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『旅商人モルの遍歴 白翠竜の翼膜』

ひとつの結晶には、無数の物語が詰まっている。
私の手に至るまでにどれだけの旅路をくぐり抜けてきたのだろう。
それはひとの魂に、それぞれ別の傷が刻まれていることとよく似ているものだ。

――旅商人モルの日記より


1、

十年来の親友であっても、知らないことは沢山ある。

モルは日記帳にそう書きつけた。

親友はモルの目の前で皿を抱えて、誰にもこの腸詰め(ソーセージ)とふかし芋(マッシュポテト)は渡さない、奪おうとするならタダで済むと思うな死ぬ気で来いよ、という殺気を放っている。時折このテーブルの横を通り過ぎる給仕や魔導士や商人がマナーを知らない野人の振る舞いに呆れた顔をしていくが、その度にテーブルの下に寝そべった友人の相棒が牙を剥いてグルグルと恐ろしい声で唸るので、文句を言う前に慌てて逃げ出すのだった。

顔の左半分を覆う痛ましい火傷の痕と、供連れにした黒い狼。

そのふたつが揃ったら、自分が馬鹿にしようとしていた相手が手練れの魔導士であり、手を出したらこっぴどく噛まれるであろうことを誰でも悟る。<黒狼>カショウの名前は良い意味でも悪い意味でもこの業界では浸透していた。

「おい食えよモル。お前ぜんぜん食ってねえじゃん」

「カショウと違って私はほとんど魔力を使わないからね。どうぞ」

モルが自分に割り当てられた苔エビの揚げ物(フリット)を押し出すと、カショウは野生動物のように疑り深くそれを観察してから、おもむろに指を伸ばしてひとつふたつと口に放り込む。

苔エビはサン・ソダシの街の名物であり、その揚げ物(フリット)は石商ギルドに提供された酒場<苔がすべて>亭の名物でもあった。確かに美味しいのだが油が多くてモルにはきつい。

「モル、お前さあ」

「言わなくても分かるよ。私は相変わらず胃が弱いのさ。君の理論通り、魔導士としての技量はちっとも磨かれないままだ。それよりも『精霊の残渣事件』ではすごい活躍だったんだって?」

