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Wbasic(錯視的アプローチ)

私は常にWbasicという概念を深堀するために又は自己認知するために様々な角度からアプローチして皆さんを説得しようとしている。ごく一般的な人間が何かの原理を語ることは机上の空論であり何の信憑性もない。

それでも私はWbasicという概念を通して皆さんに生きやすくなって欲しいと本気で思っている。また、どこぞの学者や最もらしい肩書をもつ人間が流布する原理ならば、信用に値して信じる人もいると思う。しかし、私には印籠のような肩書などない。逆説的に言えば何のバイアスもなく正当な評価を期待できることは不幸中の幸いだとも思っています。

そこで今回はWbasicという概念を理解してもらうために、またひとつの方法を提示しようと思う。

まず、私の考えるWbasicという概念は「一つ物事の中には、2つ以上の要素が含まれており、それでいて常に一つなものであるというもの」だ。いったい何のことだと思う人もいるかもしれない。それは一元論なのか?二元論なのか?と考える人もいるといるだろう。

しかし、わたしは世の中に出回っている一元論や二元論の議論に回らず、Wbasicとして皆さんに伝えたい。これは、一元論や二元論という枠組みにはめ込んでしまうとえらく哲学的でその干渉を受けると考えるからです。わたしは、先も述べたように、皆さんに生きやすくなってもらえばそれで良いという考えなので、なにも論文にして学会に提出したいわけではないのです。

例えるなら、昔からよくあるおばあちゃんの知恵袋的思想と考えてもらえると嬉しい。「あぁ、何となくそれいいよね、便利だよね」程度のもので良い。

「Wbasicの箱」

ここによくTVで使われる「箱の中身は何だろう?」の箱がある。キューブ状で上には手を入れて取り出すための穴があり、正面には透明なアクリル板で中が良く見える。

ここにひとつの球を入れてみる。

すると正面のアクリル板越しに二つの球が見える。おかしい、確かにひとつの球を箱の中に入れたはずなのに。明らかに箱の中には二つある。そこで、箱の中のひとつの球を取り出すと、不思議なことに今度は箱の中にあったはずの残りひとつの球がなくなっている。この摩訶不思議な現象こそがWbasicなのです。

「はっ、何言ってるかさっぱりわからん」という、皆さんの声が聞こえてきそうです。意味不明ですよね。ではこれを一元論や二元論を使って説明してみましょう。

この箱を一元論の箱に変えてみましょう。そこへひとつの球をこの箱に入れてみます。するとアクリル板越しにひとつの球が見えます。そこでひとつの球を箱から取り出すと、箱の中には何もなくなります

そこで今度はこの箱を二元論の箱に変えてみましょう。同じように今度もひとつの球を入れてみましょう。すると、アクリル板越しにふたつの球がみえます。そこで箱の中からひとつの球だけを取り出してみましょう。すると、箱の中にはひとつの球が残っています。このように一元論と二元論の箱は同じものを入れて取り出すと結果が変わります。

そこでWbasicの箱にひとつの球を入れてみます。するとアクリル板越しに見えるのは二元論の箱と同じく二つの球見えます。そこでひとつの球だけを取り出すとどうなるでしょう。すると取り出した箱の中身は不思議ですが何もありません。今度は一元論と同じような結果になりました。

お解りになったでしょうか。Wbasicは一元論でも二元論でもないのです。この曖昧で中途半端な答えこそがWbasicなのです。(*わたしの一元論・二元論の理解が未熟で間違っている場合、のちに解釈をかえる可能性があります)

「で、何が言いたいわけ?」と皆さんは思うことでしょう。

わたしはこのように世の中の物事や現象はひとつのものが二つ以上に見えている(認知されている)と考えています。その原因は、そもそも皆同じものを同じように見えてはいないが、同じものとしていると考えるからです。

現象として「色の恒常性」

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引用:画像共有サービス「タンブラー」にswikedさんという女性が投稿した写真

