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かたより思考
ぼくは鳥取県の琴浦町というところで、愛光流からだと心整体という屋号で整体をしています。
愛光流からだと心整体では、単に整体をするだけでなく、他にもいくつかのメニュー(四柱推命鑑定や風水鑑定、各種講座やコンサルテーションなど)があり、会員さまに向けて、会員さまのために行っています。
中でもやはり愛光流からだと心整体には、整体を受けに来られる会員さまが多く、その他のメニューに比べますと、大部分が整体の会員さまです。
まぁ整体というふうに名乗っているわけですから、整体に来られる方が一番多いのは間違いではありません。
メニューの名は、整体操法個人指導といい、会員さまに整体操法を行い、生活の中での注意点や提案などをお話させていただいています。
そのような日々のサービスを考えていますと、愛光流からだと心整体では、単純にお身体を調整して痛みを緩和するといったものではないなと思っています。
むしろ来られる会員さまの、メリットになるように、そのお身体を通じてお伝えできることをお話させていただく機会だと思っています。
愛光流というツール、愛光流という翻訳機を使って、ぼくは世の中に何を伝えたいと思っているのだろう?
何を言いたいと思っているのだろうか?
みなさまはそのお仕事、その人間関係、その家庭生活、その日常生活、その趣味活動で世の中に何を伝えようとしているのですか?
そういったことを最近考えています。
このことがぼくのテーマになるんだろうなって。
これまでは、テーマが自分になかったわけではないのですが、最近になって、ちょっとアップデートしないといけないなという気持ちになってきました。
自分が大事にしているテーマ、バックグラウンド、それこそ背骨というようなものですけれど、それはきっと変わってもいい。
これ!って決まったものがあっても、その中で変化していっていいものだと思うんですね。
それこそ、初めから比べたら180°変わっていたっていい。そう思います。
どうしてもわれわれは決まった道、たった一本のまっすぐな道を模索します。
そしてその道を見つけたい。仮に見つけたと思ってみても、歩いている内に(歩こうとしている内からかもしれませんが)変わってしまったりします。
でもそれでいいのだと思います。道が、たった一本の決まった道であると思っていることが間違いです。
歩いている内に変わって行っていい。人間は変化する生き物なのです。
はずかしながら、ぼくもそのたった一本の道を、探そうとしていました。
ぼくにはこれ!というような決まった道があるはずだ。
その道を険しくても歩いていくんだ!
そのためにはまず道を探さないとってあがいて、もがいていました。
でも、そういうことって何かのはずみで、気づいたりするチャンスがあるものです。
ぼくの場合、それはnoteに毎日継続して投稿しようとしてから約30日くらい経ったときのことでした。
書き続けていると、毎日毎日ネタがないわけではありません。
しかし、伝えたいことって言うと、そう毎日毎日あるわけではありません。
何となく、のほほんと生きているときもあれば、ボーっと生きているときもあるのです。
そういったときに何をnoteに書いていけばいいのだろう?って思いました。
整体のメソッドや四柱推命の知見。風水の知識など。書くネタはいろいろとあったとしても、それを通じて、読んでくださるみなさまに、なにをお伝えしたらいいのだろうか?そう自問自答する日々です。
そんなことを考えている内に「noteを毎日更新しても、なにも変わらないよ」っていう記事が目に入ったり「誰も、知らない人の考えや主張なんて聞きたくもないから、とりあえず役に立つ情報だけ出しとけばいいよ」っていうような記事を見たりして、かなり揺らぎました。
そうかと思うと「何事も100日くらいは続けていないとわからないよ」っていう記事も観ることができて、とりあえずここは、つごうのいいように観たいものだけを観て、信じたいものだけを信じようと思いました。
もう一度自分の立処を顧みる機会にもなりましたし。
整体というものを通して、世の中を観てみますと、単純に整っていない部分や偏っている部分が観えてきます。
そして、それでも微妙なバランス感覚で、なんとかなっていくのが世の中だったりするのですが、どうにもそうではない部分も出てきます。
そうなってくると、その偏っている部分が原因で不具合が出てきます。
世の中的にもそうなのです。もちろん人間の身体も同じです。偏りがあったり、整っていない部分があると、そこから不具合が出てくるのです。
その偏りを治そう、バランスをとろうとする動きが生きているということでありますし、それが人生における醍醐味でもあります。
なんの偏りもない、動くことのない無風の安定しきった人生なんてつまらないものです。
追い風も向かい風もどちらにも進みますが、無風は進むこともない。
それはそれでつまらないものだと思います。
嵐にばかりあっている人生は、それはそれで辛いものもありますが。
とにかく世の中や世界の動きといったマクロ的な部分も人間の身体内というようなミクロな部分も同じような原理原則で動いていますし、バランスをとり、調和を保っているのです。
たとえば整っているとかいないとか、偏っているとかいないとかっていうものを世の中のことに当てはめて考えてみますと、最近もあるのかちょっとわかりかねますが、引き寄せの法則というものをよく聞きました。流行っていました。
最近はどうかはわからないのですが、引き寄せの法則を使ってみなさんは何を引き寄せようというのでしょうか?多分ですが、お金や財とかじゃないですか?
仮にそうだとして、ある人がお金を引き寄せたとします。よかったですね、この人はお金を引き寄せることができて。お金にゆとりが生まれて万々歳でしょう。
しかし、かならずどこか別の人の元からお金は去って行っています。
一度にひとりの人からでなくても、別のほかの人たくさんの人からかもしれませんが、その人が引き寄せたものと同等のお金がその人たちの元から去っています。
当然のことですね。そうしてどんどん一部の人に偏って行くのですね。それでも世の中が破綻しないように、少しずつお金から去られた人にもお金が入り、なんとか社会のバランスを保っているのです。
物質の移動はそうなるのです。物質に限界がないと思っているのは大間違いです。物質は無限ではありません。限界があるものを奪い合うと、偏りができるのは当然のことなのです。
愛光流をやるものにとって、必須のものがありまして、それが老子です。老子は何度も何度も、目を通すようにしています。老子はその解釈によっても著者によっても全く内容が違います。
老子で有名なのが無です。無為とか言いますね。この無というのは何もないという意味ではなく無というものがあるのです。
まぁ無なのですから、目に見えないものと言ってもいいのかもしれません。
この無というものと有というものがあって、有というものは存在としてわれわれが観たり触ったりすることもできます。
ですので、ついついわれわれはこの有の世界が全てであると勘違いしてしまいます。
この有の世界を争い合っているのです。しかし、この無と有はお互いに調和していてバランスをとっています。
有はかならず無の方に向かいます。有はかならず滅ぶ方向に、無くなる方向に行くのです。
そして無がまた有を生む。それが老子が言っていた無なのです。ものごとには無か有かだけでなく、どちらも存在する。どっちがいいとか、どっちがよくないの話ではない。
それぞれが同時に存在し、まじりあっている部分もある。ぼくたちはどうしても○か×にわけたがる。
それこそが偏りである。完全無欠なものなんてないのだが、それを探そうとすることがすでに偏っていることなんだろう。
こんなふうに、今のぼくは解釈しているのですが、これもまた変わるかもしれませんね。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。