「下手くそか、話題逸らしてんなって。なあ、これから歩くのに腹に何にも入れずに行く気かよ。ばてても俺は面倒見ないからな」
「うん……」

カショウが手を上げて女給を呼び止めた。

可哀想なくらい怯えた彼女は、銀の盆を盾代わりにするように体の前で抱えて、

「なっ、なんでしょう」

と震えた声で言う。

「消化に良いスープをよそってくれ。こいつに。雪蕪と川魚のスープがあるだろ」

カショウが銅貨をつまんで見せると女給は指の先の先でそれを受け取って、逃げ出すように身を翻した。

「君はどうしてスープの内容を知ってるんだ。私たちのメニューには無かったのに」

「匂うだろ。まかないで作ってるんだ。そういうやつがいちばん美味いと決まってる」

「はあ、うん、分からない。それは狼との共感覚なのか」

「いいや。生まれた環境だろ。お前は鼻を使わなくても生きてこれたってだけだ」

「ごめん」

「何で謝るんだボケ」

「君が狼の一家と寒さに震えている間、私は暖炉の前の揺りかごで家政婦に本を読み聞かせてもらっていた」

ふん、とカショウは軽蔑もあらわに鼻を鳴らす。

白濁した左の目が、見えるはずはないのにモルを眼光鋭く射貫いた。

「お前のせいじゃない。俺も別に羨まない。何度言えばわかる」

「すまない。私が私の生まれた環境を苦にしているんだ。君に言うのはお門違いだけど」

女給がたっぷりとよそったスープをモルの前に運んでくる。

チップとして銅貨をもう一枚渡すと、少し大胆になった女給は他に必要なものはないか、とモルの顔を覗き込んで言った。

あまりの顔の近さにモルはしどろもどろになる。

いいや、と答える言葉を喉に引っ付けて四苦八苦していると、足元で黒い狼が一声吼え、それで女中は風のように逃げ出した。

「ありがとう」

「相変わらず女が苦手か」

「そう、だね。多分。女性というか……」

「礼儀知らず、イレギュラー、アドリブが苦手なんだろ」

モルが代金の支払いのつもりで銅貨を二枚カショウの前に置くと、黒狼の魔導士は舌打ちしてそれを受け取らず、モルにつき返す。

「私の分を君に払ってもらうわけにはいかないだろ」

「貸しとかそういうんじゃねえよ。お前の言う通り『精霊の残渣事件』で儲けたからな、奢ってやるってことだ」

「君、そういう蓄財はしないだろうカショウ」

「金勘定から離れろ。気持ちを受け取れ。それに今回はスープよりは儲かるんだろ、モル?」

「の、予定。僕の計算が正しければ」

「なら銅貨一枚くらいじゃ痛くも痒くもない」

「でも」

「ありがとうって言うんだ、そういうときはな」

「ああカショウ。ありがとう」

モルの眼前に腸詰め(ソーセージ)を突き付けてゆらゆらさせながら、カショウは子供のように邪気の無い顔で笑った。


2、

街は、山脈の尻尾に張り付くように広がっている。大陸を北から南へ走るサラコエ大山脈は南端で三叉にわかれ、その終点のひとつがこのサン・ソダシの街だ。

山脈は高く険しく、サン・ソダシの街路からも見えるひときわ鋭く屹立した峰は、まだ夏の半ばだというのに既に雪を被っている。

「見えるか?」

「いや。カショウには見えてるんだね」

「楽勝」

ほら、とカショウが指さした先を目を凝らしてみたが、モルには竜の影も形も見えなかった。分厚い眼鏡を上げ下げして見たが、やはり駄目だった。

同じようにカショウの指さした方を見ている魔導士たち、傭兵たち、ギルドの石商たち、竜学者たち、あるいはサン・ソダシのお偉方も揃って渋い顔をしている。

粗暴な野馳せり(レンジャー)まがいの若い魔導士に能力で劣っているということが、誰も彼も悔しいのであろう。この場で悔しさを感じないのはモルだけか。

当のカショウは、大学魔導士の身分を表すローブの擦り切れた裾を風にあおられるままにはためかせて、いたって淡々としている。

その姿を改めて認識したモルは妙に恥ずかしくなった。同じデザインなのにほつれひとつない自分のローブ。まるで私は仕事のできない魔導士である、と大々的に宣言しているようではないか。商人としてはこざっぱりした身なりが正しいのだろうが、どうも格好悪い気がする。

街壁の上には老いも若きも人々が鈴なりに詰めかけて、まるでお喋りな鳥小屋のようだ。

警備の任務をこなすサン・ソダシの守備兵たちはうんざりした表情でその有象無象を睨んでいる。

サン・ソダシ付近に白翠竜が落ちるらしい、という情報が石商ギルドにもたらされたのは一か月前。そこから檄文が各地に飛ばされ、続々と関係者が集まってきた。

白翠竜は成長にしたがって翼膜を結晶化させる。それを削り割り、人間にも活用しやすいように加工した結晶『白翠竜の翼膜』は希少度が高いうえに、魔力の含有量も高く、加えて白と翠が段々に重なる色合いが上品で美しいということで、高品質なものは貴族階級の護符がわりに好まれていた。つまり、儲かる。

今では竜を追う人々の数は街の人口の倍にも膨れ上がったため、宿屋も酒場も教会も一律にパンクして、出遅れた関係者は街壁の外で野宿する有様である。

守備兵がストレスで胃を痛めても無理はない。

ならば医者と薬草屋は大繁盛だろう、とモルは計算する。

ぱちぱちと心の中で十露盤を弾いてみてから、ああしまった、心労を吸い取るという結晶を仕入れてこれば高値で売りさばけたのにな、と嘆息した。守備兵だけではなく、誰よりも早く白翠竜を捕えて翼膜を刈り取り、ライバルを出し抜くために知恵を絞っている多くの人々に売れたことだろうに。

カショウは山脈の方に投げていた視線を不意に外すと――こういうとき次の動作の気配を感じさせないのも、他人をドキッとさせるのだが――無言でモルを促した。

後について街壁を下ると、

「行こうぜ」

と言う。

「どこに」

「お前の目でも竜が見えるところに、だよ。別に近づくなとは言われて無いだろ」

「そうだけど。私たちだけ抜け駆けするのは気が引ける。山賊も出ると聞いたし」

「おめでたい頭だな。見なかったのかよ、もう山に他の奴らも入ってるぜ?」

「うーん、見えなかった」

「視力回復のためには野菜が良いって言う」

「気をつけて食べるよカショウ。君はお母さんみたいだね」

「げっ、気持ちわる」

手慣れた身振りでカショウは交渉し、街壁の下で角叉鹿(カヅル)を扱っていた商人から手綱付きのを二頭借り受けた。

世慣れている。

モルが想定していたよりも二割も安くカショウは賃料を値切った。

あとで詳しく理屈と勘どころを聴き取らなくてはならないだろう、と思う。

角叉鹿(カヅル)は落ち着かなげに、手綱を持ったカショウに向かって地団太を踏んでいる。二頭の鼻嵐が魔導士の黒い髪の毛をそよがせた。

「黒」

カショウが呼ばわるとその影が盛り上がり、するりと黒い狼に変化する。埋火のような目をした黒い狼。

「怖いらしい。先に行ってくれ」

おうん、と低く答えた影の狼は身を低くして駆け始め、あっという間に街壁の下の門を潜って去って行った。

衛兵が自分たちの間を吹き抜けた黒い風の正体を掴みかねて右往左往する。
カショウの杖の先についたランタンが、狼の疾走に共鳴してからんからんと軽い音を立てていた。

他方、モルは角叉鹿(カヅル)の背に乗るまでに二回やり直す。一回目は鐙(あぶみ)に片足をかけようとしたが届かず、二回目は鐙(あぶみ)を低くして乗ろうとしたら鞍が跨げず、見かねた鹿商が踏み台を貸してくれてやっと乗れた。

カショウはにやにや笑っている。

自分より頭一つ大きなモルが悪戦苦闘するのが面白いようだった。

そのカショウといえば、角叉鹿(カヅル)の首に添えた手を支えにするだけで、軽々と飛び乗っている。かつては鞍も手綱も無い野生の狼や猪を乗り回していたのだから、カショウにとっては当たり前の技術なのであった。

歩かせてみるとモルの操縦に角叉鹿(カヅル)は大いに反発したが、カショウの角叉鹿(カヅル)がすっと先導に入ると嘘のように大人しく従う。

モルはとうとう匙を投げた。

手綱も緩くしてしまい、もう好きなようにしてくれという態度で角叉鹿(カヅル)に意思を伝える。
尻の下から、そんなことは分かっている、という声が聞こえた気がした。


3、

「やあ、あれか!」

モルが手をかざして彼方の色を捉えると、

「巨(おお)きいだろう。何百年生きてきたか」

感じ入った声でカショウが相槌を打った。

山脈に添って竜が舞っている。

その胴は白い鱗で覆われ、末端に行くにつれて淡い翠を帯びた。

白翠竜ゾーカ・ローバイと呼称される老いた龍。

モルは石商ギルドから届いた通達を反芻する。

“……最良の結晶は年老いて地に降った竜のそれだ。
翼膜は年々硬度を増すが、同時に重量負担を強いる。
しかし竜は最期の日まで再飛行を諦めない。故に老竜の結晶は絶望と戦う心に寄り添う力を持つという。
当ギルドは竜が安らいで逝けるよう保護する任務を負う。
志願者は返信されたし”

