える黄白の術を授けよう。お前はこの術を使って世を済(すく)い、物事の役に立てよ。三千の功で満ち、八百の行が完全となれば、またやって来てお前を化度しよう」と。呂洞賓は問う、「作った金銀は変異することは有りませんか」と、鍾離答えて云う「三千年後には元に還る」と、呂洞賓はガッカリして云う「三千年後の人を誤らせることは、私の願わないところです」と。その言葉には猛火の光があり、迅雷の威力があった。鍾離はこれを聞いて微笑んで云う、「おまえの心掛けはよく分かった。三千の功、八百の行はことごとく是に在る」と。
此の一段は、諸神仙伝の中に在って最も痛快な事である。大抵の神仙は黄白の術を使う。仙を願う者もまた鉄を金に変え鉛を銀に変える黄白の術を目指さない者はいない。洞賓と鍾離のこの問答を見れば、神仙の多くはこれ真の神仙と言えず、仙を願う者もまた真の神仙になれないことを知るべきである。
鍾離仙人は洞賓が道を伝えるに堪え得ると見て、大いに喜び、自身が世を棄て仙となった来歴を話して、且つ云う、「苦竹真君から、君がこれから人間界に行って、両口の有る者に遇ったならば、即ちそれが君の弟子となる者であると言われ、私は広く山海を逍遊したが、ついに両口のある者に遇わなかったが、今お前の姓を詳しく知って、実に真君の予言に符合する。私は終南の鶴嶺に居る。お前は私について修業する気はないか」と問う。因って呂洞賓は鍾離仙人に付き随って行く。星月は光輝き、四囲は寂然としている。鍾離は洞賓の手を執って共に行く。ウットリと快馬に乗ったようで、山河を経てしばらくして洞南に着く。門を入れば目の前がパッとは開け明るい。高峰に登ってそこに着くと、虎が居て蹲踞している。きらびやかな御殿があり、珍しい鳥や美しい樹があり、光景は光輝いて、気候は春のようであった。二人で盤陀石に坐って、元和酒三杯を飲む。突然、翠袖朱裳の人が現れる。雲の履物に玉の帯物をして、盛んに芳香を放散させ、天から降り来て、鍾離を迎えて天池の会に赴かせる。洞賓は詩を賦して送る。鍾離は紫雲に乗って去る。洞賓は留まって仙書を読む。十日余りして鍾離が帰って来る。洞賓はこれより備(つぶさ)に奥深いところを得て、大いに境地は進む。鍾離を訪れると、そこに清渓の鄭思遠仙人と太華の施胡浮仙人がいたので、洞賓は二仙人に拝謁し、またその教を受けることが出来た。その時に春の鳥の啼き声がする。鍾離は洞口に書きつけて、云う、
春気 空に塞がりて 花露滴り、
朝陽 海を拍(う)って 嶽雲帰る。
また云う、「私はこれから天に昇る。恐らくお前も此の洞には居られなくなるだろう。また十年後に洞庭で再び会おう」と、霊宝畢法を授け三元三宝を云って、将に授受が終わろうとする時に二人の仙使が現れた。銷衣霞綏、金簡を捧げて鍾離を招く。鍾離は洞賓に対して、「私はこれから天に昇る、お前は好く世間に住んで功を修めて行を立ててから天に昇れ」と云う。洞賓は二礼して、「私の志は先生と異なり、必ず衆生を済度し尽して、その後に初めて天に昇ろうと思います。」と云う。その時、翔鸞彩鳳、金幢玉節、仙吹嘹嘹として、鍾離と二人の仙使は次第に天に昇り去る。
洞賓は天に昇らず、衆生を済度仕尽くしてから天に昇ると云う。その志の何と偉大なことか、この大誓願があり大仁慈があって、即ち世人の呂仙は永く世に在って、唐から宋・元・明・清に至るまで出没隠顕し、済度して人を救うのも当然、と云える。神仙の多くは世を軽んじて天に帰る。呂仙は独り自ら人を愛し世を救うことを誓う。これこそ唐から現在に至るまで、文士や才子も、愚夫や愚婦も、敬い信じて香を奉じ、心を寄せて、活(いき)神仙として今なお濁世に出没隠顕されると思う点ではないか。錬金に走らず、昇天を願わず、神仙はこのようであってこそ真の神仙である。南七真、北七真、呂洞賓の道系が世に盛んなのも偶然では無い。
鍾離が去った後、洞賓は終南を出て江湖に放浪する。鍾離は京兆咸陽の人で、漢に仕えた将軍であったと伝わる。それで俗に漢鍾離とも云う。漢から唐まで年代は永いが、史上に鍾離の名は無い。仙人隠士が史上に名がないのは異常とは言えない。しかしながら晋の時代に仙人葛稚川が「神仙伝」を編纂して、殆んど探索は尽くされているといえるが、鍾離の伝記は無い。当時の人は鍾離のことを知らなかったのか、葛稚川は鍾離のことを知らなかったのか。仙家は云う、「鍾離権は晉州の羊角山に隠れた」と、謡曲の羊飛山の名も或いは訛って此れを伝えたものか。であれば即ち盧は呂であって二ツの夢は一ツだと云える。しかし今は強いて論じるべきではない。
洞賓は江湖に雲遊すると、初めて江淮(こうわい)で火龍真人から伝えられた霊剣を試し、蛟龍の害を除いた。天遁剣は即ち慧剣である。一に煩悩を断じ、二に色欲を断じ、三に貪瞋を断じると云う。であれば剣であるが龍泉太阿の類では無いので、蛟龍を斬る事は出来ないように思える。しかしながら呂洞賓は、元もとは剣仙として宋の初めに現れた。宋史陳搏の伝記に、「関西の逸人呂洞賓は、剣術有り、百余歳にして童顔なり、歩履軽疾、僅かな時間で数百里を行く、世は以て神仙とする、しばしば陳搏の斎中に現れる、人皆これを異とする、」と出ている。即ち洞賓は、世を救い人を済度する仙人として俗世に認められた者では無く、剣を飛ばし首(こうべ)を奪う仙人として俗世に畏れられた仙であることを知る。古(いにしえ)から伝わる絵の洞賓は必ず剣を背負った一丈夫ではないか。神剣長蛟を斬る事が似合わないとは云えない。「純陽集」巻六に詩があって、云う、
天下都(すべ)て遊ぶ 半日の功、
須(もち)いず 鳳に跨ると龍に乗ずるとを。
偶(たまたま)博戯に因りて 神剣を飛ばし、
摧却(さいきゃく)す 終南の第一峰。
又云う、
東山の東畔 忽ち相逢う、
握手丁寧 語 鍾に似たり。
剣術已に成らば 君把(とり)去って、
蛟龍あるところ 蛟龍を斬れ。
又云う、
龐眉(ほうび)闘竪(とうじゅ)す 悪精神、
万里 空に騰(のぼ)る 一踴(よう)心。
背上匣中(こうちゅう)の三尺の剣、
天の為に且つ示さん不平の人に。
ハハハ。勢いの猛烈なこと、この通り。又云う、
連喝す 三回急々に去れど、
歘然(こつぜん)として空裏より人頭落ちん。
