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アリアに出でにし -Aria can't keep my secret-

 昼間は春の陽気でも、放課後の音楽室は肌寒い。窓の外には青い空と白い雲が浮かんでいる。グラウンドの向こうには、道路を挟んで小さな公園が見えた。

 前奏が始まった。私のメロディを待っている。すっと背筋を伸ばして振り返る。ストラップにかけた楽器に手をかけ、静かに運指を確認する。そして、ゆっくりとリードを口に運び、息を吹き込んだ。

光風がやってきた。私の心にとどまるように

『緑のクジラ公園』――それが私のステージ
舞台の上で軽やかに歌おう

超えていく――遥かなるあの雲を

 私は歌った。これは比喩ではない。この『アリア・ウインド』は、心を歌い上げてくれる。

「それにしても面白い楽器だよな」ナツキがアリア・ウインドを指差した。「見た目はサックスのくせに、なんで歌が出てくる?」

 面白いことは間違いない――心に浮かべた歌詞がそのままカップから流れるのだから。

 それよりナツキの柔らかいキーボードのほうが凄いと思う。従来の鍵盤楽器にはできない残響や中間音の変化を自在に操り、私を導く。

「僕のベースは目新しさがないから、羨ましいよ」

 今度はトウマだ。確かに電子ベースはクラシックのコントラバスから劇的な進化はない。それでも彼の優しい低音は不可欠だ――私を支えてくれる。

「同じような歌声変換が弦楽器でもできるようになるって聞いたぜ」

 知らなかった。管楽器だけの特別なものだと思っていたのに。

「それはヴァイオリンだけの話だよ」トウマが首をすくめた。

「じゃあ、トウマ様の美声が聞けるのは、まだまだ先かあ」

 ナツキのおどけた発言に、三人で笑った。私はこの空間が好きだ。いつまでも続けばいいと思う。けれど、時間はやっぱり限られていて、高校生活の最後のコンクールが近づいている。

 演奏の振返りとなった。悪くはないが、しかし――とも思う。口火を切ったのはナツキだ。

「ハルカ、この曲、どうにかならね?――これってラブ・ソングだよな?」

 痛いところを突かれた。

「僕も思った。ハルカさんの歌は情景とかは、ハッとするくらい素敵なんだけど――恋の歌になると――なんというか……」

「陳腐なんだよな」トウマが包もうとしたオブラートを、ナツキがすぐに破った。「『会いたい』とか『さみしい』だとか――上っ面すぎるだろう」

「安易に他人のフレーズを入れないほうがいいとは思う」

 二人の言っていることは間違っていない。でも、彼らはこの楽器――アリア・ウインドのことはわかっていない。奏者が心をオープンにすれば、呼応した歌が鳴る。しかし、どこかでブレーキをかけないと、そのままの気持ちが歌詞になって溢れ出てしまう。この楽器の前では嘘はつけない。たとえそれが、秘めたる想いだとしても。

 押し黙ってしまった。空気が重い。こんな雰囲気を変えてくれるのがナツキだ。しかし、今日は彼らしくなかった。

「まあ恋愛とは無縁のハルカには無理かもな」

 普段なら平気な軽口が、今は気に障る。

「例えばだけど、ハルカさんも誰か気になる人はいないのかな。少しだけ、その人のことを思って歌うのはどうだろう?」

 トウマの提案にどきりとした。鼓動が少しづつだけど、確実に激しくなってくる。

「それいいじゃん!ハルカにスマートな愛を歌うことはできないだろうけど、お子様な恋でも全然マシになると思うぜ」

「ナツキ、それは言いすぎだよ」

 止めに入ったトウマをナツキが見返した。痺れるような緊張が二人の間を走った。

「俺だって真剣なんだ。トウマは手厚すぎるんだよ……そうだ!だったらそんな優しいトウマのことを想って歌ったら?」

――ねえ、お願い。それ以上言わないで。顔が紅潮するのがわかった。

「いつも守ってくれるトウマへの想いは、きっと大曲になるぜ?そうでなくても……」

「いい加減なことを言わないでよ!」――自分でも驚くような声量だった。

 「少し落ち着こう」と、トウマがナツキを連れて場を外してくれた。トウマの気遣いは助かる。それにナツキだって意地悪で言っているわけではない。少しでも良くなるようにと、きっかけを与えようとしただけだ。

 気分を変えよう――無造作に窓を開けた。吹き込んだ強い風が譜面台の紙を飛ばした。

 ――いけない。散らばった楽譜を戻したときに、クリアファイルに挟まれた淡黄色の冊子に目が留まった。昨年のコンクールのパンフレット。そういえば――と、手にとって裏表紙を見る。

『来年こそは金賞を!』

『3人で音楽をいつまでも』

 そこに続くのは、よく見慣れた私の字。

『素直に、自分の心に正直に』

――何をためらう必要があるだろうか。私の――今の17歳の想いは、決して恥ずかしいものではない。

 すっと立ち上がり、アリア・ウインドに手をかける。まだ鼓動が早い。不安と緊張を少しずつ落ち着かせた。

 私は――私の心を吹き込む。

恋はホイップクリームのように甘いって言ったのは誰?
少しだけ私の気持ちを聞いてほしい

カップ・ケイクス

いつも2つの小さなケーキを眺めていた
プレーンに色とりどりのデコレーション
ショコラに香ばしいチョコチップ

 本音を表現するのはやっぱり怖い。イヤな女だと思われないだろうか。――それでも嘘はつけない。素早いパッセージを増やしていく。心と楽器のシンクロがわかる。ハイトーンで高らかに歌った。

2つは贅沢だってわかっている
私の胸がちくりと痛む――このままでいいのかと不安になる

カップ・ケイクス

それでも『2つが揃って幸せ』って――私はそう思う
どちらかが欠けてはいけない。この空間が愛おしい

だから今は見つめることしかできない

 甘い声が中空に舞った。私だけが奏でられる歌だ。

 夕暮れを迎えた音楽室の扉の前で、彼らは並んで座っていた。

「このバンドをずっと続けたいって――心から思う」

 少しの間をおいて「……そうだな」が続いた。春茜の空が二人を照らした。

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