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幸田露伴の史伝「頼朝⑥生死の関2」

 父の義朝は平治二年の正月三日に長田に討たれ、兄の朝長は前年の十二月二十八日に終わりを取り、総領の義平は父の言葉に従って飛騨から越前へ出て軍勢を集めたが、義朝死去の噂が伝わって付き従おうと云う者も無くなったので、徒(いたずら)に自害するよりは清盛メを・・と目指して都に上ったが、難波次郎経遠に生け捕られて正月の二十五日に六条河原で斬られて仕舞った。母には前年の三月に死なれて、それでなくても心悲しいのに、父や母や一族郎党に次々と死なれた頼朝の心中はどんなで有っただろう。人生の味気なさに華厳の滝に飛び込めるものなら、頼朝などは七度飛び込んでも九度飛び込んでも、とても飛び込み足りないのである。現に頼朝の妹の夜叉(妹と云っても母は異なる)は頼朝同様に父や兄の悲しい運命を見た挙句に、二月になって頼朝までが連れて行かれたのを見て、年僅か十一才であったが強く感じたと見えて、生母や祖母を振り捨てて杭瀬川に身を投げて死んでいる位である。まして物心が十分についている頼朝は、兄の朝長の終わりの事情を聞いて知って居り、また義平の最後も見たのであるから、幾度かその小さい胸の血を悲哀の寒風に吹き凍らせて仕舞って、絶望の余りに自害しようとしたことであろう。別に青墓の大炊の許に居る時に自害しようとした記録は無いのであるが、前後の事情を考え合わせて見ると、頼朝が死のうとした事は無いとしても、死のうと思った位のことは一度や二度では無かったろうと思われるのである。頼朝の心中の消息の事なので、強いてコウで有っただろうと云い張るのでは無いが、十三や十四の当時の頼朝が、幾ら偉いと云っても後の大栄達を夢想していた訳でも有るまいし、父や兄が次々に死んで家来も皆離れ離れに散った淋しい春を、宿の館に孤坐して遣る瀬無い悲哀に沈んだ夜などは、実に堪え難かったであろうでは無いか。その中に父の義朝の所領の尾張の国をこの度の戦功で三河守頼盛が賜ったので、頼盛の家来の弥平兵衛宗清が頼盛の目代として尾張へ下る途中、美濃の青墓に差しかかって、頼朝の居る事を聞き出したから、ソレと云うので忽ち取り押さえに掛かった。頼朝は再び生死の関に臨んだのである。心得たりと自害しようとしたのであるが、多勢に遮られ刀を奪われて仕舞って、二月の初めには京の六波羅へ連れて行かれて、全く平家の俎板の上の魚になった。先例に義平が居る、義平同様に何処かの河原の砂に首の血を注ぐ運命が、何日か後に我を待ち受けていることは明らかなのである。殺されるなら殺されるで、いっそ早く殺された方が好い位に悪びれずに決心していた事であろうが、父や兄が皆死んでただ一人、源氏の正統となった十四才の頼朝が、凛として死を待つ姿は、どんなに哀れ深かった事であろう。宗清は自分が生け捕って来たのであるが、元来が心の優しい人で有ったらしいのは、後に頼朝が勢いを得た元暦元年六月に、頼朝に恩が有る理由で主人の頼盛と共に招かれた時に、宗清は主人の頼盛に向って、「戦場に向かわれるなら進んで先陣となりましょうが、平家没落の今は鎌倉への参向は最も恥ずかしく存じ候。」と云って鎌倉へは向かわずに却って屋島の方へ行って宗盛に従ったのを見ても、義理堅い性質の美しい人であることが分かるので、見るからに頼朝を不憫に思って、「命が助かりたく思われませんか」と頼朝に尋ねると、頼朝は、「今度の合戦に父も兄弟も皆失った上は、僧になって父上などの後世を弔いたいので命は惜しい、助かりたいと思う」と云ったと云う事である。後の世から見ると、そのような事を云って置いて命が助かったら、平家を滅ぼして仕舞ったのだから、何だか頼朝は嘘をついて人を騙したようであるが、世には嘘が真(まこと)になる事も有り、真が嘘になって仕舞う事も有るもので、頼朝のその時の言葉は嘘では無かったと思われる。