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#24 紺碧のトライアド

#24

 その日は、中田准教授のレッスンだった。ベートーヴェンが残してくれた楽譜という手紙を読み、私がその返事を書いた――そんな演奏ができた。

「良くなった」

 嬉しい言葉だった。

「ようやく『碧井七海の音楽』が聞けたような気がする。あのバンド活動のおかげかな?」

 組んでいた足を外し、いつもとは違う軽いニュアンスで尋ねてきた。

「はい。――先生がああいった場で音楽を聞くなんて驚きでした」

「フリードリッヒ・グルダは、昼はホールでクラシックを弾き、夜は酒場でジャズを楽しんでいた」

 クラシックとジャズの両ジャンルで偉大な功績を残したピアニストの名だ。

「実を言うとね。こんなビラが僕のところに届いたんだ」

 机から二種類のビラを取りだした。ゲリラライブで渡辺さんと紫苑が配ったビラだ。

「どうしてお持ちになっているのですか?」

「僕は渡辺君がやってるカプリスの顧問をしているから――まあ名前を貸しているだけだけど。それで、学生課の職員から報告が入ったわけ。まあ、学生のやることだし、そのままにしようと聞き流していたら、こっちに君の名前が書いてあることに気がついた。君が音楽にどう向き合うつもりなのか――何かしら指導のヒントになると思って聴きにいった。けど、もうその必要もなさそうだね」

「はい――本当に貴重な経験でした。やっぱり音楽が好きです」

 学生のためにわざわざ足を運んでくれる。彼は音楽家としてだけでなく、指導者としても立派な人だと思った。

「それで、あの――ひとつお聞きしてもよいですか?」

「どうぞ」

「どうして先生は音楽専科の方ではなく、私のような学校教育科のクラスを受け持っているのですか?」

 背もたれに寄りかかりながら、ゆっくりと言葉を選びながら答えてくれた。

「彼や彼女たちはいずれプロになり、皆を喜ばす演奏をするだろう。僕もプロだからそれは素晴らしいことだと思う。一方で、学校教育の子は、教える立場になり、次の世代の子どもたちに音楽を教える。それはやっぱり大事なことだよね。僕は音楽の楽しさや素晴らしさをきちんと伝えられる教育者を育てたいと思っているんだよ」

 私はうなずく。このままいろんなことを学んでいけば、私もそんな教育者になれるはずだ。でも――。

「それでも――それでも私は、音楽を演奏する人になりたいと思いました」

「では、なればいい」即答だった。「学校教育科の学生は教員にしかなれないなんて、そんな決まりはない」

 そのとおりだった。私は自分の可能性を勝手に狭めていたのだろう。

「いいかい。ここは大学だ。君が学びたいことを学ぶ権利がある。そうだな。後期から必修ではないが、引き続き僕のレッスンを受ければ良い。その中で、クラシックを目指すもよし。それ以外の形で演奏者を目指すのも良いだろう――コンサートホールでクラシックを弾くだけがプロじゃないだろう」

 唇をくいっと上げて、私を見る。

「はい。ありがとうございます」

 ――フォルテの返事ができた。

***

 浮足立ったまま乗りこんだエレベーターが、予想に反して上に向かってしまった。そのまま乗っていればいづれ下には着くはずだが、先客のあとを追うように降りた。七階か八階だったと思う。すぐに踵を返す気にもなれず、エレベーターホールの窓に足を向けた。

 遠くに空と海が見えた。ペインティング・ナイフで塗り分けたような青だった。

 二人に会いたくなった。また新しい私で演奏できる。二人はこの気持ちの変化にすぐに気づくだろうか?

 渡辺さんはきっとすぐに気づいてくれる――優しい人だから。紫苑はなんにも気にしないだろう――けれど、これまでと同じように私を受け入れ、それに何倍も上乗せした彼の想いを返してくれるだろう。

 ガラスの上で、景色と二重写しとなった私の影にそっと顔を近づけてみた。水平線におでこがコツンとあたる。ひんやりと気持ちがいい。

 ――私の音を見つけた。

 白い吐息が紺碧の海をふうっとなでた。


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