ビードロとイチゴジャム
約4900字、ショートショート、主人公は男子高校生です。
「ビードロ?ぽっぺん?何語ですか?」
高校生の僕ははじめて聞く言葉にゲームの世界から現実世界へ引っ張り出された。ゲームを一時停止してコントローラの手を止めた。振り向くとリビングのテーブルで兄の彼女ハルカが紙袋から小さな箱を取り出していた。ハルカは箱を手にして、床に座っている僕にスッと差し出した。
「これだよ、開けてみて。長崎へ旅行に行ったときのおみやげ。」
僕はハルカから長細い箱を受け取って蓋を開けてみた。中には繊細そうなガラス細工が入っていた。形はドラクエのスライムの上にストローを刺したような感じだ。赤、青、黄、ステンドグラスのような美しい模様が描かれている。
「なんだこれ?どうやって使うの?」
ハルカは僕の斜め横に座ってニコニコしながら僕を眺めている。ハルカは簡単に僕のパーソナルエリアに入る。緩いウエーブのかかった長い髪、フワフワの白いセーター、ジャスミンの香りのシャンプー、長いまつ毛、イチゴジャムみたいな唇。僕の好きなイチゴジャム…。
「シャボン玉みたいにさ、ゆっくり息を吹いてみて」
僕は言われた通りストローからふーっっと息を入れた。するとペコんと今まで聞いたことのない不思議な音がした。
「ん?底が動いて音がした」
「そうやってね、息を吹いて音を出して遊ぶの。かわいいでしょ。」
かわいい?こうゆうのってカワイイって言うんだ。僕ら男兄弟にはない感性、頭の中の〝かわいい〝の辞書に例文を追加して保存した。僕は母親から言葉を教わっている小さな子供のように平坦なイントネーションで繰り返して言った。
「かわいい」
「でしょ!私、これをお店で見つけたときユウキくんの顔が浮かんだんだ。マサキがさ子供っぽいって言ったんだけど、ガラス細工に子供も大人もないでしょ。」
どうしたらいいんだ?
僕はちょっとだけ頷いて笑顔を作った。ハルカは安心したようにニッコリ笑った。よかった、正解したみたいだ。
僕はもう一度ビードロを立体的に見た。
僕ってこういうイメージなんた。さっきまでアクションRPGでゾンビと戦ってたのに。欲望のままに動くゾンビ、僕は戦う剣士。僕の反射神経とか野生的で凶暴な技とか、ハルカの目には猫が猫じゃらしと戦ってるように見えてるんだろうな。だからビードロなんだ。
「ありがとう。大切にするね。」
僕は朝ドラのような爽やかな滑舌のいいセリフを言った。廊下のスリッパのタッタッタッという足音がしてリビングの扉が開いた。マサキが二階の自室からリビングに戻ってきた。
「ライブのチケット見つかったよ。別のコートの中に入ってた。」
マサキは封筒を開いてチケットの枚数を確認した。
「ハルカと俺とユウキと…ちゃんと3枚ある。ふぅ、無くしたと思って焦った。先輩がやってるバンドだから行かなかったら殺される」
「見つかってよかったね」
ハルカとマサキは目を合わせて微笑んでる。なんだ?この甘いキャラメルソースみたいな空気は。僕は息苦しさを感じて自分の部屋へ移動した。
夜、宿題をしながらハルカのことを思い出した。
「マサキと付き合ってから綺麗になったよな…。なんだよ、最初にハルカを見つけたのは僕だったのに。」
一年前、僕は学校帰りに新しいペンケースが欲しくて雑貨屋に入った。バッグ、財布、帽子、ぬいぐるみ、ルームコロン、文房具用品、手頃な値段でお客さんは十代、二十代が多かった。僕は適当に黒いペンケースを選んで、ファスナーに紐で結ばれている商品説明のタグを見た。
「へぇ、手作りなんだ」
中も確認したくて、商品のタグをグッと引っ張った。ファスナーが開かない、え?っと思ったらタグがとれていた。パンチで丸い穴が空いているところが破れたのだ。
「あ…マズイ…」
右手にタグを持ったまま数秒動けなかった。周りを見渡したら店員のハルカと目が合った。
「もしかして取れちゃいました?」
