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お父さん、ちょっとお茶しようよ

 先日、久しぶりに実家に帰省した。久しぶりといっても、年末年始に帰ったので2か月ぶりくらい。帰省といっても、実家は今住んでいるところから車で1時間30分くらいで行き来することができる距離。そのため、なにか用事があったときには、そのついでに実家に寄ることが多い。その日は、実家近くのスーパー銭湯に行く予定があったので、ついでに寄ることにした。
 スーパー銭湯での入浴を済ませて、父親にラインで家に居るか確認の連絡をする。父親とのラインはなぜかずっと敬語。「います( ◠‿◠ )」と顔文字付きで返ってくる。こんな顔文字あるんか、と心のなかでツッコんだ。

 スーパー銭湯から30分ほど車で移動して実家に着いた。着くと、父親が玄関まできてくれた。
 「なにか取りに来たの?」
 ラインでは敬語だが、対面だと敬語の縛りは無くなる。なにか荷物を持ち帰るために実家に帰ることが多いので、そう父親は質問したのだろう。僕は、スーパー銭湯に行ったのでそのついでに実家に寄ったことを説明する。
 「ちょっとお茶する?」
 今まで父親とお茶なんてしたことも誘われたことも無かったため、頭のなかでの整理を要し、一瞬、時が止まってしまった。しかし、その日は、実家に寄った後は好きなラーメン屋に行くと決めていたため、その旨を説明した。お茶ではないけど父親も一緒にどうかと誘った。
「行こうかな」
父親とラーメン屋に行くことになった。
 ラーメン屋に行く道中、最近どうしているとか、三連休はなにしたとか、実家に帰ったとき取り交わす会話を一通りおこなう。小さい頃から、父親は、父親の話に対して僕がなにか返答をしても「おん」と一言だけ反応するだけだ。僕が社会人になって、他人に興味を持つようになって、人とのコミュニケーションがスムーズにいくことが増えたけど、父親とのコミュニケーションは相変わらずだ。

 ラーメン屋に着いた。
 ラーメン屋に入ってすぐ、父親が「あぁ~~~~」と声をあげた。
父親を見ると、入って真正面にあるテーブル席に座っている子どもに手を振っている。そんな声出すんかい、と心のなかでツッコむ。というかそんなに子ども好きだったっけ。わかるけど、子どもがかわいいのは。
 「お店入って早々手振られちゃってさあ」
 父親は目を細めてそう言った。きっと、細かい反応をしても「おん」としか返ってこないだろうから、かわいいよね、とだけ返す。「おん」と返事をしながら、子どもと手を振りあっている。

 僕は、父親のことがよくわからない。わからないというのは、理解できないという意味ではなくて、どんな人なのかといったことで。
 知っているのは、小さい頃は野球と器械体操を習っていたこと。好きな食べ物は、おそらくピーナッツが入ったブロックチョコ。白米は柔らかめが良い。お酒はあまり飲めない。10年くらい前の父の日にあげた鞄をまだ使ってくれている。僕が実家に置いていったラベンハムのコートを気付いたら着ている(似合っている)。そのほかに感じるのは優しいこと。もう少しあるかもしれないが、思いつくのはこの程度。
 父親はおしゃべりではないので、距離感は今のくらいが良いのだろうけど、大人になって他人に興味を持つようになり、家族である父親のことをあまり知らないことに少し寂しさを覚える。
 この出来事の数か月前、ジェーン・スーの『生きるとか死ぬとか父親とか』を読んだ。作中には、著者の「そうだった」や「そういえば」といった心情が書かれていたり、著者とその父親の関係に目を向けてみると、共通点が見つかったりといったエピソードが書かれている。
 読了して、僕も、父親のことをもっと知りたいと思った。今回の出来事を経験して、より一層そう感じる。
 家族のことを知らないことに対して寂しさを覚えると前述したが、家族の知らない一面がまだまだたくさんあるんだろうなと思うとわくわくする。
 次はお茶に行ってみようかな。

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