何で一蛟龍を斬るのに躊躇しよう。後に洞庭湖に行き、岳陽楼に登る。鍾離権が忽ち降りて来て云う、「ついて来なさい、前約を果たすぞ」と、三月十八日になって、鍾離は洞賓を連れて苦竹真君に面謁する。真君また法を伝える。年六十四にして初めて天に出仕する。これより変化一ト方ならず、永く俗世に出掛けて済度し、宋・元・明・清を経ると云う。思うに、信じる者は今なおその霊異を疑うことはないであろう。
世に呂洞賓は儒教・仏教・道教の三教を貫くと伝わる。嘗て武昌の黄龍山で誨機禅師が座に昇るのに遭遇する。禅師が詰(なじ)る、「座下に居るのは何者だ」と。洞賓云う、「雲水の道人です」と。禅師云う、「雲が尽きて水が乾く時はどうする」と。洞賓云う、「和尚を暵殺(かんさつ)します」と。禅師云う、「黄龍が現われよう」と。洞賓云う、「剣を飛ばして之を斬ります」と。禅師大いに笑って云う、「これはマイッタ、もとより口争いすることもない」と。遂に大道を指南する。よって洞賓は偈(げ)を差し出して云う、
瓢嚢を棄却し 琴を蹙砕(せきさい)し、
如今(じょこん)恋(こ)わざらん 水中の金。
一たび黄龍に見(まみ)えしより後、
凡流に嘱咐して 著意して尋ねしめん。
遂に拝礼して辞去する。この事があってから「伝奇」に、洞賓が剣を飛ばして黄龍を斬ろうとして、黄龍が法力で神剣を取る話がある。小説「紅楼夢」の中で、芳官が唱う歌に「汝、再びするを止めよ、剣は黄龍を斬って一線違(たが)う」の句があるが、その因(もと)である。歌は臨川の作である。本当に洞賓が剣を飛ばして、黄龍禅師がこれを奪い取ったのでは無く、ただ単なる問答応接の言葉なだけである。黄龍誨機禅師は懐州玄泉彦禅師の教えを受け継いだ人で、「景徳伝灯」巻二十三に記録されている。記録では誨機を晦機としている。天祐の頃には慧超大師と名乗って大いに鄂州に法光を放った人なので、年代は大凡該当する。呂洞賓の教系に属すると名乗る者達が、後に三教同源の論を立て、「金剛教註」や「禅宗正旨」を出して、敢然と道者の身で仏旨を話す因(もと)はこれ等のことに胚胎するのでる。洞賓が黄龍禅師のもとに参禅したことは、呂祖を奉じる者にとっては、もとより無視できないことである。
洞賓が仙と成った後、後周の恭帝の建隆の初年に、宋の太祖の後苑に現れたという。建隆の初年は即ち趙匤胤(宋の太祖)が恭帝を鄭王にして、自身は黄衣を纏い帝となり、国号を宋とした時である。洞賓と太祖との話し声は、周りの者によく聞こえず、会話の内容は伝わっていない。帝が赭袍玉帯を解いて之を洞賓に賜られると、忽然として見えなくなったという。帝が命じて像を太清楼に画かせ、そして道録の陳景元という者がその像を世に伝えたという。であれば、洞賓の像が有るのはこの時からである。およそ易姓革命の時に昔は必ず神異の事が起き、庶民も豪傑もそれが拒めない天命であると知ることが常である。であるならば、則ち宋が起こる天命が、趙匤胤(宋の太祖)に在ることを示したのは洞賓であって、洞賓の像は此の時から太清楼中に在るようになったものか。陳摶(ちんたん)は道士として早くから知られた者である。太祖即位の四年前の後周の世宗の顕徳三年に宮中に招かれて、禁中で黄白の術を問われた者である。山に帰った後も、世宗が成洲刺史の朱憲に命じて帛五十匹と茶三十斤を特に賜われたことがあった。であれば、則ち世の人々は挙って陳摶を知っていたのである。洞賓は華陰の隠士の李淇と共にしばしば陳摶の齋中に来たという。洞賓が太祖に現れて、「火徳まさに天下に王たるべし」と云ったことは、実に太祖の利となったと云える。陳景元は「宋史」にその伝記はないが、陳希元の名は宋初期の良臣として「宋史」二百八十四にその伝記がある。景元は或いは希元の一族では無いか。そして希元の家と陳摶が交わりの有ったことは、希元の伝記中に陳摶が希元の父の省華に対して、「君の三子は皆まさに将相となるであろう、そしてまた中子は貴く且つ長寿である」と云ったことが出ているのでも知ることが出来る。陳摶は「水滸伝」が伝えるところでは、趙匤胤(宋の太祖)が位を得たことを聴いて、手を額に当てて歓喜大笑して驢馬の背から転落し、人々がその理由を訊いたところ、「天下これで定まる」と云った者である。正史にこの事は無いが、宋がいよいよ天下を平定する太平興国の時期に、特に山を下って来朝して、厚く太祖の歓迎を受けた者は陳摶である。眼識ある者がこれ等のことを観れば、後周末から宋の初めに於いての陳摶や陳景元・呂洞賓・趙匤胤(宋の太祖)等の事情を推察出来よう。洞賓は自然と現れたものか。太祖と陳摶が洞賓を世に現わさせたものか。
王旦は宋の真宗の時の重臣である。寇準が「王旦には及ばない」と歎いたほどの人でその人物のほどが分かる。旦の父の祐は呂祖(呂洞賓)を信じ、像を奉納した。ある日、洞賓が現れて、「君の家は代々徳を積んでおり、子孫は位三公を得よう。槐(かい・エンジュの木)を植えて徴(しるし)とするが善い」と云う。祐は早速、三本の槐を庭に植えた。果して後に王旦が宰相となる。蘇公に「王氏三槐の記」がある。王旦の死は、天禧元年の六十一才の時なので、その生まれたのは後周の世宗の三四年であろう。洞賓の像が陳景元によって世に伝わったのであれば、王旦の生まれない時に、像が奉納されることは有り得ない。陳景元による洞賓の像が出るに先立って、世には既に洞賓の像があったのか、疑わしい。王旦の伝記にいう、「旦は寡黙にして学を好む、父は旦を大器とみて、この子は公相となるだろうと云う」と。庭に三槐を植える事は宋史に有るとは云えども、王祐がみずからが、吾の後に三公になるものが有ろうと云ったという。洞賓の言葉に従って植えたのでは無いようだ。宋初期の瑣事を今さら誰が能く、呂の言葉に因るものか否かを区別できよう。
陳執中もまた宋の大臣である。宋史二百八十四にその伝記がある。死後において韓維が論じ栄霊と諡(おくりな)して人々の刺笑を受ける。しかしながら在世にあっては、辺境に出ては将となり、台閣に入っては相となる。神仙家の伝える話では、執中は邸宅を都に建て、親しい友人たちとの宴を楽しんでいると、突然ボロを着た道士が現れれた。執中が「何の特技があるか」と訊くと、「我に仙楽一部がある。演奏して華やかな宴に提供したい」と腰の間から一軸の画を出して柱上に掲げる。仙女十二人の各々が楽器を持っているのが描かれている。道士が座に下るように呼ぶと、皆は前に列び、二人の仙女は幢旛(どうばん)を執って導き、余りの仙女は楽器を演奏する。玉肌花顔、麗態嬌音、七宝の冠を頂き、六銖の衣装を着て、金珂や玉珮が燦然と揺れ動く。鼻上に黍大ほどの黄玉があって、身体は甚だ軽やかで人間離れしている。楽音は清澈で曲調は特異である。それを三曲演奏して終わる。「この女子は何者か」と執中が訊くと、「これは六甲六丁の玉女である。人の身中に存るものが化してこれとなる。公もまた学ぶことを願うか」と答える。執中はこれを幻惑として不快に思う。道士は諸女を顧みて「去りなさい」と云う。皆はまた画軸に上る。道士は詩を書いて云う、