この辺りの白翠竜は、山脈を越えた東側に広がる平原を繁殖地とする。繁殖期は夏の終わりから秋にかけてというから、ゾーカ・ローバイも恐らくは山越えを試みているのだろう。

しかし、モルが見ている前で老ゾーカは翠色の翼をひらめかせ山肌を翔け上がろうとするものの、頂上には辿り着けず手前で身を返してしまう。
そうして何度も何度も旋回を繰り返す。

「朝見たときよりも高度が下がってる」

カショウが言った。

モルは角叉鹿(カヅル)を少し急かして友人のそれと並ばせる。

「じきに落ちる、ということかな」

「いや。竜はいっぺんに落ちたりはしないから。今日は休んでも明日また飛ぶさ」

飛んで欲しい、というようなカショウの口ぶりであった。

「それにしても不思議なんだが」

モルが話しかけてもカショウは一瞥もしない。ただ青い空と茶色い岩肌の間で羽ばたく白翠竜を一心に見つめていた。

友人がこのような状態になることは良くある。

大学で出会い、初めて爪弾(つまはじ)き同士で渋々食堂で同席した日(本当は別のテーブルで食べたかったがスペースが足りなかったのだ)、サラマンダーの煮つけを興味津々で眺めるカショウは文字通り骨の髄まで味わうまでは一言も発さなかった。

その時にモルは質問を幾つもしたのだが、返ってきたのは生返事だけ。
なるほど、この短い黒髪を突っ立てた奇態な魔術師に対しては、声をかけるタイミングを選ばなければ利益が出ないらしい、とモルは洞察したのであった。

だいたいふたりの友情が始まったのはこの食卓の一件が始まりと言える。

カショウはそのつっけんどんな物言いと影の狼がこわもてであったので、同期生はおろか指導者にすら敬遠されていた。

けれどモルが育まれたアガローネ家には「静かに食べる者は野蛮ではない」という言葉が残っていて、まだ純粋さを失っていなかったモルはその先人の言葉を根拠に、静かにサラマンダーを食べていたカショウを信用したのである。

カショウはカショウで、大魔術師の家系なのに爪の先ほどにしか魔力を持ち合わせないモルのことをその日までは馬鹿にしていたのだが、自分を目の前にしても怖がらず、蔑みもしないと知って少しだけ心を開いた。

「あっ!」

カショウが悲鳴を上げる。

老ゾーカの翠色の翼が岩壁に当たり、光の欠片がこぼれるのが遠目にも見えた。

バランスを崩した白翠竜はそれでも力を振り絞って翼爪と脚で岩壁にしがみつき、こうなったら徒歩で山越えしてやるというようにじりりと体を前に進めている。

「走るぞモル!」

モルがうん、とも、いや、とも答える前に、角叉鹿(カヅル)は草原の流れ星になって走り出した。


4、

白翠竜ゾーカ・ローバイの取り付いた岩壁の下に、色とりどりのテントが張られている。

いかにも高級そうなテントばかり。名の知れた石商の紋が織り込まれたものもある。

見るなりカショウは舌打ちして背を向けた。

こちらの到着に気づいた先行者たちが嫌そうな視線を投げてくる。

「カショウ、一緒にいた方が安全だと思うんだが。もしもの時の結晶の分配が」

「馬鹿」

テントの群集から離れ、彼らの視線の届かない森の中で角叉鹿(カヅル)を止めると、カショウは口笛を吹いた。

たちまち木立の影を縫って黒い狼が現れる。

怯えて棹立ちになった角叉鹿(カヅル)の背に、モルは必死にしがみついた。

狼はカショウの手に鼻を押し付け、カショウは狼の匂いを嗅ぐように顔を近づける。するとそれで何かの情報交換が終わったらしく、狼はつるりと陰に溶けた。

「やっぱり山賊が集結してる。サラコエの南は食い詰めたやつが多いからな」

「彼らも白翠竜を狙って?」

「違うだろ。もっと安全な財布がテントを張って待ってんだ。あいつらとは別行動するぞ」

「任せる」

影の狼が収集してきた情報によれば、山賊は森深い北側に結集しつつ、徐々に南へ進もうとしているところだという。

ならばモルとカショウはテントの群れた場所よりも南側に位置どった方が、襲撃に気付いた時に真っ先に逃げられるぶんまだ安全だ。

山賊のことを伝えた方が良いのでは、とモルは思ったがカショウにたしなめられる。どうせ俺たちの言うことなんて聞かないし、山賊を追い払えると思ってるからな、と。

それも道理だと感じたので、モルは無益なことと勘定して納得した。

「落ちるなよ、モル」

角叉鹿(カヅル)の鼻を南に向けてふたりは獣道を探しながら森の中を進む。カショウの前に時折影の狼が姿を見せ、迷いのない足取りで先導をしていた。

「カショウ、何処まで行くんだい」

「南の尾根」

見上げると暗い森の樹冠を透かして、覆いかぶさるように山体がそびえている。

森の道はじりじりと上向きの勾配に転じ、足元にはごつごつした石が目立つようになってきた。

影の狼は迷わずに真っすぐ歩を進めている。

モルがどう見てもその先道などなく、あるのは切り立った岩壁だけだ。

「ここを登るのか」

「そのために角叉鹿(カヅル)を借りて来たんだ」

カショウが、ホウ、と一声気合をつけると角叉鹿(カヅル)は器用に前脚を上げて岩壁に第一歩を印し、それから腿(もも)と後肢をたわませるほどに力を込めてほとんど垂直な岩壁を上がっていく。