上記の写真で「白と金」「青と黒」で大きく二つの見え方があるという。(わたしには「青と黒」にしか見えない)

これは色の恒常性という原理で、照明光の条件が変わってもその照明光の色に引きずられることなく、同じ物体は安定して同じ色として知覚される現象のことである。 例えば、赤いリンゴは青い照明の下で見ても赤く感じられる。 この色の恒常性は、知覚の恒常性の一種であり、他には大きさの恒常性、形の恒常性、明るさの恒常性などがある。(下記参照)

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引用:北岡明佳の錯視のページ

このように、見えているもの(第一視覚野に入る情報)と知覚(そのものはこうあるもの)とが同一でなくなる現象が起こる。つまり、見たものが見たままの通りで認知されない(脳の仕業)。約120万位の視神経で平面的に捉えた映像を脳内で3D化することによりわたしたちは立体を認識している。そのため足りないピース(欠損部)は脳の方で補填する形で完成するという。この情報処理が上手くいかなければ、おのずとズレは生じる。

このように全く同じものを見ているときでさえ、脳の機能の差異により変化や情報処理後の結果が変わってしまうことがある。ならば、わたしたちが当然と思うことも、誰かにとって当然でない場合もある。身近なところでいえば「幽霊」を認知できる人とそうでない人は、同じ空間にいても恐怖や感じ方に違いがあるように、現象にはそもそも同一性はないが同一性をもたせなければならないというバイアスがある。

つまり「赤いリンゴ」が例え黒く見えても「赤いリンゴ」としておくことで同一性が担保され皆に安心を与える。社会性動物である人間は共通の「それ」があることはとても重要なことだからだ。しかし、人がすべてユニークな存在で同一個体(DNA配列)がないようにわたしたちは同一であることが好ましいが同一ではない。この矛盾ともいうべき現象がわたしたちの身の回りには多く存在する。

先ほど話した箱のようにアクリル板越しに見える球は認知にあたり、入れたひとつの球が2つにも3つにも見えることがある。しかし、実体としては球は一つなので、箱の中からどれかの球を取り出せば箱の中の球は消える。あったはずの片方の球は消えてしまうのだ。これを物理学者に言えば「どのタイミングで残された球はなくなるのだ」などと問い詰められることになるでしょう。そんな不毛なやりとりを科学者は常にしなくてはならず、またそれが彼らのアイデンティティでもある。(再現可能なものでなくてはならない)

何かの現象や仕組みや真理を他者に提示するときに、わたしたちは再現可能な証拠を提示しなくてはならない。それが出来なければオカルトであり超能力であったりと非科学的なレッテルを貼られる。これは当然のことなので同意はするが、過去何百年と議論されてきた案件におそらく答えなどなく、その確たる証拠を提示することは難しい。時代の最先端をいく人たちが結論を出せない問題をわたしが「これですよ」と明確な証拠はおそらく提示することは不可能だろう。ならば、オカルトでも何でも便利で都合の良いものと捉え認識してもらい了解を得る方が建設的だ。

以前にも話したがわたしたちには【思考する個】と【思考しない個】のふたつが存在している。これを二元論的に言えば実体二元論になる。しかし、わたしのいうWbasicは実体二元論にはあたらない。なぜなら、思考すること思考しない個は切り離すことができないからだ。

実体二元論(じったいにげんろん、英: Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。ここで言う実体とは他の何にも依らずそれだけで独立して存在しうるものの事を言い、つまりは脳が無くとも心はある、とする考え方を表す。ただ実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。

引用:Wikipedia

また、一元論的な解釈でいえば心身一元論で身体説になる。これは心など存在していないということになるのでこれにも同意しない。

確かにわたしたちには【こころ】が存在している。わたしのいう【思考する個】は前頭連合野にありそこを破壊されればおそらく消失するだろう。この前頭連合野には意思を決定するための様々な役割を成している。人間以外の動物の脳をみればわかるが、動物の多くは扁桃体を含む原始的な脳領域が大きく前頭連合野部分の領域が小さい。