曽て経たり天上に三千劫、
又人間に在る五百年。
腰下の剣鋒は紫電横たわり、
懐中の丹焔は蒼姻起る。
纔(わずか)に白鶴に騎(の)りて滄海を過ぎ、
また青牛に駕して洞天に入る。
小技を等間にいささか戯むるのみ、
人の我はこれ真仙なることを知る無し。
末尾に谷客と署名して出立し、忽ち見えなくなる。執中が思うに谷は即ち洞、客は即ち賓であると知って悔恨し、目を抉ろうとして、未だ幾らも経たずに世を去ると云う。
六甲六丁の字は古くからある。しかしながら、ここで云う六甲六丁は、歴史家の言葉では無く、神仙家のものである。この法は神通自在を得る道で、韓偉遠はこれを宋徳玄から得た。徳玄は後周の宣王の時代の人である。偉遠から法を伝えられた者に、郭芍薬、趙愛児、王魯連がある。六甲六丁玉女の信仰は唐の時代に既に行われた痕跡があり、宋の時代にこの話があるのも不思議ではない。執中が尊尚されずに道士の戯弄を受け悔恨して死を招くというのは、思うに当時の軽薄な文人の作り話で、そしてこれによって罵っただけのことか。
熙寧や元豊の時に、洞賓が世に現れたことは多い。東都人の馬善と侯道人の玖とが卞水(べんすい)を通る時に、洞賓が二人の前に現れる。江南に同客人と名乗る者が居て、菅笠と釣竿と短板を持ち、漁家傲の詩を唱え、また鳴榔(めいろう)の声を仕て二人に見(まみ)える。鳴榔は響きを発して魚を追うもので、その音は悲しく激しく、大空に響き渡る。詞に云う、
二月江南 山水の路、
李花 零落して 春に主無し。
一個の魚児も 覓(もと)むる処無し、
風和(と)雨玉龍 甲を生じて、
天に帰り去る。
終に甲辰二月を以て死す。これを埋めるに尸(しかばね)無し。人は初めて同客の洞賓であることを悟る。
陰士の陳烈は王安石の青苗法を見て、詩を作って之を謗りついに仕えなかった。神宗皇帝は使いを派遣して之を召したが、辞退して赴かなかった。洞賓は詩を贈って云う、
青霄(青空)一路 人の行く少なし、
話(わ)するを休(や)めよ 興亡 事成らず。
金枋(きんぼう) 何に因って姓字無き、
玉都 必ず定めて仙名有らん。
雲は大海に帰す 龍千尺、
雲は長空に満つ 鶴一声。
深謝す 宋朝の明望主、
解く丹詔を書して先生を召せるを。
後に陳烈死す。洞賓また之を弔って云う、
天網恢々 万象疎なり、
一身親しく到る 崋山の区。
寒雲去って後 残月を留め、
春雪来る時 太虚に問わん。
六個の真人 紫府に帰り、
千年の鸞鶴 蒼梧に老いたり。
先生を遺却してより後、
南北東西 丈夫少なし。
熙寧元年八月十九日、呂洞賓が帰安の酒楼に現れる。湖州の帰安の沈思という者が東林に隠居して東老と名乗る。能く十仙白酒を醸す。ある日客があって自ら回道人と名乗る。東老に丁寧な挨拶をして、「君が新たに白酒を作られたと聞いて来ました。出来れば一酌を得たい」と云う、東老公が座を勧めると坐わる。その目は碧色で光彩は人を射る。この人と語って通暁しないところが無い。俗人では無いようだ。因って与えて飲ませる。日中から暮れまで飲むこと数斗、顔色の変わること無し。云う、「久しく淅中に遊んでいない。今貴方の陰徳の為に詩を作って贈りたい」と、席上の柘榴の皮を裂いて庵壁に貼り付けて書いて云う、
西隣已(すで)に富みて 足らざるを憂う。
東老貧しといえども 楽しみ余り有り。
白酒醸し成すは 客を好むに因り、
黄金散じ尽すは 書を収(おさ)むるが為なり。
蘇東坡にこれに和するの詩が三首あり、その一に云う、
世俗 何ぞ知らん 窮これ病なるを、
神仙学ぶべし 道の余なり。
ただ白酒の佳客を留むるを知って、
黄金を問わず 素書を覓(もと)む。
その三の起承二句に云う、
凄涼雨露 三年の後、
髣髴として塵埃数字余る。
東坡が詩を和したのは、三年の後であったろう。東坡が仙道を好んでいたことは、集中に龍虎の説等が在ることで分かる。しかしながら此の話の中にはただ回道人の名があるだけである。回は呂と字体が一ツは二ツの口が重なり合う、もう一ツは大口の中に小口を容れるか容れないかの差があるだけで、回道人は即ち呂道人であるとする。
宋の徽宗帝は暗君とは云えない。しかしながら美術を愛好し過ぎたり道教におぼれたりしたことは、後の人の非難を免れないものがある。道士の林霊素を重用したことなどは最も批難を受けるところである。徽宗の時に或る道人が居て自ら昌虚中と名乗る。処々の道観を往き来し、行為行動が甚だ奇異である。酒を飲んでは無量で、生魚肉を喰らっては数十斤、冷水を飲んでは数十石、人はその限界を知ることが出来ない。大雪の時に雪の中に埋まって出ない、十日ほど経って雪が晴れるとまた歩き出す。深い淵の水面を行くのに平地を歩くように行く。思うに昌の字の中を無く(一を消す)せば、呂の字である。或る内侍が徽宗に、「参上するように申し上げましたが、る。応じて貰えませんでした。ただ、その休息の処で詩を渡されました」と報告した。その詩に云う、
遂に高峰を指して 笑う一声、
紅霞紫霧 面前に生ず。
常に市中に於てす 人の知る無し、
長く山中に到る 鶴の迎える有り。
時に玉蟾(ぎょくせん・月)を弄して 魑魅を駆り、
夜に金鼎(きんてい)を煎て 瓊英(けいえい・美玉)を煮る。
他事(将来) 若し蓬莱洞に赴かば、
知らん 我が仙家に姓名有るを。
宣和の年間に、徽宗は一千の道人に施斎する。或る風来道人がいて斎を求めた。監門官が之を拒む。その時徽宗は林霊素と便殿で談話をしていたが、道人が急に階下に現れたを聞いて、人を使って斎に赴かせた。道人は殿柱上に居たが直ぐに往ってしまう。徽宗が怪しんで起って観ると、柱上に崩し字で書があって云う、
高談広論 人無きがごとし、
惜しむべし明君 真に遇わず。
陛下臣に来日の事を問わば、
