ネタがおもしろいかどうかなんて本当はわかってないのに。

 ネタに対して「つまらない」というやつのヤバさについては以前書きましたが、じゃあ、「おもしろい」ってなんでしょうか。僕たちは本当に「おもしろい」と思っているのでしょうか。

 M-1のネタ観て笑ったと思います。ミルクボーイにしろ、かまいたちにしろぺこぱにしろ。面白かったですよね。間違いないです。彼らは面白いんです。では、例えば、彼らが全く無名の芸人で、今と同じクオリティでネタをやっていて、全く客の笑い声もない、スタジオで収録したネタであったなら、本当に「おもしろい」と思えていたでしょうか。きっと思えないでしょう。

 昔「エンタの神様」の全盛期、テロップや笑い声が大げさにまで使われていて、お笑いファンの中には否定的な意見を持っている人も多かったと思います。しかし、あれは五味プロデューサーが「お笑いがわからない人」にも「これは面白いんだよ」っとわかりやすくするためにつけていたものです。先程の話もそうですが、そういった演出がなければ、僕たちは「おもしろい」という判断ができません。なぜなら、僕らの「おもしろい」は感覚を頼りに判断しているからです。

 本当に大好きだった人が死んでしまった時に、どんなにおもしろいお笑い観ても絶対「おもしろい」と感じることはできません。客の大爆笑の声、テロップ、テレビの演出、そして自分のコンディションが相まって「おもしろい」と思っているんです。

 では、「おもしろい」という判断ができるのは誰か。それは、お笑い芸人やバラエティづくりの専門家(放送作家のような人たち)です。彼らは、当然プレーヤーですが、いいものを作ろうという研究家でもあります。テレビでしかネタを観ない僕らに比べると、数百倍も現場でネタを観て、そして、ネタ作りの中でネタについて何千時間も考え続けているのです。彼らには、従来から積み重ねられてきた、お笑いの文化の中で「おもしろい」とされていることを研究し続けさらに発展させようと昼夜努力をしているのです。

 なので、彼らには客の笑い声や雰囲気などなくても「おもしろいネタ」という判断ができます。おそらくお葬式の最中でもできるでしょう。

 ただ、ここで問題なのは、「おもしろいネタ」が必ずしも世間一般の面白いう感覚=「笑い」につながるとは限らないということなのです。せっかく誕生した(もしくは見つけてきた)「おもしいネタ」も世間のコンディションや演出の仕方によっては「おもしろいもの」という認識されなくなってしまいます。

 そこで、世の中で芸人たちが必死に磨き上げてきた「おもしろいネタ」(当然この中には見せ方の技術含まれていますが)を隅から隅まで探しだし、「これはおもしろいネタだよ」とわかりやすくプレゼンすることができる機会を作りました。

それが「M-1グランプリ」です。

 M-1グランプリの決勝には専門家たちが探し出してきた一級品が並んでいます。今年のように、一般的に無名の芸人が多数いるような場合、僕らが予選から全て見ても(まして客の笑い声とかに左右されるわけで)見つけ出してくることは不可能でしょう。

 近い話として、ファッションの流行色はファッション業界の偉い人たちの話し合いで決めるのは有名な話でしょう。M-1もそうです。専門家たちがよりすぐり選んできた「おもしろいネタ」たちから、テレビの決勝で「どれを今年のおもしろいネタ」とするかを審査員が話しあっているのです。

 これが、世間に対するM-1のブランド力。もちろん、「おもしろ荘」や「アメトーク」などこうした「おもしろいもの」に対するブランド力がある番組は少なからずありますが、M-1は以前の記事で書いたようなお笑いレジェンドたちたちの尽力で、抜きん出ています。このM-1のブランド力を守るため、お笑いの流行を作るため、M-1チャンピオンは1年間活躍し続けなければ、なりません。このプレッシャー、そして、テレビで活躍するための並々ならぬ努力が毎年積み重なって、また次の年のM-1というムーブメントが起こるのです。

六龍

 

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