これは、人間が進歩する中で肥大化させていったもしくは肥大化させる必要があった部位であると推測できる。一般的にチンパンジーと人間の脳は97%程度同じだといわれる。それでも、4歳くらいまではチンパンジーの方が優秀でも、それ以降は人間の方が圧倒的に情報処理に差が出る。

ではなぜここまで違うのか。

それは、ワーキングメモリにあるといわれている。ワーキングメモリとは、元々は言語の理解を説明するために出てきたモデル的な機能ですが、それが中心として働くことによって、知覚と短期記憶、そして長期記憶(特に顕在記憶)を組み合わされて適切な答えを出すという働きができるようになるとされています。ワーキングメモリは言語やコミュニケーションの中心的あるいは基礎的な認知機能をはたしているといわれている。

簡単に言えば何かを脳の中で作業するときにひとつワーキングメモリが必要と考えると解りやすいといいます。つまり、「我思うゆえに我あり」は主観と客観のふたつが存在しているので二つ以上のワーキングメモリが必要になります。このようにわたしたちは同時にいくつかのことを考え結論を出している。ならば、導き出された解が2種類以上存在することがあっても不思議ではないはずだ。人間以外が自我を持つかは不明だが、人間ほど大きくなくとも前頭連合野が存在しているのであれば、人間ほどではないが自我が存在している可能性はあるのではないだろうか。

それはさておき、Wbasicが何の役に立つのかだろうか。それを先ほどのドレスの写真から話してみようと思います。

先ほどの女性のワンピースは「白と金」「青と黒」のどちらかに見えると思います。若しくはそれ以外の色の組み合わせに見える人もいるかもしれない。

そこで、一元論的に考えれば「白と金」または「黒と青」どちらか一つが絶対的に正しくなる。つまり、どちらか一つの組み合わせは間違っていなければならない。また、二元論的に考えれば「白と金」派または「青と黒」派のどちらかに分かれることになる。

前者の場合、自分が「白と金」を選択している場合、「黒と青」は存在してはならない。なので他人が「青と黒」と言っても聞く耳を持たないどころか「あなたは間違っている。白と金に見えなくならないといけない」と強要するようになるだろう。我が子が間違った選択をしたときに親が子を諭すように正しい道に戻してあげなくてはならない使命感が生まれるからだ。

また、後者の場合、二種類の組み合わせは存在しているが互いの主張を通すためには相手を言い負かしたりしなくてはならなく、他者の意見を受け入れることで自己正当化を達成できなくなってしまう。

このような小さな差異によるいざこざで人は、容易に不快になる。なぜなら、人は常に自分が正しいと思っているからだ。また、明確な説明がなければ尚のこと納得はしてくれない。

このようなときWbasic的には、同じものを見てはいるが違うように認知しているのだと、互いを納得させることができる。どちらも傷つかず、両者とも自己正当化を可能にする。この自他を納得させるためのツールとして使えないだろうか。実際、錯覚には文字通り見えているものと認知しているものが違うが、同じものを処理している。ひとつの現象の中に二つ以上の認知があり、それでいてそれはひとつの現象のままなのだ。

正直、一元論だろうが二元論だろうが、社会性動物である人間同士が仲良くできるための指針や仕組みがあれば、それでいいとわたしは思う。例えば、漢方は西洋の医師の中には認めていない人もいるというが、日本では処方箋で出ることもある。妊婦などは飲める薬が限られるからだ。ある症状があるときに漢方でもそうでなくとも副作用なく症状が良くなればそれで良いのではないか。また選択肢が多いことによる効能もあるのではないだろうか。

                              おわり

最後まで読んで頂きありがとうございます。

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no.35 2020.10.9





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