下から見ると壮観であったが、モルはいざ自分の番となると尻込みした。

ぱらぱらと土が降ってくる。

カショウの角叉鹿(カヅル)が通っただけで岩壁が一部剝落して崩れてしまっているのだ。

技量の差を考慮に入れると、これは登り切るより落ちる確率の方が高そうである。

しかし角叉鹿(カヅル)は乗り手の怯えになど頓着せず、勇ましく岩壁に蹄をかけた。

弾むように岩壁を進んで行くその間じゅう、ずっとモルは角叉鹿(カヅル)の首にしがみついて目を閉じ、祈っている。あらゆる神と精霊に、あるいは結晶の加護に。

そんな調子だったから、すっかり岩壁を上がり切って角叉鹿(カヅル)が止まっているというのに、モルはしばし気づかなかった。
恐る恐る目を開けると、もう辛抱ならんというようにカショウが声を出して大笑いする。

「ひどいなカショウ」

「ひどいのはお前のへっぴり腰だろ!」

わはははは、と白い歯を見せ、そっくり返って笑い転げる魔導士の無邪気な様に、モルは毒気を抜かれて怒る気も起きなかった。

よろよろと背中を伸ばすと、角叉鹿(カヅル)が鼻を鳴らす。ずいぶんと馬鹿にされていた。

見遣ると老ゾーカはまだ気迫の登攀を続けている。

いや、もう意地でしがみついているだけ、と言った方が正確かもしれなかった。

サン・ソダシを出てきたのは昼前だったが、日差しはもう傾き始めている。
夕暮れに近づいた陽光が白翠竜の背を舐め、橙に染まった竜の姿が何とも言えない哀愁を醸し出していた。既にもう白翠竜としてのゾーカは終わってしまった、とでも言うような。

「ゾーカ・ローバイはどうする気なんだろうか」

モルが呟く。

「日が落ちる前には飛ぶはずだ。あそこで一晩過ごしても凍えるだけだから。老竜は、そういうことを良く知ってる」

「カショウ。私はずっと悩んでいるんだが」

モルは山々に手をかざした。

「何故、ゾーカはあそこを飛び越えようとしているんだ。例えば私たちが今いるこの尾根の方がずっと低い。東の草原地帯に出るだけなら、無理をせずとも通過できるはずなのに」

わかってねえな、とカショウは言う。

その声音には憐れみと憤りが含まれていて、モルは虚を突かれた。

「プライドってものが、あるだろ」


5、

一番星が冷え始めた空の頂点に輝くころ。

モルとカショウは尾根に吹き始めた風を避けるため、少しだけ下った木立の中で角叉鹿(カヅル)に身を預けて暖を取っている。

たまに影の狼が現れてカショウに鼻面をすりつける。

カショウの角叉鹿(カヅル)はすっかり狼に対して警戒をしなくなり、平然と頭を下げたままだ。

一方、モルの角叉鹿(カヅル)は狼の気配を察する度におどおどと不安げに身を揺らす。扱う手の差だろう。これに関しては絶対に敵わないなと、モルは思った。

火は熾さない。

テントも張らない。

山賊の目を少しでもすり抜けておきたい。

予想に反してゾーカ・ローバイは黒々とした闇の塊になってまだ岩壁に取りついている。そこで果てたのではないかとカショウですら疑い始めた。
ゾーカがいつ飛ぶか、ふたりは無言で見守っている。

何の契機があったのかは分からない。

モルが南の星座を眺めて星の名前を反芻していた時、不意に岩壁に動きがあった。

カショウがさっと立ち上がりモルを呼ぶ。

モルが視線を上げるとちょうど、ぐらりと傾いだ白翠竜が岩壁を蹴り、再びの飛翔を試みたところであった。

ゾーカ・ローバイは高度を著しく落としながらも、翼を大きく広げて滑空する。老いたるとはいえ美しい白翠竜のシルエットが夜空に影を落として去って行く。

テントが集っていたあたりから、落胆のどよめきが上がった。

カショウの憎しみのこもった大きな舌打ちが木立に響く。

「あいつら、竜が死ぬことだけを待ってやがる」

モルは目を伏せた。

友人の怒りは真っ当なものであるが、商人としてゾーカ・ローバイの美しい死を待つ心はモルの内側にもあることが否定できず、ならばカショウの怒りに同意する権利はないと、そう恥じたのである。