命が助かって僧になったらと云ったのはどうも心から出た言葉だろうと思われる。そうで有ったからこそ宗清等も骨を折って命乞いをして呉れたのであって、表面的にそのような事を云いながら、腹の底では今に平家を討ち潰してやろうと思っていたのでは何処となく様子に現れようし、宗清もそれを哀れと思うことも無いだろうから、余計な心配をして助けて遣りようも無いのである。立ち居振る舞いが尋常で、おとなしやかで、しおらしかったから、宗清も哀れに思って、頼盛の母で清盛に取っては継母の池の禅尼に命乞いをしたのである。禅尼に対して頼朝の事を、「御年の割におとなしやかに候」と云ったのも、勿論嘘で無かったに違いない。兄を斬られ父を討たれて、世にも心細げに器量骨柄の優秀な若い若い頼朝が、つつましやかに法華経の要品(ようぼん)でも誦して死を待って居た様子は、どんなにか殊勝で哀れ深かった事であろう。そこで宗清は自分が頼朝を捕えたのでは有るけれども、さぞかし優しい人で、功名一点張りの卑しい男では無かったので、頼朝の上品で殊勝な様子に同情の涙を止め得なくなって、池の禅尼に命乞いをしたのである。しかし宗清や池の禅尼がどんなに優しい人でも善い人でも、危険な考えを持つ者を救おうとするハズは無いし、また、思い内に在れば色は外に現れるものであるから、年若い頼朝がその時に平家を倒そうなどと云う野心を懐いていたとすれば、世馴れた宗清などには忽ち心の底を見透かされて、命乞いどころか、却って直ちにその命を断たれた事であろう。そこで、頼朝は僧になると云ったのにソウ仕無かったから、その点から論じれば池の禅尼や宗清を騙したように見えるが、如何に頼朝でも十四やそこらでそのような底深い気も無かったろうし、宗清が如何に好人物でも十四やそこらの少年に騙される程ウカツでも有るまいから、どうしてもその言葉はその時の真実で、そして真実の言葉が嘘になって仕舞ったのだと云いたい。頼朝がいよいよ命が助かる事になって、池の禅尼に恩を謝して、且つその言葉に拠って旧臣を得るために、死罪を赦されて伊豆へ流される事が知れた時に、流石に源氏の正統の人の事なので侍共が少々出て来て、頼朝の周りに付いたのであるが、その侍共が頼朝に対して、「今出家をなされれば、禅尼も好く思われて、平家の人々も安心される事でしょう」と云った時に、義朝の家来であった纐纈(こうけつ)源吾守康と云う男が、「どんなに申す者が有っても御髪(おぐし・髪)を下ろさずにどこまでも男児で居て下さい、君が助かられた事は唯事ではありません、正しく八幡大菩薩の御計らいと思われます。」と云ったが、出家しろと云った者にも、出家するなと云った者にも、頼朝はウンともスンとも返事を仕無いで、ただ守康の言葉に微かに頷いたと云う事である。そのウンともスンとも返事を仕無かったところなどは、如何にも大きな河の深い淵などが、音も立てなければ底も見せないで、ただ湛然と周囲の好景を映して居るだけのような、大人物の自然で佳い様子である。大河には自然と深淵が有るように、大人物のある時の様子には、どうも大河の淵のように静かで、淵のように黙し、淵のように深く、淵のように底の見えない、そして周囲の絶壁や奇岩や怪松や矮樹や仙花や懸泉や遠山などを、その真碧な鏡のような水面にただそのまま鮮やかに映して居るように、人々の言葉を唯そのまま素直に吾が胸に受け入れて、その互いに差し障り重複し相殺するのも苦にすること無く、総て胸に容れて猶余裕を持って端然として居るところが有るものであって、日露戦争に大功を立てた某海軍大将(東郷平八郎大将)なども、大事に対処して淵のように黙して云わず静かで穏やかであったところなどは、他の幾多の自称豪傑等にその及ばないことを密かに歎かせたと云う事である。