「はい、すみません。引っ張ったらブチって。」
「いいですよ、気にしないでください。あとでセロハンテープでくっつけますから。」
「でも、僕がやったんで僕が買います。」
「高いですよ…。それ、皮でなんで。」
僕は皮の意味がわからなくて値札を確認した。
「え?3800円??」
「なんです」
ハルカは申し訳なさそうな顔をして、大きめのセーターの袖口から手のひらを出した。僕はその手にそっとペンケースを置いた。
「すみません…僕、買えません」
「フフフフ。私も買えません、買いません。高いから。」
ハルカは綿菓子みたいに微笑んで、僕も笑って、それから僕たちは知り合いになった。
僕は年上で綺麗なハルカと話すのが楽しくて、文房具が必要になれば、いや、必要なくてもハルカのところへ行って買った。文房具が充実してくると小物を買うようになり、それも事足りると用事もないのにハルカに会いたくて雑貨屋へ行った。ハルカは僕が相当な雑貨好きだと思ったらしく新商品が入ってくると僕にラインで知らせてくれた。
僕は調子にのって、もしかしてもしかするとこのままいい感じに…と期待した。出会ってから2カ月後、兄の誕生日プレゼントを買うまでは。
「マサキ、これ誕生日プレゼント」
僕はテレビを見ている大学生のマサキに赤いビニール袋を渡した。
「サンキュ。お?センスある手袋。ユウキが選んだの?」
「違う、ショップの人に選んでもらった」
「へぇー。この赤い袋の店?」
「うん。」
「この袋リビングでよく見るな。ゲームショップじゃないの?」
「違うよ、雑貨屋だよ」
「おまえが雑貨屋?」
「知り合いがいるんだよ」
「ふーん、女か。俺も行ってみよう。」
それから一ヶ月後、マサキに彼女ができた。相手はハルカだった。
小さい頃からいつもそうだ。
僕が見つけた新しくて面白そうなオモチャはマサキに取られた。大人が見てない隙に。僕は腹が立ったけど力でマサキに勝てないことは嫌というほどわかっていた。それ以外の方法も何度か試してみたが兄は賢くてズルい。僕はいつも負けた。だからもう取られたら取られっぱなしには慣れている。
僕は勉強机の隅に置いていたビードロを手にとった。ストローをくわえて息を吹き込む。
〝ペコん〝
僕はビードロだ。
〝ペコん〝
ハルカに名前を呼ばれるたびにペコんと笑って子供のフリをしてきた。そうしたらパーソナルエリアに入れるし、入ってくれる。それでいい、それだけでいい、側にいられるなら。
土曜日夕方、僕はライブハウスの前でマサキとハルカが来るのを待っていた。マサキは大学が終わったあとハルカと合流してここへ来る予定になっていた。
「寒い…白いの降ってる、雪かな?二人が手を繋いで現れませんように。」
僕は自分の耳を両手で触ってみた。自転車で来たせいで氷のように冷たくなっていた。
「ユウキくーん!」
ハルカの声がした。横を向くとバス停から降りたハルカがこちらに向かって歩いてきた。ベージュのコートにロングブーツ、モフモフなバッグ、髪は後ろにふんわりまとめていた。
「あのね、マサキが大学でスマホ落としたみたいで探してからこっちへ来るって。だから先に中へ入ってて欲しいって。」
「チケットは?」
「私とユウキくんのはここにあるよ。じゃ、入ろうか?」
「うん」
僕はハルカの後ろをついて歩いた。小さなライブハウスは薄暗く同年代の人たちで満員だった。モワッとした複雑な匂いが混ざった空気。ステージの前には常連らしきファンがお揃いのTシャツを着て待ち構えていた。僕らはファンの人たちの邪魔にならないよう壁際へ行った。
「思ったより人が多いね、ライブ始まったらギュウギュウになりそう」
ハルカは僕の隣に立っている。華奢な肩が僕の腕にふれる。僕を見上げて今日の出来事を話している。ジャスミンの香り、この髪型かわいいな、この角度からハルカを見下ろすと…?
キスできそう。
「ユウキくん、聞いてる?」
「き、聞いてます」
僕、今、なに考えてた?