請う看よ 午未丙丁の春。
後に靖康年間の丙午丁未の年に、靖康の変があって、徽宗と欽宗の二帝は捕らえられ、北方へ連れ去られる事件があって、丙午丁未を厄年とする説は古くから有る。丙丁戒慎すべきと云う書は支那(中国)にも日本にも有る。この詩が予言したものか、たまたま起きた事か、未だ必ずしも明らかではない。
洞賓が伎女の白牡丹に戯れると世に伝わる。王文貞の「冬夜箋記」を引用して神仙家がこれを云うが、これは宋人の顔洞賓の事に関係することで、呂洞賓の事では無いと明の李竹嬾の「紫桃軒雑綴」は記す。顔洞賓の事との確証も無いが、やはり白牡丹の事は呂ではなく顔に係わるものであろう。呂仙が伎女に関わる事は別に有る。
伎女に楊柳という者がいた。或る道人がその家に往き来してしばしば金帛を贈る。しかし誘惑することは無かった。楊は或る日酔いに乗じて道人を誘惑したが、道人は之を拒む。楊は怪しんで馴染み客の蕭にこの事を語る。蕭は張天覚宰相の賓客である。楊はこれを奇縁に張天覚に語る。天覚は道人に会おうと急遽行って見ると、道人は大声をあげて直ちに棲雲庵に走り去り堂に入って出て来ない。その後しばらく経って堅く閉ざされた門を壊して入ったが、姿は無くただ壁上に詩が有って、云う、
一吸の鸞笙(らんしょう) 太清を裂く、
緑衣の童子 歩虚の声。
玉楼を呼び醒ます 千年の夢、
碧桃の枝上に 金鶏鳴く。
道人の顔を見ると、以前天覚が見たことの有る者である。これ以前に道人が天覚宅を訪れて施しを求めたことがあった。天覚はこれに応(こた)えず無礼にも戯れて「何の術があるか」と問う。「能く土を捏ねて香をつくる」と云う。そして建物の傍の土を採り、捏ねて之を焚く。烈々と奇香を発す。煙が消えると道人の姿は無い。机の上に詩を遺す。云う、
烈々と土を捏ねて香と為す 事 因有り、
世間仮に宜しく 真に宜しからず。
皇朝の宰相 張天覚、
天下の雲遊 呂洞賓。
天覚は識らなかったことを悔い、これより悲心を格去(かくきょ)すると云う。
張天覚、名は商英、「宋史」三百五十一にその伝記がある。宰相となって偶々(たまたま)蔡京の後を継いで、少しばかりその政治を変えたことで忠直の名を蒙る。稗史の「宣和遺事」では、実に高風峻節の人として描写されている。しかしながら史に拠るとそれは過褒の言である。仏を信じ道を愛し、「護法論」を著わして儒家が仏を排斥するのに対抗する。孔孟に純忠でないところがある。世に伝わる張良が黄石公から受けた書と云う「素書」は実に天覚の手から出る。天覚は何のためにこのような事をしたのか、理解できない。呂洞賓の戯れるところとなるのも、また世の愚か者が天覚の戯れるところとなるようなことである。大笑いである。
広陵の伎女で黄鶯という者は姿色に優れ、豪客が門を填める。ある日秀才が訪れて宿を借りたいと云う。黄鶯はそのボロを着た姿を見て之を断る。秀才は二詩を塀に書きつける。その詩に云う、
摸母も西施も この身を共にす、
憐れむべし 老少 千春を隔つ。
他年(将来)の鶴髪鶏皮の媼(おう)、
今日の玉顔花の人。
花開き花落つ 両(二ツながら)悲嘆、
花と人とまた事は一般なり。
開いて枝頭に在って 客の折るを防ぐも、
落ち来って地下(じげ) 誰を雇いてか看ん。
黄鶯は、この詩をみて悟ところがあって、遂に客を断り道に入る。秀才は即ち洞賓であると云う。
この他、娼伎で化度を受けた者は少なくない。安豊県の娼伎の曹三香は悪疾の身で、邸宅を構え客を泊める。呂仙が寒士と偽って宿を求めると、下僕はボロ着の姿を見て之を断る。曹は「私は此処に門戸を構えて客を待つ身、何で垢浄を選びましょう」と云って遂に引き入れ、礼儀正しく応対する。暫くすると曹は疾(やまい)の発作が起こり、呻吟しまことに苦しむ。寒士は箸を使ってその股に針治療を施して、「回心、回心」と云う。時に門外にサイカチの樹があって永い間枯れたままであったが、寒士はそれに薬を施して去る。翌日樹は再び生きて枝葉が甚だ茂るようになった。曹は不思議に思い、回心の即ち呂であることを悟る。そして冠服を脱ぎ化粧を落とし家を棄てて遠方へと旅立つ。人々はそのため呂先生の為に祠を立てて奉祀する。紹興の末に突然曹三香が郷里に帰って来たが、顔貌が秀れて変わっていて誰も分かる者が居なかった。曹三香は自らその経緯を云ってまた去って行った。その後のことは分からない。呉興の伎女の張珍奴は姿美しく性格は淡泊である。毎夕に沐浴をして衣を改め、香を焚いて天に祈る。呂仙が士人に化けて訪れる。風貌秀れ気品がある。一ト月余りやって来たが、泊ることは無かった。張がこれを詰ると、「無論、理由はあるが、お前が毎夜祈るのは何のためかネ」と問う。張が「我が身を此処に失い、また何をか行う。妄りに化粧を施し艶曲を謳歌することの罪業は深く重く、自らを顧みると悲しくなって、ただこの心を天に告げるだけです」と云う。士人が「そのような気持でいるなら、どうして道に入って修業しないのかネ」と云うと、張が「先生がいないのです」と云うと、士人が「私が先生になろう、いいかナ」と云うと、張は再拝(二礼)した。士人は「また来るぞ」と云って行って仕舞った。張が苦悩して詞を作ると、急遽士人が現れて詞を見て韻を加え道情の詞にする。末に句があって云う、「将来お前に、誰に習ったのかと訊かれたら、呂先生からだと云いなさい」と云って再びいなくなった。黄学能が湖州の守となって、張珍奴が詞歌を奏でるのを聴き怪訝に思って、「嘗て呂仙がお前に現れたのか」と云う。張は一部始終を述べて、遂に籍を脱することが出来た。張はこの後狂人を装って世間から離脱し、密修二年に尸解して去ると云う。飢える者は食が進む、悩む者は道に入りやすい。伎女となり娼婦となる者は、外観を花と飾り錦と装って、内に悲氷を抱き針を呑む。一旦有道の人の啓発に遇えば、石火の機を発して、忽然として俗世を離れ真に就くことはもとより道理のあることである。呂仙の済度を蒙った者は少なくない。偶然とすることは出来ない。
呂仙の詩詞は、「純陽集」以来世に知られているものも多い。「全唐詩」の採録するところも亦少なくない。しかしながら、その玉石混合するのも亦免れないところで、今その詩詞を語れば、その粗豪なものには廬山の真寂観に遺(のこ)る一篇のようなものがある。呂仙が真寂観に遊行した時、道士の侯用晦は呂仙が剣を淬ぐ(にらぐ・鍛える)のを見て、「先生、その剣は何に使われるのですか」と問う。先生は云う、「地上一切の不平な事を此れを以て払い去る」と。侯は成程と思い共に飲む。既に酔い、箸で壁に書して云う、
