専門化した指揮者と専門化しつつあるサッカー監督:サッカーがオーケストラから盗めるものは何か。

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はじめに

 以前に読んだ『ドラッカーとオーケストラの組織論』の中に、サッカーを考えるヒントがいくつかあった。この本の中では組織、特に情報化組織としてのオーケストラに焦点が当てられているが、サッカーについても同様に考えることが出来るだろう。
 オーケストラは古くから存在し、交響曲の誕生から数えても200年以上の歴史がある。長い間絶えず演奏されたということは、それだけ多くの組織が活動してきたということであり、組織に関する蓄積は多いだろう。ここではオーケストラを組織運営の先達と見立て、若干主語は大きいことには目をつむりつつ、そうした知見をサッカーに生かす可能性を探っていきたい。

情報化組織としてのサッカー

 ドラッカーは情報化組織を次の三つに分類した。⑴野球や病院の手術、⑵サッカーやオーケストラ、⑶テニスのダブルスやジャズバンド。⑴は個人の役割が固定化されて直接助け合うことはなく、反復的な仕事やルールが固定化した仕事においては理想的である。⑵は役割は固定化されているが⑴よりも柔軟にそれを調整し、指揮者や監督、すなわちリーダーが必要である。⑶は役割は固定されておらず、状況に合わせて互いの領域をカバーし合う。*1

ドラッカーは「”未来の組織”が急速に現実化している。未来の組織は、情報サービスを主軸としたもの、または情報が組織の構造を支える組織である」と述べている。そしてこのような組織をドラッカーは「情報化組織」(Information-based Organization)と呼んだ。*2

 情報化が進むと、知識は専門化していく。そして「組織の機能は、専門知識を生産的にすることである*3」から、組織とはそもそも情報化社会においてこそ必要とされる。たとえばオーボエだけではオーケストラは成立しない。同じ楽譜の下ですべての団員がその専門知識を指揮者、そして全体の使命に従属させる。こうしてはじめて個々の専門知識が生産的になる。
 山岸は「ドラッカーは、情報化組織では専門家集団が、情報に基づいて自分たちの仕事の位置づけや方向づけを行うようになる、という。オーケストラの演奏はまさにそのように行われている*4」と述べ、情報化組織としてオーケストラを考察した。ならばドラッカーによってそのオーケストラと同等に位置付けられたサッカーも、情報化組織として捉えることが可能であろう。

サッカー型チームには、監督や指揮者が必要である。彼らの言葉が法となる。また、このチームには楽譜が必要である。そしてよりよい仕事のためには練習が必要である。*5

 情報化組織としてのサッカーを考える際に、上述のドラッカーの指摘が参考になる。監督の言葉が目的とメンバーの役割を提示し、メンバーはその言葉に従属してパフォーマンスを最大化する。その意味で「法」という言葉を用いているのだろう。つまり監督に求められるのは、専門知識をもった各選手に対して、目的やビジョン、その達成のための役割の提示である。それらの具現化はプレーの専門家である選手の方に任せるべきなのだ。

なぜ指揮者は演奏の仕方を知らないのに演奏者を統率できるのか。それは、第二章で述べたように、演奏家が演奏のプロフェッショナルであるからだ。指揮者の望む演奏をするために楽器をどう扱えばよいか、たいていの場合、指揮者より演奏家のほうが詳しい。だから指揮者はビジョンを示すだけでよい。演奏の専門家がそれを具現化する。*6

 もう一つ先のドラッカーの言葉で注目すべきは「楽譜」で、サッカーにおける楽譜とは何か。昨今のゲームモデルがそれに近いだろう。

ゲームモデルとは個人的見解も含め、
「チームの哲学、文化、アイデンティティー、理念、手持ちの選手のプロフィールなどの要素を全て考えた上で作られる、どうやってチームとして戦うかというベースの部分を成すもの」
だと解釈しています。
*7

 ここで重要なのはゲームモデル(=楽譜)の作者は誰なのか、である。おそらくこれまでは作者=監督であった。それどころか監督=楽譜であったかもしれない。ところが「総力戦」となった現代サッカーにおいては各クラブがそれぞれのゲームモデルを持とうとしている。その時に監督に求められるのは楽譜を作ることではなく、楽譜をどう「解釈」するか、そして組織をマネジメントすることになるだろう。