ひと呼吸の間をおいてもう一度、違うどよめきが上がった。

それは悲鳴であった。

金属が打ち合う音、猛る獣のような声。

「立てモル。山賊が下の奴らを襲ってる」

人々の視線が老ゾーカに釘付けになり、気の緩む一瞬を山賊たちはついたらしい。

確かにカショウが警戒するだけのことはある。

「助けに行かないと」

「ふたりで行って何か意味あるか? 山賊は三十人からいるんだぜ」

「そんなに……?」

「黒の鼻は確かだからな。ま、テントの奴らは護衛をつけてただろ。だったらむしろ俺らが襲われる方を心配してくれ」

カショウは、いつの間にか傍らに座っていた影の狼の頭を撫でた。軽く目を閉じ、聴覚を研ぎ澄ませている。風に乗って下から響く剣戟の音を聞き分けているのだろう。

「お前は乗っとけよ。またもたもたされちゃかなわないから」

モルが手綱を引くと角叉鹿(カヅル)が嫌々立ち上がった。

良い具合の岩を見つけて踏み台にし、何とか鞍によじ登る。

その時、少しだけ目線の高くなったモルは空の異変に気付いた。

「カショウ!」

「は、何だよ大声出すな――」

「逃げよう、竜が戻ってきた! しかも落ちるコースだ!」

モルは必死で手綱を煽(あお)る。

カショウは待たなくてもモルより反応良く対応できるはず。

異変を感じたモルの角叉鹿(カヅル)が素晴らしいスピードで三歩、逃げられたのはそこまでだった。

南の空から力尽きた老ゾーカの巨大な竜影がぐんぐんと迫ってきて、モルとカショウが先ほどまで暖を取っていた木立めがけて墜落する。

欲しい、と思っていた翼が今は死の形をしてモルに迫ってきた。

咄嗟にモルは角叉鹿(カヅル)の背から転がり落ちる。

地面に伏せたモルの拳ふたつ分くらい上を、信じられない質量のものがかすめて行った。

山そのものが砕けたかのような凄まじい地響き。

腹ばいになった地面が、ぐずり、と崩れる。

次の瞬間、大規模な陥没にモルは巻き込まれていた。


6、

「■■■、■」

「――■■」

耳が壊れたかのかと思う。

カショウが喋っているのだが、どうしたことかモルには言葉として聞き取れない。むにゃむにゃと、人語ならざる言葉にしか響かないのである。

頭を打ったせいかもしれなかった。ずきずきする。帰ったら医師のもとへ行くこと、とモルは脳裏に書き付けた。頭に傷を作ったのを見たら母上は卒倒するだろうから、しばらくは故郷には帰れない。

鼻に土の匂いがついていて不快だった。焚火の匂いもする。

概算して一日分の気力を使って寝返りを打ち、目を開けると空が見えた

星々の輝く空が。眼鏡が割れなくて良かったと安堵する。

音もなく狼が忍び寄ってきて、モルの頬を舐めた。

「ひゃっ」

驚いて起きると、カショウが、

「やっと起きたな。モヤシ」

と言う。

随分と高いところから声がすると思ったら、カショウは何と老ゾーカの頭の上に乗っていた。

空の高みから落ちたというのに白翠竜は元気そうに見える。

「■■、モル」

カショウが例の妙なむにゃむにゃ言葉を発した。

「えっ、何だって?」

とモルが聞き返すと、何故か老ゾーカが返答する。

「モル■、■、■■■」

「■!」

「ああ分かったぞ、君、それは竜語なんだなカショウ」

「そうだ。お前も竜語のクラスを取っておけばよかったのに」

「竜に結晶の販路を開く見込みは薄かったからねえ」

モルは服についた土を払い落としながら立ち上がった。

どうやらここは地の底らしい。すり鉢状に陥没した山腹の穴の中、というところだろう。

老ゾーカの頭がやっと穴の上に出るくらいの深さがある。モルを縦に何人分並べなくてはならないのかは、あまり計算したくなかった。

角叉鹿(カヅル)の姿は見えなかったが逃げてしまったに違いない。

「■■がお前の事を面白がってるよ、モル」

「今のは白翠竜の名前なのか」

「そう。ゾーカ・ローバイっていうのはあくまで人間側がつけた認識呼称だから」

「私のどの辺が面白いのかな」

カショウがまた流暢な(恐らく)竜語で老ゾーカに語り掛けた。

焚火に照らされた竜は、翠(あお)い顎をほんの少しだけ開いてそれに答える。

見れば見るほど、驚異的な生き物だった。鱗はモルの手のひらよりも大きく、頭はカショウが跨ってもまだもうひとり載せられそうな余裕があり、結晶化した翼膜は闇夜の内にとろけるような翠と白の色合いを重ねて輝いている。

「お前の体から星喰の気配がするってさ」

「星包結晶を着けているからかな」

「そんな物騒なもの持ってたか? 一緒にいた俺に分からないはずがないのに」

「魔力遮断容器に入れてあるからカショウには感知できないはずだ。このタリスマンがそうなんだけどね。それでも竜には分かるということなんだな。にわかには信じられない能力だ。学会に報告が要る。カショウ、一緒に書いて原稿料を貰おう」

「待てよ、そんなことよりどうして分かったのか聞いてみたい。■■■■■■、■■■■? へえ、凄いなそれ!」

「何て言ってるんだ」

「昔々、星喰と戦ったことがあるんだってさ。その時に欠片を食ったから長生きしたんだって。で、お前の体から星喰の匂いが出てるらしくて、気になって下りてきたら着地に失敗したらしい。年甲斐もなく」