頼朝が僧に成れと云い、僧に成るなと云う双方の言葉を聞きながら、一言も発しなかったところなどは、十四才の春の三月十一日の事であるが、実に争えない英雄の気象で末頼もしいところであった。しかし、髪を剃るまい、男児で居よう、と云う決心をしたのは、守康の進言が付けた分別によって固まったので有って、守康の進言を聞くまでの頼朝は、僧に成ろうとも成るまいとも思って居なかった事は勿論で、僧に成る境遇であったことは明らかなので、守康の代わりに法然上人などの大徳にでも遇っていたら、頼朝改め円珍さんとか方珍さんとか云う小坊主になって仕舞ったかも知れないが、幸いに守康に遇ったので髪を剃らなかったのである。髪を剃る剃らないは瑣事ではあるが、挙兵して天下を争うには男児で居た方がどれ程好いか知れないのであって、頼朝が僧に成っていたりしたら、木曽義仲や義経に対する世の期待はいよいよ強くなって、或いは頼朝を凌駕したかもしれない。めぐり合わせと云うものは実に不思議なもので、頼朝が守康に遇ったことなども運と云えば運に違いないので、守康が居なかったならばマズは僧に成っていたらしいのである。であるから、後になって頼朝自身が、「首は池の禅尼に続(つ)がれた、髪は纐纈守康に続がれた、」と云って、池の禅尼の実子の大納言頼盛は平家の目ぼしい一人であったが之を助けて置いて、また纐纈守康には種々の物を与え、併せて美濃の多記の荘と上中村と云う処を賜っている。髪を纐纈守康に続がれたと云っているところを見れば、正しく頼朝が守康の言葉に因って僧に成らなかった事は明らかで、そのため宗清に対して「僧にでも成ろう」と云ったその言葉は嘘になって仕舞ったが、嘘言で無かったことも明らかである。そう云う訳で頼朝は先ず宗清の同情を得て、それから宗清の言葉によって池の禅尼の同情を得て、また池の禅尼の愛児で幼くして死んだ右馬助家盛に似ていると云う幸運もあって、大いに禅尼の同情を買って、誰もが知っている通り終に禅尼が重盛を呼びつけて、「頼朝を助けて遣れと清盛に云え、」と云う話になったのである。その時の清盛の言葉に、「成親などならば何十人をも助けて置いても大事は無いだろうが、義朝の子は用心しなければならない、特に頼朝は父の義朝も唯者で無いと見て兄達にも増して可愛がったのであろう、中々以て助け難いものを・・」と、以ての外と云う気色だったと云う。清盛がそのように云ったところを見ると、頼朝が父の義朝に寵愛されていた事はその当時知れ渡っていた事のようで、鬼武者の章で記したところと照らし合わせて考えて欲しいのである。清盛が、「助けられない」と云うと、サア池の禅尼は泣いたり恨んだりして、「そなたの使いの仕方が熱心でないからだ」などと重盛にさえ恨みや愚痴を云うので重盛も大いに困って、再び清盛に命乞いをすると云う始末で、頼朝の斬られるのが一日延び二日延び、今日は殺される、明日は殺されると云い云い日が経った。そのうちに頼朝は、身の回りの雑用に付けられた丹波ノ藤三国広と云う小侍に向って、「小刀と桧木が欲しい」と云うので、国広は頼朝が退屈凌ぎに何か彫り物でもするのかと思って、「御不幸続きで有られれば、御経でも遊ばされるべきなのに、何事を為されるお積りで」と問うと、(山の鳥は愁いを知らずに処々で自在に啼き、野の花は涙を解さずに点々と無意に開く、思いある身には思いを知らない人の無理解な言葉は悲しい)頼朝は眼をしばたたきながら国広に向って、「天下に物を思う者に頼朝以上の者が有ろうか、昨年の三月には母上に別れ奉り、父上や兄上は今度の戦で亡くなり玉う、別けても父上の御身の上は悲しく、頼朝が自在の身であれば心を尽くして御仏事をと思えども、このような身の上では云い甲斐も無い、正月三日に亡くなり玉いて、思えば六七日も今日明日で四十九日も近づけば、仏に花を供え僧に布施する事は出来なくとも、卒塔婆の一本なりと我が手で刻み、仏の御名を記し奉り、御菩提を弔わんと思ったればこそ、小刀・桧木を云ったので、何で退屈しのぎに何事を仕よう」と云ってハラハラと涙を落したと云う事である。