鋒鋩(ほうぼう)を淬がんと欲す
敢て労を憚らんや。
晨(あかつき)を凌(おか)して匣(ふた)を開けば
玉龍嘷(ほ)ゆ。
手中の気概 氷三尺、
石上の精神 蛇一條。
姦血 黙して流水に随って尽き、
凶頑 今漬痕を逐うて消ゆ。
浮世不平の事、
爾(なんじ)と与(とも)に
相(あい)将(ひき)いて九霄(きゅうしょう・九天)に上らん。
書き終わる。初めは文字が無いように見えたが、書き終わると墨跡が燦然としている。侯は大いに驚いて二礼して剣法を尋ねた。呂仙は云う、「人は神(しん・精神)を母とし気を子とする。神が在れば気は集まり、神を失えば気は散じ、神を無くせば人は将に自滅しようとする」と。侯は感歎して、「これは真(まこと)に仙の言葉であります、出来れば姓氏をお聞きしたい。」と云うと、「吾は呂嵓(りょがん)である。」と云い終って剣を空中に擲(なげう)つ。剣は青龍に変化し、呂仙は之に跨って去る。その清朗なことは金鶏寺の書きつけた一篇のようである。呂仙が四明の金鶏寺に行った時、方丈は粛然としていた。暫くすると童子が出て来た。呂仙が、「何でこんなに寥々(びょうびょう・空虚で淋しい)としているのかね。」と問うと童子は云う、「寥々と云わないでください。虚空は何も着けません」と。呂仙はその言葉を欣(よろこ)んで壁間に詩を書きつける。云う、
方丈 門有れども 出て鑰(とざ)さず、
見る この山童の双脚を露わにするを。
彼に問う 方丈何ぞ寥々たると、
道(い)う 是(これ)虚空もまた着せずと。
この語を聞く 何ぞ欣々たる、
主翁(しゅおう)豈これ尋常の人ならんや。
我来たり謁見せんとして見ることを得ず、
渇心(かっしん)耿々(こうこう) 埃塵生ず。
帰り去るや 波は浩渺(こうびょう)たり、
路は蓬莱に入って 山は杳々(ようよう)、
相思一たび石楼に上る時、
雪晴れて海は濶(ひろ)し 千峰の暁。
その閑雅なものは牧童の一絶句である。鍾弱翁は唐末五代の頃の一雄である。行商人から身を起こし、大盗賊となり、終には南平王となる。その若い時には虎を手打ちにした事もあるが、撫州の城を囲んだ時は、大火が起きたのに乗じることなく、「君子は人の厄に乗ぜず」と云う。且つ乱世に在って文学を重んじる。思うに鷙悍(しかん)と善柔とを併せたような一種の風格ある人である。呂仙は嘗て白紵衣を着て、黄犢(こうとう・黄色い小牛)を牽いた牧童を従えて鍾弱翁に会う。鍾弱翁はその気宇の閑雅なことを目にして、庭下の牧童を指さして、「道人よ、詩を能くするなら之を賦せるか」と。呂仙は笑って云う、「我が言葉を煩わさずに、この子自ら之を能くする」と。即座に牧童が筆を執って大書して云う、
草は広野に敷く 六七里、
笛は晩風に弄す 三四声。
帰来飯に飽く 黄昏の後、
簔衣(さい)を脱せずして 月明に臥す。
牧童の手に成ると云うが、牧童にどうしてこの詩が作れよう、呂仙の作であることは明らかである。水滸伝はこの詩を引用する、その永く人口に膾炙することを理解すべきである。武昌の太守は碁を好む。ある日道人が現れ、直ぐさま太守の前に進み出て碁の対局を申し出る。太守と道人とは対局を共にし僅か八手で、「太守の負けです」と云う。果たしてその通りであった。このような事が数局あって、太守が皆負ける。俄かに道人は去って見えなくなる。郡治の前で笛を吹いているというのを聞いて、直ぐに郡治の前に行く。声が東から聞こえるので東に行けば西から聞こえ、西に行けば南に聞こえ、南に行けば北に聞こえ、北に行けば黄鶴楼の前に聞こえ、終にただ石照亭の中に詩のあるのを見る。云う、
黄鶴楼前 笛を吹く時、
白蘋紅蓼 江湄に満つ。
衷情訴えんと欲するも 誰か能く会せん、
ただ有り 清風明月の知る。
末に呂字を書く。よって石照亭を呂仙亭と改めると云う。このような事は他の地にもあると云う。この詩が人に伝えられたのも、思うに甚だ古くからのことであろう。
万歴十一年、建寧の楊良弼は「呂真人集」を発刊して、次のように跋語に記す。「純陽呂祖集の八巻、本伝及び霊跡三巻と詩歌五巻は何人に集められたかわからないが、宋の乾道の頃から既に世に流布されていた」と云う。であれば呂の集は乾道本が最初であるのか、私は未だ乾道本を見ていないが、「呂真人集」が既に宋の頃から存在していたことは疑えない。呂は唐の人であるが、詩詞は宋風を帯びていて唐の気は少ない。若しこれを唐の人に求めると杜旬鶴以下の浅易派の人と云える。その詩詞の由って出た来路は、多くは不明で宋の時に成ったものが多い。神仙のことは測り知れない。唐人が宋詩を作ると批判することは出来ないが、その詩が宋風を帯びるのも理由のあることであろう。
又、楊良弼は記す。「唐の呂祖の人を済度する誓願は最も深重で、唐の貞元から今日に及ぶ、まさに八百年の間分身を現世に現わして、一日として世間に不在の日は無いと云う。明の時には呂祖永存普度の信仰は甚だ盛んで、分身を現世に現わして一日として世間に不在の日は無いと云われるようになっては、言もまた極まると云える。その為か小説や戯曲に呂洞賓の名が出ることは甚だ多い。清になって李笠翁がいる。経(経書)学者達は蔑んで李漁と云うが、世に恵みをもたらした才子であることに間違いはない。その作る「十種曲」「一家言」等は広く世に知られる。別に小説が十四篇あり、その中に「帰正楼」がある。「帰正楼」は娼女が仏に帰依して拐子(かたり)の道に入ることを述べる。その第四回に記す。官吏で神仙道を好む者が、ある日一道士の訪れを受ける。道士の言葉が奇怪で理解出来ないので、門番は拒んで通さなかった。そこで道士は門の上に回道人と大書して、去るに際して門番に云う、「我はお前の主人の知り合いだ。これを見れば自然と分かろう、明日また来る、お前らが伝えなくとも、主人は必ず出て来るから、今日のように邪魔するには及ばない」と、門番等は怪しみ怒り、その去るのを待ってお湯で門を洗おうとしたが、思いの外に洗っても洗っても落ちないので、遂に主人に告げる。主人が怪訝に思って行って見ると言葉通りなので、大工を呼んで鉋(かんな)で削らせたが、一層を削っても猶字が在り、二層を削っても猶字が在る。