老ゾーカの頭がぐいっと下がってモルに近づいてきた。その上でケラケラとカショウが笑っている。

対してモルは、おののいて後ずさりするばかりだった。

半開きになった口の中に見える牙の長く鋭いこと、噛まれたら痛いと思う前に死んでいるだろう。ふうーっ、と鼻から吹き出した息だけでモルは飛ばされてしまいそうだった。

「モル、乗って良いよって言ってるぜ。お前のお陰で気持ちが若返ったからまた明日から飛べるだろうってさ。ほら、掛け値なしの貴重な体験だろ。乗れよ」

カショウがモルに手を伸ばす。

渋々モルがその手を握り返すと、予想外なほどの膂力で引き上げられた。

「軽い!」

「君の力が強いんだと思う」

「いいや、明日からは皿一枚ぜんぶ食い終わるまで許さん」

「困ったな。契約解消するか」

モルが角を掴むと、老ゾーカの頭がゆっくりと上がり始めた。

夜空が近づいてくる。

澄んだ山風がモルのローブをはためかせたが、竜の体温のお陰でさほど寒くは感じない。

月がサラコエ山脈の高峰に縫い留められて、神様のブローチのように天頂で止まっている。

とても美しかった。

「ああ綺麗だ」

「お、モルも金勘定以外の感想を言えるんだな。安心した」

「失敬な」

カショウは竜の頭の上にいるというシチュエーションに大興奮している。竜の額を触ったり角に頬ずりしたり、まるでカショウが白翠竜の仔竜になってしまったかのようだった。

モルには友人のそんな姿を嬉しく思う。

<黒狼>と言われる無頼の魔導士が、自分の前で無防備な姿をさらけ出してくれたことを。

ただしそれがすべての幸せをぶち壊しにしたことを、後々までモルもカショウも忘れないだろう。

ひゅっ、と風が唸った。

老ゾーカが雷鳴のように轟く悲鳴を上げ、頭を振りたてる。

モルは角にしがみつく。

「ちくしょう!」

カショウが叫んだ。

「俺が馬鹿だった! すまない、すまない■■!」

ぐらりと後ろに体がのけ反る。

竜が倒れているのだ、と分かったがモルには何もできない。

その時モルの頭の中によぎったのは、拡大したばかりの結晶販路のことと、今回のサン・ソダシへの旅の為にした少々の借金、それから白翠竜の翼膜結晶の最高級品をこの目で見る前に死んでしまうのだ――という走馬灯であった。

そんなモルの襟首をカショウの左手が掴んだ。

「手え放せ、跳ぶぞ!」

素直に腕の力を抜きカショウと共に跳ぶ。

ほんの一瞬の浮遊の後、何とか受け身を取って地面に転がった。


7、

首筋に鋭い金属の当たる感触と言うものは、まったく気持ちの良いものではない。

テントに集っていた人々から奪った品々が無造作に積み上げられているのを見ながら話すのであれば、余計に気分が悪い。

モルは遠目にもそれとわかる重厚な彫り出しのある長櫃(チェスト)や、透けるほど美しい火炎蝶のマントなどを山賊が泥だらけの手で触っているのにむかむかしている。

どれだけの価値があるのかも分からないのだろう!

盗賊の女首領が口を開く。

「さて、お前たちはサン・ソダシに集まった者たちと同類か」

今にも暴発しそうなカショウに目を遣ってから、モルは、そうですと答えた。

モルを見張るために――あるいはこれから始まる尋問の為に横に立った山賊がぴたぴたと、刃こぼれした剣の腹でモルの首を叩く。

嘘を言ったらすぐに切り落とすぞ、と脅していた。

「私が結晶商人のモル。こちらは友人兼護衛。めぼしい物は持ち合わせておりませんが」

「それはこちらが判断することだ」

泥だらけだが物は良さそうな鎧を着こんだうら若き女傑は、ばっさりと言い捨てる。

「お前たちの価値は、お前たちが話すことではない」

フードの奥から覗く青く険しい瞳は彼女が腰に佩く長刀さながら硬質に光っていた。

山賊というには凛とし過ぎている、とモルは感じている。

ゾーカ・ローバイの目を射貫いた矢を放ったのは恐らく彼女だ。

その技もまた一介の山賊という肩書にはそぐわない。

「ナイティア様、竜の翼にロープを掛け終わりました」

「よし。この者たちを見張っておけ」

「分かりました」

女首領のあとを、丸太のような腕をした偉丈夫が引き継ぐ。

モルは全力で頭の中に仕舞った知識を引っ掻き回していた。

これでも一応、魔術世界では名の通った名家の出である。魔法の素養が全く望めないと判明し、家族のことごとくにそっぽを向かれるまでは、優秀な兄姉たちと同じ英才教育を受けてきたのだ。

近年のサラコエ山脈南部地帯の政治情勢はどうだったか――。

「くそ、お前ら殺してやりてえ」

カショウが言い、頬を打つ鈍い音が響く。

「やめてくれ」

偉丈夫はモルの制止に何も反応を見せなかった。野卑に笑うわけでもなく、動揺するわけでもなく。

ぐるるるる、と闇の向こう側から竜の呻き声が聞こえた。

まだ白翠竜は生きている。目を射られたショックでしばし気絶していただけかもしれない。ならば勝ち目はある。

ロープを掛けたと言っていたが、そんなものは暴れる竜の前では無力だ

「無駄なことは考えるな」

と、眼前の偉丈夫が噛んで含めるように言う。

こちらの計算式を解かれたようで、意表を突かれたモルはさっと顔を上げた。

暗い森を背景に鍛え抜かれた筋肉の塊が仁王立ちしている様は隙が無く、だらしない山賊の一味というにはやはり不釣り合いである。

「ロープは特別製だ。結晶を籠め、封呪の印を結ぶ配置で縛ってある。竜でも千切れん。お前たちならなおさらな」

「成る程」

「わかったか? わかったら黙って座っていろ」

モルは返す言葉も無く、ただ目を逸らすことを相槌をとした。

王手。

腕が自由であるならば、モルもカショウもまだやりようがある。これでも魔導士の端くれだ。

しかし巧妙なロープワークで封じられた今、ふたりが出来ることは何もない。陣も書けない、印も組めない、魔力の触媒にも触れないのだ。
だが何か、何かないだろうか……。

その時どこかで金属の触れ合う音と、どさりと重い物が倒れる音が響いた。

「うわ、燃える!」

モルは物思いから我に返る。

声のした方に目を遣ると、分捕り品に松明が倒れ込んで月絹織りのテント布に火がつき、そこから次々に燃え移ろうとしているところだった。

「くそ、間抜けども何をやっているんだ。おいお前たち、手伝って来い!

