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#65「At that timing」

チク・タク、チク・タク、チク・タク・・・・・。

時は休む間もなく刻まれていく。わたしたちの生活に時間が欠かせないように、太古から今を均一に切刻む時間の存在はあった。

「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。

①時刻。つまり、時の流れの中の一点のこと。
②ある時刻と別のある時刻の間。およびその長さ。
③空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの。

引用:Wikipedia

わたしは無知で多くのことを知らないが、最近「時間という概念」が気になっている。良い子であれば早寝・早起きとして、夜9時には就寝し朝6時には起床する。そんな社会に触れ回っている常識のようなことも、時間という概念が生み出す一つの現象のように見える。

わたしたちは、本来時間という概念のない世界に生まれ、そして死んでいく生き物だったはずだ。人間以外の動植物は時間というものを認識していない。彼らにあるのは気象の変化に対応するためのシステムだけだろう。

そのため、気象異常が起こると一部の動植物のに異常が現れる。例えばそれは、桜の狂い咲きや、太陽嵐による高周波ノイズによるイルカやクジラが方向感覚を失うなど、多岐にわたる。

しかし、人間は気象や自然よりも、同種間における社会秩序が重要なために「時間という概念」が誕生したのだろう。いや、正確には時間という道具を利用することで気象や自然を掌握し、その後「時間という概念」が対人にも応用されたと考えるのが妥当か。

兎にも角にも時間が誕生したことにより、人間間に共通の尺度が生まれた。

そのことにより個人差が発生した。例えば、太郎と次郎がAからBまでに到達するために、時間が存在しなければ、単に結果として到達できるかできないかの二択になる。この場合、太郎と次郎は同じ結果を得ており個人差はない。つまり同じ評価を受けることになる。しかし、時間があることにより、明確に太郎が次郎よりもどの位早く到達したかが分かる。その結果、明確な個人差が発生する。

時間とは哲学的にいえば「今を区切ること」なのではないか。表面上同じものを時間というナイフで区切ることができる。わたしたちは、時間という概念が存在する前は、今よりも開放的であった可能性が高い。

考えてほしい。太郎と次郎は同じ人間ではあるが差異がある。当然だが現在世界中に生存している70億人すべてに差異がある。70億すべてが似てはいるが同じではない。どこかの数学の問題のようにすべての前提条件がそろうことなどこの世にはない。

譲歩して、同じスタート地点に立ち、同じコースを走り、時間を測定するのであれば、個人差として誰もが納得することだろう。しかし、太郎は20歳で次郎は3歳だったらどうか、当然太郎の方が早くB地点に到着する。大げさに言っているので馬鹿馬鹿しいと感じるだろう。だが、わたしたちの身体は動的平衡状態で常に変化している。

時間というものに縛られることによって、人の持つ本質があたかも画一的なものに感じる。当然、わたしたちは同じではないものを同じものとして捉えることで安心や平和を手にしている。しかし、同時に本質的な意味での多様性を損失しているようにも感じるのだ。

それはさておき、時間は行動や情報に影響を与えることができる。先ほどのようにA地点からB地点までの距離を電車で移動するのに、在来線で9時間かかるとする。この距離を2時間40分で移動できることで価値が生まれる。東京ー大阪間を新幹線が在来線よりも乗車料が高いのはそのためだ。さらに飛行機を使用すれば、1時間で移動することができる。(条件にもよりますが)

短時間でタスク(移動)を終了できれば、価値が生まれビジネスが成り立つ。また、100mを走るという行為も10秒を切れば大いに価値ができる。このように時間を短縮する行為には価値があるのだが、はたして人間は速さを求めるべきなのであろうか。

では人に置き換えてみよう。

人も早熟で思考能力や学習能力が若くから高い方が、社会においてはアドバンテージがあることは間違いない。そのため、昨今では有名私立学校の受験の低年齢化が進んでいる。知識社会において学力は大きなアドバンテージになることは間違いない。この優位性を逆手にとり親御さんに強迫観念を与え、不安ビジネスとして塾も私学受験も成り立っている側面を持つ。

確かに、同じことを人よりも先に始めていれば相手に追いつかれることはない。常に先頭グーループにいれば人生は安泰のように見える。

しかし、向かう先が皆同じで同じ能力を必要としている場合に限る。この前提を履き違えると不幸になる。人生は向かう道により必要な能力は異なる。人間万事塞翁が馬というが、起こっている不幸な出来事が、人生において必ずしも不幸とは限らない。

時間を考える意味で速さ以外の必要な尺度とはなんだろうか。

時間の概念は速さの次に求められるものはなんだろうか。

それは、「At that timing」である。

昨年、わたしは仕事の打ち合わせのために珍しく表参道に足を運んだ。一年に1~2回程度、必要な時にだけしか都内に行くことはない。1時間程度で終わり会社に戻る道中、青山辺りの交差点で信号待ちをしていると、移動中の佐渡島 庸平氏をお見かけした。

佐渡島 庸平氏は「ドラゴン桜」が生まれるきっかけになった編集マンなのだが、わたしはその半年前まで佐渡島 庸平氏の存在を知らなかった。もし、お見かけするのが半年前だったら通りすがりの歩行者の一人でしかなかった。もっとも、お見かけしたからといって無作法に声をかけるようなことはしていないのだが、この一方的な出会いを分析すると、大事なのはタイミングなのである。

時間という概念を考えると、速さを求めたくなるが、速さよりも大事なのはタイミングである。時間という物差しを利用し、適切なタイミングを可視化し自分にとって必要なものを必要なタイミングで手にする。わたしは、これが重要だと考える。

男女間においても、相性が良くうまくいくはずの恋愛がうまくいかないのは、多くの場合タイミングを誤っている。例えば、これから留学しスキルアップし成功しようと奮起している人に、結婚しようと言い出すのは、上手くいくものも上手くいくはずがない。

また、相性が良くても成長過程の場合、互いに不足している要素を補完し合えないことで上手くいかないこともある。相性が良ければ万事上手くいくわけではない。昔友達だった人同士が、成人後にバッタリと出会い結婚したなどという話があるのはそのためだ。

細胞レベルでいえば、DNAの情報をもとに人のカラダは細胞分裂を繰り返し各臓器や皮膚は作られる。適切なタイミングで、情報のスイッチが押され、細胞は増殖され臓器を形成する。タイミングを間違えば、肥大した頭部ができたり、あるはずの身体の一部がないことも起こる。

料理でいえば、天婦羅職人は食材の揚がったタイミングを音で判断するという。素人にはわからないが、天候・粉の状態・食材の状態によって同じものでも揚げるタイミングが異なるという。

つまり、時間はタイミングを見定めるための物差しのようなものだろう。だが、正確にはタイミングは不規則であるため時間という一定の尺度では測れないという不条理なものでもある。

それでも、時間があることでわたしたちの共有する概念の補強にはなる。時間に縛られず、時間を利用し、時間を楽しむことができれば、人は幸福になるのだろうと考える。

よい時をお過ごし下さい。

おわり


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no.65 2021.5.7

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