門の両扉を外して全てを削ったが、依然として字跡がある。主人は大いに驚き疑い、回道人は呂仙人の別号で、呂仙が下向したものかと考え、門番に復(また)来た時は通すように命じた。翌日になると道士は果して来た。主人が応対に出ると、背中に宝剣を背負い腰に瓢箪を提げている。剣は光り輝き、その鋭利なことを想わせる。主人は大いに驚いて、先ず剣を下ろして、そしてその後に相談することを求める。道士は微笑して剣を下ろして、それを卓上に置くことなく、また別人に渡すことなく、おもむろに剣を取って瓢箪にゆるゆると挿し入れると、僅かな時間で雄剣は瓢箪の中に消え去る。主人は愕然として此の人は神仙である、胸中では呂洞賓ではないかと疑い、ついに一道観を造ることを約束する。道士は実は詐術師で、その字を写して木に染み入るのは亀尿(きにょう)で溶いた墨のためで、また剣が瓢箪の中に入って消えるのは、鉛や錫で作られた中空の剣が、予め入れ置かれた瓢箪中の水銀に融ける為である。もとより小説の話で好き勝手に述べたものであるが、李漁の当時の世に、呂仙に対する信仰や渇望が無ければ、李漁がどうしてこのような話をしようか。況や李漁は嘗て呂仙を信奉する一団に対して、康熙辛亥の夏に寿民の佟方伯の園に寄って詩と差し出した。その詩に云う、
今古の才人 総て天に在り、
詩魂死せず すなわち仙と成る。
他年若し霊社に帰するを許さば、
願わくは 諸君の款段(かんだん)の鞭。
呂仙下って唱和して云う、
聞くならく 陰陽 二天ありと、
詩魔除き去らば 是(これ)神仙。
相期して若しあえて雲窟に帰さば、
汝に命じて玉鞭を執らしめん。
清になってからも民間で呂仙を信奉する者は甚だ多い。諸地方に会盟結社があって、呂仙がしばしば降ることは次のようである。
呂仙に道を授かった者の中で、李鉄拐や郭上竈は既に記した。その他で世が仙と認める者に曹景休がいる。景休は曹彬(そうひん)の孫で、彬は宋の創業の功臣でその人柄は仁を敬い和に厚く、生前においては魯国公となり、死後には済陽郡王を贈られる。尊敬すべき人で、宋史二百五十八にその伝記がある。彬の子は玘(き)、玘の娘は即ち仁宗の皇后で、賢いことで知られている。景休は皇后の弟である。志を神仙に廻らし、行跡を山巌に潜める。ある日、呂祖と鍾祖は共に降り景休に問いて云う、「汝の修めるところは何物か」と、景休答えて云う、「道を修める」と、「道は何処にあるか」と問うと、景休は天を指さす。「天は何処に在るか」と問うと、景休は心を指さす。二師は笑って云う、「心は即ち天、天は即ち道、汝は能く本来を知る」と、遂に還真の秘旨を授けて修練させる。幾らも経たずに道が成る。二師は景休を引連れて去る。世に云う曹国舅がこれである。
何仙姑は零陵の人で、年十三の時に供の女と一緒に茶を採りに山に入る。突然供にはぐれて独りさまよい呂祖に遇う。桃を一ツ与えられその半ばを食うが、食い尽くすことは出来ない。それから後は飢えることが無くなり霊智を有すようになって、後に仙となる。或いは云う、仙姑は広州増城県の人で何泰という者の娘である。夢で神人の教えを受け次第に人と異なるところが現れる。則天武后はこれを聞いて使いを遣って宮中に招いたが、途中で消え去って仕舞った。中宗の景龍年間には白昼に昇天し、玄宗の天宝九年には麻姑壇に現れたと云う。後の説のようであれば洞賓より以前の人となるので、洞賓の教えを受けることは無い。疑わしいことである。
劉操、字(あざな)は宗茂、遼に仕えて相の位に昇ると云う。ただ疑うに、遼史にはその伝記は無いようだ。好んで性命を語り、黄老を崇(たっと)ぶ。後に印綬を解いて去り、名を玄英と改め、海蟾子と名乗る。編遊して道を訪い、呂祖に遇って仙になることが出来たと云う。
元の趙肖仙は杭州玄妙で真を修める。呂仙の降った時に遇い口決百字碑を授かる。寿命一百六十四才で白鶴に化して天に昇るという。即ち今現存するところの百字碑は、趙の手から出たことを知る。
呂洞賓の教えを受けて道を得たものは少なくない。しかしながら、その道を伝えて世に広め輝かし、大いに仙威を張った者は王重陽(おうちょうよう)である。王重陽は即ち元曲の「馬丹陽」に現れる者で、詳しく重陽を伝えれば一冊の書物が出来る。重陽、名は中孚、字は允卿、後には名を嚞(てつ)、字を知明に改める。宋の徽宗の政和二年に生れる。咸陽大魏の人である。年四十七才で妻子を捨てて道に入る。翌年には終南山に遊行し鍾祖と呂祖とに遇い、翌年にもまた遇う。道が成就して関東に遊行して、馬丹陽とその妻の孫不二を化度する。邱処機・劉処玄・譚処端・王処一・郝大通等は皆、重陽の化度する者である。邱処機が元帝に優遇されて以後、重陽の道は大いに振るって、遂には盛んに仏教を迫害するようになった。元曲に神仙のことが多い理由は、実に宋と金の間の時代に重陽が起こったことに基づくと云える。いわゆる全真教の一派は重陽から起る。重陽の居る庵を全真庵と云い、その集まりを全真集と云う。記憶に誤りがあるかも知れないが、重陽の碑は金の有名な詩人の元遺山がこれを撰す。重陽の道は呂洞賓から出ると云うが、呂洞賓の名が今も轟くのも重陽の力に拠るところが亦大きい。
呂洞賓の道系の本末を概括すると次のようになる。
◦老子‥王玄甫‥鍾離権‥呂洞賓
◦呂洞賓‥劉宗茂‥張伯端‥石杏林‥陳泥清‥彭鶴林
‥劉永年
張伯端以下はいわゆる南宗
◦呂洞賓‥王重陽‥馬丹陽‥宋披雲‥李太虚‥張紫瓊‥趙縁督‥陳上陽
馬丹陽以下はいわゆる北宗
◦王重陽‥馬丹陽
‥邱長春
‥劉長生
‥譚長真
‥邱処機
‥郝広寧
‥王玉陽
‥孫静姑
