【海に眠るダイヤモンド】炭鉱の島の暮らし②
福山雅治さんは、自身が被爆2世であることを公表していらっしゃいますが、ワタシも同じく被爆2世です。母は被爆者手帳を持っています。
昨日放送された【海に眠るダイヤモンド】は、長崎の原爆、キリシタンの事を通じて、色々なことを突き付けられた回でした。
放送後のX(旧Twitter)などを見ても、戦争への虚しさや憤りを感じた人、キリシタンや信仰について感じた人、百合子・朝子の登場人物に感情移入した人など、感じた事は様々でした。それでも何か大きな一石を投じた回だったようです。
冒頭で記したように、ワタシは被爆2世であり長崎出身であるため、思う事が交錯しました。今日は少し気持ちを整理する意味も込めて記していこうと思います。
広島に続き2度目となる原爆投下の地が長崎市です。母は当時5歳くらいだったようなので、ドラマの中で百合子が被爆した時と近い年齢だったのではないかと思います。爆心地の中心部ではなかったので、母のお母さん(祖母)と母を含む姉妹兄弟たちは、命は無事だったようです。
ワタシの母は、当時の事について語りたがりません。ワタシが小学生の時、夏休みの課題で身近な人から原爆の事や戦争の事について、話を聞いて感想をまとめるという必然性があり、1度だけ話してくれたのが、これです。
母より7歳年上のお姉さんは、その日たまたま朝から具合が悪いと言って学校へ行かなかったそう。昨日の百合子が原爆投下の当日、長崎の教会に『何か行きたくなくて』と言っていたけど、子供ってそういう直感みたいなものが鋭いんだろうなと思いました。母の姉は、学校を休んだおかげで助かったからです。
投下直後、家が倒壊したもののお母さん(祖母)が「(自分が)いいというまで外に出ないように」と言って様子を見に外に出たそうなのですが、子供心に何が起きたのか気になり、姉の目を盗んで母は外に出てしまったそう。そこで目にした景色は、とてもとても言葉に出来ない、ショックと恐怖で立ちすくんでしまう光景だったようです。
当然、多くの友達も犠牲となって失いました。母未だに、あの時の事は語りたがりません。思い出したくないと言っています。そして「戦争は嫌い」と言います。『戦争はダメ』ではなく『嫌い』という感情です。忘れる事はできない記憶なのです。語り継がなければならないという使命は、申し訳ないが自分にはできないとも言います。広島・長崎にとって原爆投下は、そういう一生心に傷を闇を残す出来事なのです。
昨日、百合子が朝子に意地悪ばかりをしてきた背景の複雑さ、被爆者になってしまった自分自身のカラダの不安、姉を亡くし、被爆によって病にふした母、やり場のない苛立ちをぶつけてしまっていたもの悲しさを感じました。でも、もし当日百合子が長崎へ行くことを逃れ被爆せずに済んだとしても、姉を亡くし、ひょっとしたら母も同時に亡くしていたかもしれず、その後悔の十字架を背負う事になっていたかもしれないですよね。
そしてもう1つ、昨日の百合子に大きな影響を及ぼしていたカトリック信仰。長崎と言えば、キリシタンの歴史です。豊臣秀吉によるキリスト教の迫害。26聖人の殉教(処刑)始まる、隠れキリシタン、カトリック信仰の歴史です。キリスト教と言ってもカトリックとプロテスタントがありますよね。
ワタシも詳しいわけではないですが、教会で教えを説く方がカトリックだと【神父】、プロテスタントだと【牧師】と呼び名が異なります。
【神父】は神に仕え、神の子(信者)全ての父となるため結婚はできないと聞いたことがあります(牧師さまは結婚が許されているそうですよ)。
長崎にはカトリックを信仰する人が多いです。そして日本一島が多い県ということもあり、隠れキリシタンの地でもあります。
ワタシが生まれ育った島にも、当時ワタシが知ってるだけで4つの教会がありました。端島より大きいとは言え、島に教会が4つは大人になってからびっくりしました。子供の頃は神社仏閣の類と同じ感覚で見ていましたし、仏像よりもマリア像の方がキレイとか(笑)そのくらいの感覚でしたので。
ワタシが住んでいた島だけでなく、近隣の小さな島にでさえ教会を思わせる建物があったので、長崎の至る島々にたくさんの教会があったんだと思います。全てカトリックのキリスト教ではないでしょうか。長崎にカトリック信仰が根強いわけです。
百合子の母に見られたように、カトリックの方が教えが厳格で信仰する人も熱心です。あくまで個人的な印象です。ワタシの友人にもカトリックを信仰しているクリスチャンが数名います。先祖代々から受け継いでいるのです。ワタシ自身は無神論者(どっちかというと仏教徒)なので、友人の親御さんに会った時などは、よくカトリックの教えを通して日頃の行ないや神様の救いなどについて話をされ、洗礼を勧められたものです。
お互いに悪気はなかったのですが、ワタシはカトリックを信仰する友人の親御さんへ「信仰しなければ救わないというのであれば、ずいぶんと心の狭い神様なんですね。それば人間の損得勘定に基づき作り上げられた神様にしか思えない。神様は寛大な心で全てを受け入れ、あまたのあらゆる人を救ってくださるから神様なのではないのか?」と言ってしまった事があります(洗礼の勧めが面倒でつい)。
最近もカトリックの友人へ「神様がいるのなら、どうして戦争はなくならないの?どうして罪なき子供が犠牲になり続けるの?物心つかない乳児であっても信仰しなければ救ってくれないの?」と問い詰めてしまったことがあります。友人が悪いわけではないのは分かっています。友人は「それは。。。」と言葉を詰まらせた後「私も毎日神様へ問うているよ。どうして幼き弱き者を戦争から救ってくれないのかって」と答えただけでした。
ただ百合子同様に「神様はどうして!」という気持ちは、ワタシには分かる気がします。
昨日の百合子の言葉で印象的だったのが「奇跡は人間が起こすもの」ということ。そしてさだまさし演じる和尚が言った「神も仏も何もしない」という言葉。とかくワタシ達は、神様(キリスト教・仏教関係なく)にはお願いごとをし、ご利益や何かを起こしてくれることを期待したり、求めたりしがちですが「神も仏も何もしない」のです。人の心のよりどころや、生き方の道標であるだけなのでと思います。
百合子が悟った「奇跡は人間が起こすもの」。これが全てなんだと納得の言葉でした。野木さん流石です。来週も楽しみです。