思えば如何にも哀れで道理千万な話で、国広も貰い泣きをして宗清にこの事を伝えた。十四才の少年のこの孝心の話を聞いて感じない者が居ようか、宗清は早速小さな卒塔婆を百本拵えて頼朝に贈ったのである。そこで頼朝は仏名を一ツ一ツその卒塔婆に書いて、父上出離生死頓証菩提と祈念したのである。(頼朝は文字なども上手に清らかに書いた人であって、決して字などは拙くてもよいなどとクソ威張りをした人では無かったようで、清盛の字のように福々しくおっとりして何となく堆(うずたか)くは無いが、如何にも蟠(わだかま)り気の無い、スラリとした易(やす)らかで品の好い字で、字は西行に似ていると云う後人の評が有る位である。祐筆をしていたのは大和判官代邦通と云う者である)。サテ宗清が知り合いの僧を頼朝の許へ遣ったところ、頼朝は自分が着ていた小袖を脱いで僧の前に置き、今の身の上では力の及ばない旨を告げて、その小袖を布施に出したのであるが、頼朝は勿論のこと、僧も宗清も国広も皆涙になったのである。頼朝のこれ等の優しい振る舞いは数百年の後の我等でさえ感じるのであるから、まして当時の人は之を見聞きしてどんなに感じた事であろう。必ずしもこれ等の事が池の禅尼をいよいよ感じさせて、禅尼が強情を張って頼朝を助けたとは云えないが、これ等の事も頼朝に同情の集まる理由の一ツになったことは疑いない。頼朝びいきの池の禅尼が散々ダダを捏ねたので、頼朝は死を赦されて伊豆へ流されることになったのだが、三月二十日に池の禅尼に暇乞いに行って人の好い老尼から、「慎んで穏やかに世を過ごしなさい」と云う教訓を聞いた時は、頼朝も有り難い慈悲心の真(まこと)を感じて涙を流したと云うのである。同じ人間に生れて敵も味方も有る訳が無い、一線の糸に貫かれれば真紅の椿も白の椿も絞りの椿も、花と花とが触れ合い重なり合って親しみ護り合うように、機縁の糸が貫けば敵も味方も何の隔てがあろう。頼朝は家盛の弟のようであり、禅尼は頼朝の母のようである。範頼を殺した頼朝は禅尼の子の頼盛を助けているのである。平家の侍の藤三国広は鎌倉の世になって丹波の細野郷を賜って居るのである。頼朝が、「数奇の命を助けようとする、この尼の志を知ったならば、この尼の言葉を守って、弓矢・太刀・刀・漁などと云う事は耳の入れてはなりません、人の口はうるさいものですから、貴方もこのような事を再び起こして、この尼に二度と悲しいことを聞かせ玉うな、貴方を家盛と思い春秋の衣装を春と秋に贈りましょう、この尼を母と思い、私が死んだら弔ってくだされ」と云う禅尼の教訓を聞いた時には、真に亡き母の教えを再び聞くような心地になって、有難涙に咽んだに違いないのである。実際頼朝は禅尼の言葉を守って、一生を伊豆の国の蛭ヶ小島で、おとなしく小さくなって世を過ごす積りで、泣く泣く禅尼の教えを有難く受けたに違いないのである。本因坊でも千手先は見えないのであるから、どんなに偉くても頼朝がこの時にどうして、二十年後に平家を滅ぼして天下を取ると知ったり思ったり出来ようか。偉い碁客は目前の一手を筋を外さずように打つのだと聞いている。頼朝のその時は実に池の禅尼の有難い慈悲心に感じ入って、その教訓を無駄にしないと思うより他のことは考えなかったであろう。このようにして頼朝は生死の関を通った。追い立ての青侍の季通と云う奴に追い立てられて、瀬田の橋を過ぎて建部の宮で通夜をしたが、その夜、纐纈源吾守康に剃髪するなと注意を受けたのである。街道は坦坦として東に向かって通っている。守康とはそこで別れ、宗清とは篠原で別れ、季通に送られて、これからの運命が待って居る伊豆の国へと下ったのである。⑦に続く


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