偉丈夫の命令で、モルとカショウの見張り番が駆け出していく。

その隙を襲撃者は見逃さなかった。

木陰の闇から飛び出した黒い狼が偉丈夫の顔面を引っぱたき、闇に溶ける。

「うお!」

たたらを踏んだ偉丈夫が周囲を見渡す間に、また松明がばたばたと倒れていく。

モルには状況が飲み込めた。影の狼が助けに来てくれたに違いない。
ちらりと振り返ると、カショウがニヤッと笑った。

騒ぎを起こす前に影の狼に切らせていたのだろう、ロープを一足先に解いたカショウがナイフでばさりとモルのいましめを解いてくれる。

「まて、お前らいつの間に」

こちらに掴みかかろうとした偉丈夫の足元を狙って影の狼が牙を剥き、またさっと闇に隠れる。夜の森の中では狼の姿を捉えることは容易ではない。

「ちくしょうめ、どこにいやがる」

偉丈夫が歯噛みしてきょろきょろと周りを見渡す間に、今度は離れたところに立っていた山賊のひとりが首から血を噴いてばったりと倒れ込んだ。

「俺が引きつける。やることは分かってるな? 得意分野だろ」

「ああ。頼むカショウ」

「頼まれた。さあ、派手にやってやる!」

カショウが魔術の詠唱を始めると、それに気づいた偉丈夫が組みかかろうと突進した。

その脇腹に影の狼が頭突きを食らわせる。

吹き飛んだ偉丈夫はしかし、その太い腕で豪気にも狼を抱え込んでいた。

それでもカショウは動揺しない。相棒の稼いでくれた時間を無駄にしないために、出来ることをする。それがひとりと一匹の信頼感。

魔力がカショウの杖に掲げたランタンの内側に凝縮されていった。炎が明るく大きく膨れていく。

「揺らせ」

とん、とカショウが杖を地に突き立てると、山が応えて大きく身震いする。

その先端からびしりと地割れが走り、幾人かの山賊の足を飲み込んだ。

悲鳴の間をモルは駆ける。全身全霊で一歩を刻む。

(走れ、走れ私。もっと速くだ!)

とろくさい自分が情けなくなった。それでもカショウへの信頼があるから前へ進める。

この騒ぎの中でも、きっとどこかで女首領ナイティアは冷静に弓を引き絞っているだろう。モルの背中を的にして。

それでも天秤の片方に竜の目を射貫いた矢に心臓を撃ち抜かれることを、もう片方にカショウの反射神経の鋭さを置いたとして、モルの心の皿はカショウの側に軍配を上げた。

地揺れで足元がぐらつき体が傾いだそのすぐ横を、矢が風を切って突き抜ける。一文字に裂くような鋭さはナイティアのそれで間違いない。

やはり計算は正しかった。モルが避けられるようにカショウは一手先を読んで魔法を動かしている。

焼けるように肩口が痛かったが、そんな泣き言を連ねている場合ではない。

次の矢を避けられる確率は、カショウが優秀な魔導士であることを含めて算定しても一割もなさそうである。

白翠竜の頭に駆け寄った。

結晶の魔力の籠ったロープにがんじがらめに捕らえられ、その目は憤怒に燃えている。

ロープの結びの形をモルは一瞥の内に見て取った。何処を切れば断ち落とせるのか。

モルは首に下げたタリスマンの内にしまってあった星包結晶を取り出した。たちまち低く震えるような魔力が結晶からモルの手の中に忍び込むように広がる。

「浅学ゆえ竜語が離せないことを悔しく思います。ですが、今あなたを解放してみせる。ほんのひと時の輝きだとしても」

老ゾーカは瞳を動かし星包結晶を見、わかった、というように微かに口を開く。

その口にモルは星包結晶を投げ入れた。

続いて別の結晶を取り出すと、なけなしの魔力をそこに注ぎ込む。

共鳴が始まった。

魔導士としての才はほとんどないが、ただひとつだけ、結晶との交感力が高いことだけが特筆している。

モルはモルという器からその瞬間だけ抜け出して、

「射よ、同族にして同族にあらざる者を」

差し出した指先から放たれた光の矢は、ロープの結び目のうち最も脆弱な結晶を一閃の内に砕いた。

老ゾーカが体中に星包の力を漲らせて残りのロープをぶちぶちと引きちぎる。

誇り高い咆哮が闇に轟いた。

山賊たちはみな武器を取り落とし、算を乱して我先にと森の中に飛び込んでいく。

「待て、踏みとどまれ!」

女頭領の叱咤も空しく、残ったのは彼女と、カショウの狼と組み合っていた偉丈夫のたったふたりだけだった。

老ゾーカが再び吼える。

その鱗は全盛期の力を取り戻したかの如く、淡く白翠に輝いていた。

大きく開かれた喉の奥から青白い炎が迸って夜空を焦がす。

「ナイティア」

モルは肩で息をしながら呼びかける。

結晶の魔力を開放するたび体力がごっそり削られるのだ。

カショウの言う通り、もう少し物を食べなければならないのだろうか。すぐ胸焼けするから野菜だけで暮らしたいくらいなのだが。

「ナイティア。あなたに提案があります」

竜の力が巻き起こした風が、女頭領のフードを押し下げていた。

露わになった顔にモルは見覚えがある。それもこれも幼き日に名士名鑑を片っ端から暗記させられたからだ。

「商人如きが提案だと?」

「そうです。ナイティア騎士団長」


8、

老ゾーカが果てたのは山賊を撃退したその夜のこと。

最後のひと暴れをするために星包結晶から力を引き出し、代償に命を落とした。それは老ゾーカも承知の上だった、と信じたい。星包結晶を見せたときの竜の目はすべてを悟っている風だったから。