僕は頭の中で呪文のように唱えた。
ダメだ…ビードロだ、ビードロ、ビードロ。僕はビードロのペコんだ。
「マサキの友達からライン入った。スマホまだ見つからないって。」
「そっか…」
「ユウキくん背が伸びたね、マサキと同じくらいかも」
「ですね」
「そろそろ始まるよ。」
「うん」
「どうしたの?口数少ないね」
呪文は効果なかった。僕の視線はハルカの唇から離れなくなった。
「ユウキくん?」
僕の名前を呼ぶ声で、ペコん、頭の中でビードロが鳴る。
「ごめん、えっと」
何かを答えようとしたとき突然視界が真っ黒になった。と同時に〝ワァァァーー!!〝っと歓声に包まれて、ステージの上の照明がつく。バンドメンバーがマジックのように現れた。ドラムの音から始まって、ギター、ベース、ボーカルの順に重なっていく。すし詰めになった箱の中でみんなジャンプする。ジャンプするたびに人の波はどんどんステージに向かって圧縮されていく。
その重力で僕らは押されて、ハルカは僕の腕の中に入る形になった。僕はハルカが潰されないよう両手を背中に回してガードした。ハルカが僕を見上げてなにかを言ってるが、一つも聞きとれなかった。かわいい声がロックで掻き消される。
んなっ!どうにかしたい!
僕はハルカの言葉を聞き取りたくて、ハルカをギュッと抱きしめてハルカの口元が僕の耳にくるように猫背になった。
「…がね、…の、…から」
あ、しまった…と思ったときには遅かった。ハルカの息が耳にかかる。自分から後戻りできない状況にしてしまった。あぁ、ビードロの呪文で衝動を抑えてたのに。僕の心音にビードロが共鳴して割れそうだ。次に息を吹きかけたらビードロは割れる。
僕はハルカに言った。聞こえないだろうと思ったから言ったんだ。
「ごめん、ぼくはカワイイおもちゃじゃないよ。ここから先どうなるかわかるよね?僕の名前を呼んで。僕を壊して。」
ハルカは腕の中で静かなままだった。やっぱり聞こえないよなと思ったとき耳元に息がかかった。
「ユウキ」
その一言で薄い鼓膜のようなガラスは割れてしまった。僕はもう何も聞こえない。聞かない。ずっと欲しかったイチゴジャムを食べた。
それから僕とハルカは残念ながらなんの進展もなく…それきり会うこともなく連絡も取っていない。今思えば、あのときハルカは雰囲気に流されてキスしたのかなと思う。
マサキとハルカは春になる頃、別れてしまった。数年後、マサキは社会人になって、すぐに別の彼女を見つけ婚約した。大学生になった僕はなんとなく誰かと付き合ってなんとなく別れるを繰り返していた。
僕はその日、大学祭の準備でいつもより早い時間に電車に乗っていた。電車内は人が少なかった。椅子に座ってリュックを膝の上に置き、イヤホンをつけた。流行りの音楽が電車と同じリズムで流れる。窓から差し込む朝日が世界を白くした。僕は知らない間に眠ってしまった。
夢の中で僕はビードロを吹いていた。
〝ペコん〝
ハルカがわたがしのように微笑んだ。
〝ペコん〝
「ユウキ」
僕は名前を呼ばれて目が覚めた。
同じ大学の彼女が僕の目の前に立っていた。別の駅から乗り込んだらしい。僕はイヤホンを外して彼女を見上げた。
「そろそろ着くよ」
「うん。」
電車はキキーーと音を立てて速度を落とした。僕と彼女は扉近くに立って窓からいつもの街を眺めた。駅に到着すると扉がゆっくりと開く。ホームには電車に乗ろうとする人達が行列を作っていた。彼女が先に降り、僕も電車とホームの隙間をまたいだ。ジャスミンの香りがした。
僕は振り返ってハルカを探した。逆光の中、電車に乗り込んだ人たちが次々に席に座り、席がなくなると車内に立つ。ワイシャツ、タイトスカート、皮のバッグ、ネクタイ、ショートヘア…ハルカのかけらすらない。発車を知らせるオルゴールが流れてゆっくり扉が閉まった。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。