仙人は長生きだと云うが、鍾離権と呂洞賓との間の何と遼遠なことか、漢から唐までは数百年もかかる。呂洞賓が鍾離権から法を嗣いだという話も、根拠は無いようだ。王重陽と呂洞賓との間もまた遼遠としていて、唐から南宋までは二百年余りある。王重陽が呂洞賓から法を嗣いだという話もまた根拠は無いようだ。また呂の集は乾道二年に世に出たが、重陽が洞賓に遇ったという年とは十年も経っていない。洞賓は唐の人で、神化霊応甚だ盛んであれば一二冊の呂仙の書が有ってしかるべきであるが、宋の「太平広記」五百巻には神異瑣雑の事が多く記されている。疑って推察するのも大人気ないが、疑問のままに納得するのも難しい。「太平広記」が出る前に呂仙のことを記すものが一二冊でもあれば、広記の編者が之を採らないことは無いように思う。しかしながら、今「太平広記」を読んでも、呂仙のことは影も形も無い。呂仙はなぜ広記以前に存在しないのか。呂仙は広記には出ていないが「陳博伝」に出ている。陳博の室に現われ、芸祖の苑に現われ、陳景元の画くその姿が世に出てから、急激にその仙跡や霊跡は天下に広まるようになった。仙人の評価にもまた運命はあるか。劉成宗や張伯端以下は問題では無いが、呂仙と王重陽では二百年余りの隔たりがある。重陽が出てから後に急激に法威は振るう。仙道の興廃にも自然と運命があるのか。このようであれば、呂仙が陳博に現れると云うが、却って陳博がこれによって呂仙を世に示すというものである。呂仙が王重陽に教えたと云うことも、却って王重陽が呂仙を世に伝えるものである。陳博も王重陽も亦仙術を善くするというべきではないか。
呂仙が世に知られるようになったのは、陳博や王重陽陳に因ること大きい、しかし呂仙が人に信じられ世に仰がれる理由は別にある。正に宋・金以来、呂仙の面目精神として描かれたものは実に正大で、万民の崇敬に堪えるものがあるからである。支那(中国)の人々が金銭を愛すことは深い。しかし呂仙は、三千年後の人々が誤った道に進むことを危惧して、鉄を金に変える錬金術のようなことは認めない。これが万民の崇敬したくなくても崇敬しない訳にはいられないところでは無いか。人々は金銭を愛することも深いが、その信を重んじることも亦堅い。貪婪鄙吝(どんらんひりん)の念(おもい)は甚だ深いが、堅実確固を尚ぶ情の甚だ盛んなことも、支那(中国)の人々の賞賛できる美点である。呂仙は篤く信を重んじる。このような呂仙をどうして支那(中国)の人々が欽慕しない理由(わけ)が有ろう。また支那の人々は自己の利益を優先する風習がある。その甚だしいものに楊朱の学問のようなものがある。自分が少しの事を譲れば丸く収まる事でも、敢えてその少しの事を譲らない。このため支那の歴史を読むと、国が亡び王が殺されても、自身は悠然自適としている者が少なくない。身を殺して義に就く者が無くは無いが、もとより甚だ僅少で、多くの者は身を保ち独り善くする。明哲奇智の士などは、いわゆる高所に身を置いて他を顧みない者が多い。神仙者などは、彼の王の臣下であることを承服しなかった河上公のように、元来が一個の静寂を楽しみ、塵界の中を脱して、万民の艱苦を他所(よそ)にする者が多い。しかしながら独り呂仙は、救済の情(こころ)抑えがたく、永く俗世に在って済度を仕事にすることを誓う。これ正に聖王の心であり賢相の心である。誰がこれを欽慕しない人があろうか。これもまた呂仙を崇敬したくなくても崇敬しない訳にはいられないところの一ツである。且つまた、世に伝わる列仙伝中の仙などは奇異霊怪はあるが、皆長生きである不老であるというだけである。つまりは岩石が山に在り古木が野に在るようなことで、何の意義も無い。呂仙の教えを考えると、その文集第六巻に載せる勧世の詞に、
一毫の善も 人の与(ため)に方便せよ。
一毫の悪も 君に勧める 作(なす)すこと莫(なか)れ。
衣食は縁に随え 自然に快楽あらん。
これ甚(なに)の命をか算せん、
什麼(なに)の卜を問わん。
人を欺くはこれ禍(わざわい)、
人を饒(ゆる)すはこれ福なり。
天眼は昭々、報応は甚だ速やかなり。
吾が言を諦聴(たいちょう)せよ、
神も欽(つつし)み鬼(き)も伏せん。
とある。冒頭に愛を説き、次に正義を提示し、次に衣食の実際に就いて、道に依ることに真の楽しみが在ることを教え、中ごろに僥倖に頼ることの卑しさを教え、次に禍福の実相を緊切的確に語り、次に老子が天網恢々と云ったことを言い換えて天眼昭々と云い、応報迅速といって、痛烈に俗人を戒める。終わりに厳粛な勅命を下すようにして結ぶ。これ実に簡単な言語を用いて博大な精神を述べるものである。どのような人の口から出たとしても、襟を正して聴くに足るものがある。また呂仙の語に云う、「世にどうして不忠不孝の神仙があろうか」と。これゆえに呂仙の教えを信奉する者は、道に属すといえども孝経を粗末にしない。一派の輩は、儒教からは孝経を取り入れ、仏教からは心経を取り入れ、老子道徳経からは恬淡清静の趣旨を信奉するのを常とする。このような精神と感情との核心として、神通自在・永存普度の呂仙を認める。呂仙が人々に崇敬されるのも偶然では無い。そしてまた呂洞賓を、元の世祖が純陽賓正警化真君に封じ、元の武宗が孚佑帝君に封じたのも、必ずしも道理の無い徒ら事とは言えないであろう。
洞賓の訓(おいえ)というものは世に甚だ多い。之を集めるものが数冊ある。いわゆる「八品経」・「五品経」・「参同経」・「聖徳経」・「広慧経」・「度人妙経」・「金丹種子」等数十種がある。しかしながら全てが呂仙の手から出たとすべきでない。
◦指玄篇二巻
これは、洞賓の親著で白紫清の註だという。しかしながら指玄篇の本末原序を考えると、この書は程易明の門人の呉鳴鳳と云う者が、家蔵の旧冊を易明に献上したことで世に出たもののようである。これ以前に「許旌陽仙人指玄之詞」や「白紫清指玄篇」等があり、また別に「古仙指玄集」や「指玄要語」等があって世に出る。この書は却って後れて出る。疑わしい。張伯端紫陽真人の「悟真篇」は広く世に普及して、魏伯陽の「参同契」と共に神仙家の手引書である。「悟真篇」の詩に「夢に西華に謁して九天に到る。真人我に授ける指玄篇、その中は簡易にして多語無し、ただこれ人をして汞鉛(こうえん)を練らせる。」というのがある。思うにこの詩によって後人がこの書を撰したものか。上篇に律詩が十六首、下篇に絶句が三十二首あって、体裁は甚だ悟真篇に似ている。そして信じる者は却って、「呂仙のこの篇は伯陽の書の外伝で、また悟真篇はこの書の外伝である」と云う。誰がその確かなことを知ろうか。白玉蟾の註と和詩がある。
◦渾成集二巻
これは洞賓の詩詞を集める。「純陽集」と互いに出入りが有る。思うに明の時代に世に出たものか。清真何道人の集めるところである。「涵三雑詠」や「葫頭集」等に比べれば、来歴が明らかでやや価値がある。
◦修真伝道集二巻