カショウがやられたお返しにと、ナイティアとその片腕の偉丈夫をロープで嫌がらせのように縛り上げていた。

「騎士団長」

「もうその座にはついていない」

「ですが、諦めてもいないということですね?」

苦虫をかみつぶしたような顔でナイティアはそっぽを向いた。

「何だって?」

と言ったのはカショウである。

「山賊が騎士団長だって?」

「ああ。現役時代にお会いしたことは無いが、私の記憶が確かなら名士名鑑のゼロリア国の項目に載っておられたはずだ」

「メイシメイカン、ねえ。今は山賊名鑑に載せなきゃならなくなったてわけか」

カショウは小馬鹿にした様子で、杖を回して肩にかけた。
かしゃん、とランタンの揺れる音がして、影の狼がカショウの足元に現れる。敵意もあらわに鼻に皺を寄せて怒声を発した。

ただしナイティアも偉丈夫も小動(こゆるぎ)もしない。

その肝の据わりようはやはり騎士団長のそれと確信の持てるものであった。

「ゼロリアでは数年前、王位を巡る謀略の果てに第一王子が殺された」

次に第二王子が毒殺され、第三王子は行方不明に。

三人いた王の直子はそれで全滅し、残る王位継承者は私生児ながら王室に入り込んでいた第四の王子だったという。

誰もが犯人を確信したが、こうなっては糾弾することもできない。
しかし、とナイティアは言う。

「第一王子は生きておられるのだ。大怪我を負われたが埋葬の直前に息を吹き返された。それで私たちは御身の安全を確保するため、王子を連れて国外へ出た」

けれど第四の王子とそれを取り巻く人々は着実に王宮内での地位を固めている。

ナイティアが「王子は生きておられる」と発表したところで、反旗を翻す勢力がどれほど残っているものか心もとなかった。

最早ゼロリアに血の正当性という正義は無い、とナイティアは語る。

その熱っぽい言葉を聞きながら、カショウは大あくびをした。

「それで、ナイティアさんは再起の為に資金がご入用、ということですね」

友人のあくびに騎士団長の眉がきりりと吊り上がったので、モルは急いでそう言う。

「我が王家の紋章は竜。翼膜結晶が莫大な富を生む白翠竜がこの地、この時期に落ちるならば天の助けであろうと――」

「――で、いくらご入用なんでしょうか?」

「それは、あるだけあったほうが……」

「あるだけあったほうが」

モルはその言葉が世界で一番嫌いであった。

「あるだけあったほうが、と仰る?」

「そうだろう。武器も人も集めなければならない。莫大な資金が要る。何を怒ってるのだ」

その言葉は火打石のようにモルの心を燃え上がらせた。

有体に言って腹が立ったのである。

資金繰りというものを軽視して没落する貴族の如何に多いことか。そして没落するついでに給金を止め、使用人を路頭に放り出し、飢え死にに追いやり、挙句の果てには名誉がどうこう言って戦争を起こす。

商人としては見逃せない悪と言えよう。

「甘い! 甘すぎる! いいですかナイティア騎士団長。計画と資金は具体性が肝要です。あればあるだけ? そんな概念は幻想です。お金には際限があります。計画にもです!」

モルの声に、カショウはうんざりした顔で振り向いた。

「あーあ、逆鱗に触れたな山賊団長」

「何だって?」

「金の話になると長いんだよ、こいつ」

ぽかんとしているナイティアの眼前で、モルはローブの内側にかけていた鞄の中から日記帳を取り出した。

魔法道具のひとつ、空間飛ばしの鞄。

その容量のすべてをモルは日記帳に費やしている。

ついでに取り出した羽ペンを振り回しながら言った。

「まず正規の結晶取引を行った経験のある方は御身内にいらっしゃいますか? まったくいない? どういうことです」

「我々は正体を明かすわけにはいかないのだぞ、商人殿」

「いいですかナイティア騎士団長、正規の売値を知らずにどう取引をするのです。どれだけ買いたたかれても分からないということですよ。貴方には王子を盛り立てる責任があるのでしょう。ならば知識こそが力! 例えばこの白翠竜の翼膜結晶の品質を最高度と換算し、全て売ったとしてこのくらい、そこから加工賃と運搬費と品質保証検査費用が差し引かれまして――」

「俺は寝るからなモル。朝になったら起こしてくれよ」

「分かった。で、あなたたちの計画を教えてください。ともかく武器を買う? ザルか!」

「あーあー」

カショウは影の狼に頭を預けた。

狼は、ハナシナガソウダネ、オレモネタイ、と匂いで語り掛ける。
寝たら良いんじゃね、とカショウは答えた。

「それでご提案なんですが騎士団長、この金額を元手にしまして――」


9、

拝啓 異世界の研磨師殿

この度ご紹介する結晶は『白翠竜の翼膜』というものです。

サンプルをお付けしましたので存分に吟味していただければと思います。

今までの結晶とは風合いが違いますので、そちらの世界の方々にもきっと新鮮に受け止めていただけることでしょう。

最高品質のものを手に入れることが出来ましたが、訳あって手早く売りさばかなければなりません。

あまり手元に置いておくと足がつきそうなので。

それにしても効率よく利益を追い求めるというのは難しいものですね。

ひとには夢と言うものがあり、大儀という看板を掲げたがる。

その為に不利益をまき散らすことになっても、です。

商売人は無情であると言われますが私はそうは思わない。

利益を得るということが夢の助けになることもある。

そして不利益を減らすことは、時に誰かの不幸を減らすことと同一ではないでしょうか?

さて次回のご連絡について、ひとつだけお願いしたいことがございます。

いつも通り魔術師会館留めの通信を送っていただいて構いませんが、ゼロリア王国経由のルートは選ばないようにしてください。

何故かと言う理由は説明しづらいのですが、販路拡大のための交渉中とでも思っていてください。

あまり探られたくない腹もあるのです。

それでは、また。

                                敬具
                            Mol Agarone



著者:東洋 夏
Twitter:@summer_east

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