語学、言語、言葉、人、人、人

台北という新たな土地での暮らしをまるで映画のようだと感じていたのは、登場人物の少なさにあったかもしれない。
少しずつ、少しずつ、私の生活物語の登場人物は増えていた。
登場人物が増えるとそれは生活になっていく。

語学学校が始まって2週間が経つ。
中国語を学びに世界各国からたくさんの人が集っているという、今までの私の人生で全く出会わなかった初めての光景に圧倒された。
母語が違う私たちが中国語を勉強するという、同じ目的のために集う同學の存在は鼓舞させるようだ。

師範大学の語学学校、インテンシブクラスを選んだ私は7人という少人数の中で勉強している。単語や文法を使ってとにかく会話をする実践的なカリキュラム。
日本人3人、アメリカ人3人、ベトナム人1人のクラスは、みんな勉強には真面目ながらも和気藹々と仲良く、休み時間のお喋りもいつも楽しい。
授業開始から一週間後にはみんなで香港料理店に行き、次の休みにはKTV(カラオケ)に行く予定が決まった。

中国語で中国語を学ぶ環境はとても集中力が要る。
面談テストで「聽力不太好」と評されてしまった私は落ち込んだし、教科書を見ると過去に学習した範囲しかなく復習のみかと少しがっかりしたけど、いざ初日に授業が始まってみると老師(先生)の話を聞き取るので精一杯で、今の自分の"中国語の現在地"に心底納得した。
言語は理解だけでは生きた言葉にはならず、聞く・話すがあってこそだと実感する。
日本で、一人で勉強していた時は比較というものは自己の中にしかなく、「自分が以前よりできるようになったこと」にしか目を向ける対象がなかった。
私がおざなりにしていた声調の矯正に、とにかく話すこと。老師と同學の話を聞きながら自分のできなさに向き合うことは、独学ではとても辿り着けなかった学びだ。
きっとどれだけ勉強しても独学には「もっと勉強しておけば…」という後悔がある。期間にして1年、時間にしてまだ全然100時間にも満たない中国語学習歴の自分がこの段階で思い切って台湾の地に来て中国語を勉強するのは、自分にとっていいタイミングだったのだろうと思う。

ただこのグローバルな環境での落ち込みは少なくない。
周りの学生はほとんど英語が話せる。日本の語学学校もそうかもしれないが、英語以外の言語を学ぶことは多くの人にとって"英語が話せること"の次のステップであることに気付かされる。
バイリンガルは当たり前で、トリリンガル、クワドリンガルもこの環境では珍しくない。
日本人の英語力は全般的に低いとされているが、周りの話を見聞きすると日本人の英語力の低さはつまり日本語ができたら困らない環境であること、学校の授業やテストのため以外では使う場面が少ないことの裏返しだったのだと改めて気付かされる。
フランス人の同學は父が台湾人だから父の母語を学びたいという理由で台湾に来たという。オランダ人の同學はすでに最初から中国語もペラペラだった。シェアハウスに新しくやってきた台湾人はシンガポール出身で英語、普通話・台湾語に加え広東語も話せる。
出自や、仕事を理由に中国語を学んでいる人も少なくない。
そんな中私は英語も全然話せない中中国語を勉強している。言語を「好きだから」という理由だけで学ぶのはとても贅沢なことであると思い知った。

こちらに来て少し驚いたのは、ネイティブの挨拶は你好ではなく哈嘍(hello)、再見ではなく拜拜(bye bye)だったこと。語学学校の老師曰くそれは映画の影響で、シェアハウスのルームメイトも確かにいつもテレビでハリウッド映画を観ている。
言葉は日常にないと身につかない。台北の人たちの多くが英語を話せるのは教育はさることながら、外食文化のなか外国人旅行客を含む客商売が多いこと、ハリウッド映画が毎日テレビで流れているような身近さにもあるのだと気付かされた。

中国語のプラグインを脳にインストールしている途中である今、私はもう壊滅的に英語が話せなくなってきた。
新しくシェアハウスにやってきたインド人は中国語が話せず、英語で"What's your name?"と聞いてくれたが私の口から無意識に出てきたのは中国語だった。My name is…という初歩的すぎる英語にもまごついて、我的name是…啊,不是這是中文……我…my name……と脳が混乱してまともに話せなかった。それで後日彼は英語で「日本人はみんな英語が話せないの?」と半ば諦めのように言っていてまた落ち込んだ。
語学学校でも英語がままならないために、せっかく世界各国から集まったたくさんの同學とコミュニケーションを取ることを躊躇してしまう。この環境での出会いを活かせる英語という手段に初めて心から悔しさと憧れが芽生えた。英語圏の国以外でも英語は重要で、日本では考えられないほど日常に浸透していることを思い知り、来て3週間目にして中国語の次は本気で英語を勉強しなければと焦る。

でも逆に、今の私が英語ができなくてよかったとも思う。きっと台北では中国語が話せなくても英語が話せたら最低限の生活に困らない。求人サイトをみても仕事で求められるのは中国語or英語であることが多い。
きっと私は英語が話せたら意思疎通できることに甘えてしまう。とにかく今は中国語に集中したい。

そういう落ち込みもある中、私の必修ではない歌の授業は楽しみの一つだ。
台湾の有名な曲の歌詞から中国語を学ぶ授業で、10年代以降のインディーズアーティストばかり聴いていた自分にとっては台湾の大衆音楽を知ることが興味深く、なにより歌詞の意味ひとつひとつを紐解きながら歌う授業は私が中国語に惹かれた訳を再確認させるようである。
世界各国から集まった同學みんなで中国語の歌を歌うことを奇跡のように感じ最初の授業の日は涙目になっていた。

自分の必修以外にも自由に学べる環境も、エドワードヤンや侯孝賢の作品もある図書館も、大学だからこその本学学生との交流会があることも、バスや学校近くのお店は学割になる学生証も、少しの落ち込みも、学ぶ大きな喜びも、全部全部この学校を、環境を選択してよかったと思う。

3ヶ月という短い期間共に中国語を学ぶために集った7人のクラスメイト、大学という場所、10年ぶりの学生。3ヶ月が過ぎると引き続き学ぶ者もあるがきっとみんなそれぞれの地に散らばってしまう。
1ヶ月だけ部屋を借りたシェアハウスのルームメイトと過ごす時間もあと10日ばかりとなってしまった。
そして一人、また一人と新たに出会い、言葉を交わし交友は芽生え移ろっていく。
青春の瞬きのような時間を刻々と過ごし、次の旅路へと向かうこと。
1年という限られた時間のなか過ぎゆくもの全てを布で包むように大切に抱いていたい。
そう考えるのは、まだまだこの生活を旅行のように思っているからだろうか。

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