華陽の施肩吾が編集する。呂仙と鍾離真人との問答を記す。皆金丹竜虎の議論である。肩吾は字を希聖と云い、松浦の人である。儒仏に精通し、詞章を修める。予章の西山に隠れ、道を修め、呂仙の教えを得るという。また唐の元和年間の進士だと伝わる。そうであれば呂仙より数歳上の人である。疑わしいところがある。西山学道の者十三人が共同でこの書を撰んだものか。
◦忠誥三巻、◦孝誥三巻
呂仙の言葉を記録するが、これが出たのは思うに明の中期以後であろう。忠誥の中で忠臣を七十二人挙げて、方孝濡や楊継盛に比べていることでも分かる。姚方昇等の手に成るか。
◦八品仙経八品
明の神宗の盤歴年間に出る。一品二品は広陵に著わされ、三品四品は金陵に、五品は毘陵に、六品七品は信州に、八品は臨江に著わされる。竜啓玄・孫得富・朱霓等の手によって出される。
◦後八品仙経八品◦五品仙経五品
清の康熙年間に臨江で出る。陳元芳・杜国相・劉九級等と共に武勝門外の棲真観に呂仙を信望する結社を作った傅某の手によって出る。
◦三品仙経三品◦参同経三巻◦聖徳経二巻◦醒心経一巻◦広慧超却経一巻◦延生証聖心経一巻◦先天一炁度人妙経一巻◦涵三語録◦その他十数種
呂仙が鄂城(がくじょう)の涵三官や刊江の蓮華社や虎林の青平山やその他諸所に降って著わすところのものは、清朝の初期に属している。
であれば、則ち呂仙が世に示すものが多いと云えども、呂仙自ら著わしたものは無いに近い。連篇累冊は皆これ扶鸞(ふらん)の術から出る。晋の許仙人や蜀の関羽将軍や南海の観世音菩薩なども扶鸞の術で之を招致することが出来る。呂仙の著の多いのも不思議ではない。扶鸞の術は甚だ西洋のプランシェットに近いが、その起源は甚だ古い。鸞の名が生じたのは文帝宮から起きたのが始まりであろう。文帝は史上の文帝では無く道教中の文帝である。扶鸞の術を語れば一夕で語り尽くせるものでは無いが、つまりは近頃の西洋人等が云うところのウィジャボードにおける自動筆記に類するものである。ローチェスター・ノッキング以来奇異の話をする者が多いが、およそ此の類の事はことごとく古臭の腐気が紛々と鼻を撲(う)つ。いわゆる今の人が新しいとしているものは、昔の人が古いとしているものである。知ること少なければ驚くこと多く、考えが浅ければ不思議とすることは多い。大本教の御筆先のようなものは、最近になって初めて起こったものではない。御筆先は𠭥(ぜい)の類である。祟(すい)に従い又に従う、祟は神がかり(たたり)であり、又は手である。出るに従い示すに従うを祟と云う。示すは上(かみ)が人に教える(たたる)のである。二千年前に既に楚に存在したことで、今さら言う事もない。丑寅の金剛も現われるであろう、国常立尊も現われるであろう、天御中主尊も現われるであろう、呂洞賓が現われ、関羽が現われ、観世音菩薩が現れるのも、何ぞ驚くに足らん。天神地神仙仏菩薩がこの世にあらわれるのも、尋常一様の窓前の月、ただこれ銀痕の欠円を異にするだけである。
ある人が問う、「であれば、仙は存在するか」と。云う、「仙の存在を何で疑えよう。儒の道を信じて能く成る者があれば、之を儒と云う。仏の教えを奉じて能く成る者があれば、之を仏と云う。道教に於いて能く成る者、之が仙でなくて何であろう」と。問う、「黄金は、練って作ることが出来るか」と。云う、「黄金を作ることは出来る。黄金を見て土石と同じように見ることが出来れば、土石は即ち黄金である。土石が黄金とならないことを憂えずに、ただ汝が黄金を土石と同じように見ることが出来ないことを憂えなさい」と。問う、「不死は得られるか」と。云う、「得られる。儒教・仏教・キリスト教、皆不死の道を教える。不死が得られなのであれば、教えもまた無駄ごとである。教えを理解し、教えを悟り、教えを信じて疑わないことが出来れば、いわゆる生死と云うものは無い。眼に生死がなければ、何処に死があろう。ただ仙人は不死であるだけでは無い。何を疑おうと云うのか」と、問う、「不老長生神通遊戯、之もまた得ることが出来るか」と。云う、「問うことを止めよ。老を長生と云う、老いないでどうして長生があろう。人は長生きを願わない者は無い。しかし老いを願う者は無い。これを迷妄と云い、正道を信じないと云い、魔道を奉じると云うのである。秦皇・漢武・玄宗・徽宗、皆魔道を成就しようと願った。梓潼(しどう)の婁道明(ろうどうめい)は不老の術を善くして、年九十七なのに三十位の人のようであった。還壮不老の術もまた古臭腐気の当たるべからざるものがある。最近のスタイナハのように、生殖の事の上に還壮の効き目を得ようとすることは、既に二千年前の人が着眼したことで、晋以前に於いてこれ等の道を説く書の非常に多いことは、晋の時代の仙人の書に出ている。また梁の陶仙人は「結局これ等の事は腐った手綱を用いて六頭立ての馬を御そうとするようなものだ」と斥けた。ただこれ等の術が時には少し効くように思えるので、我が国に於いても平安朝の人が之を学んだ形跡がある。しかしこのような事は仙道では無い。それなので呂洞賓は婁道明に会って、叱って云う、「汝、何する者ぞ」と。後数日して道明は大いに吐いて死去する。幼年から壮年になり、壮年から老年になる。既に老いたり、また以って慶すべし、老いて復(また)老いないことを願うようなことは、凡夫の妄執であって、吝嗇が骨身に徹していると云うべきである。神通遊戯のような事は各人の用いるのに任せる。未だ仙に成れなくとも、求める者は之を得よう。肩の力を抜いて冷静になれ、君の神通広大無辺なことが看えよう。
仙人は歌って云う、
喫飯し去れ古人の機要 甚だ分明、
おのずから是(これ)衆生の力量軽し。
悉く有中に向って有質を尋ねる、
誰か能く無裏に無形を見ん。
有中に向って有質を尋ねるのは陋俗の事である。百害あって一理無しである。能く無裏に無形を見ることは神仙の道である。蒼海の塵を揚げ、山の魚を棲ますも笑殺するだけである。黄粱熟さない邯鄲の一夢の、夢見る者は盧生か呂生か、夢を示す者は呂翁か鐘離権か、はたまた洞賓か、夢中の人は蕭嵩か李泌か、はたまた烏有先生か、呂仙は唐人か宋人かはたまた亡是子か。詩詞の何と多いことか、それは何処から来るのか。著述は甚だ豊である、それは誰が撰したのか。旅亭の休息と耳下の一枕は此れら幾多の話を生み出し来(きた)る、見終わり思いめぐらして、尽きない味わいが残る。
(大正十一年一月)
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