指揮者の確立

 かつてオーケストラにおいて指揮は作曲や演奏機会確保などと並ぶ、楽長の仕事の一つだった。その後徐々に演奏が高度化、大規模化するにつれて仕事も分割されていき、「交響曲」スタイルが定着する1800年ごろには指揮者が演奏を統率することの理解が広まり、「指揮者」という専門的役割が確立してきたとされる。
 そのため現在では音楽学校に指揮科が置かれているように、指揮者になりたい人は演奏家の勉強ではなく、指揮者の勉強をする。演奏家の延長に指揮者があるわけではない。「なぜなら、指揮者に要求されるトップとしての職能は、演奏家の職能とは別だからだ*8」。
 サッカーではどうか。指揮者と同じ役割ですぐに思いつくのは「監督」だろう。河内は日本では「監督になるためにはコーチの下積みが必要」という認識が広まっていることをあげ、それに対して「監督になるためには必ずしもコーチとしての長い下積みを積む必要はない*9」と主張する。

それは「コーチ」と「監督」は違う仕事だからです。もちろん共通したものはありますが、分業化が進んでいる現代サッカーにおいては、全くの別物だと考えていいと思います。コーチとして長い下積みを積むよりも、監督としての経験を積むことの方が重要です。*10

 この主張は先にあげた指揮者が専門化してきた流れに重なる。つまり組織が成熟するにつれて役割が明確化され、各役割の専門性が高まった末に確立された指揮者に、現代のサッカー監督は近づきつつある。監督とコーチの職能は別だと認識されてきている。
 「監督とコーチの職能は別」であるから、監督には監督としての経験が重要だと河内は指摘しているが、音楽大学に指揮科が設立されていることから、オーケストラにおいても同じように認識されていると考えられる。さらに一つの例ではあるが、29歳で日本フィルの首席客演指揮者に就任したピエタリ・インキネン(1980~)は、「僕は小さい頃から指揮者になりたいと思っていて、十三歳から指揮をしていましたから、すでに十分なキャリアがあります。指揮者にとっては、実際に指揮をすることが最大の勉強です*11」と述べている。彼の言葉を借りれば、「監督になるには監督をすることが最大の勉強」なのだ。

サッカークラブの存在基盤

二十一世紀のオーケストラは、もはや音楽を演奏することだけが目的ではない。音楽を通して人々に向き合うことが本質なのだ。オーケストラの最も重要な使命は、顧客すなわち音楽を愛する者を創造することである。そしてオーケストラは、人々とつながることによってのみ、その存在意義を発揮し、社会の中で生きていくことができる。ドラッカーもいうとおり、音楽という「コミュニケーション」は、受け手が存在しないと始まらないものなのだ。*12

 最後に考えたいのが山岸による上の主張だ。海外に目を向けると年間6億ユーロ(約750億円)以上の売上を叩き出すメガクラブがある一方で、国内では存続するだけで精一杯のクラブもある。当たり前かもしれないが、単にサッカーをするだけでは持続可能ではない。オーケストラ同様、サッカーの最も重要な使命は、サッカーを愛する者を創造することなのだ。
 サッカーはインターネットの恩恵を強く受け、ビジネスとして一部成功しているが、多くのオーケストラは社会の変化を金銭的利益に繋げられず、存続の危機にさらされている。だからこそ存在意義を強く自覚したともいえる。まるで非営利組織においてミッションが最重要であるように。

組織の成果は、常に外部にある。社会やコミュニティや家族は自己完結的であって、自らのために存在する。これに対し組織は、外部に成果を生み出すために存在する。*13

 本来スポーツや音楽は自己完結的であるため、成果が外部に生まれる組織として取り組もうとすると歪みが生じる。組織として社会の中でサッカークラブを存続させていくためには、この歪みを克服しなければならず、そのためにはコミュニケーションを通して外部に存在意義を示すことが必要で、さらにいえばその相手である顧客が必要になる。ドラッカーの名言である「顧客の創造」の根底にはこのような思想があった。

オーケストラが社会の中で、〈音楽の力〉をよりよく機能させるための活動は、オーケストラのもつ使命を果たす本質的な活動である。その活動は演奏を行うだけに留まらず、エデュケーションなどに拡大した。*14

 山岸によれば、第二次大戦後からオーケストラはそれに意識的になり、活動をホール内での演奏に留めずに、ホールから飛び出してのエデュケーションなどのアウトリーチ活動に広げてきた。顧客がどこにいるのかを知り、そしてその顧客に音楽を届けるためだ。そうすることが未来の聴衆を生み出し、ひいては音楽の存在基盤を固めることに繋がると彼らは信じている。
 さて話を戻すと、サッカーにおいても「コミュニケーション」は、観客が存在しないと始まらないといえる。そうであるならば、サッカークラブの使命は目の前の試合に勝つことだけにあるのではなく、むしろ本質的には「サッカーの力をよりよく機能させる」ことにある。それが自分たちの顧客を創造し、コミュニケーションを成立させ、結果的に足元を強固にすることに繋がるからだ。その観点で見れば、選手の貴重な時間を費やしたファンサービスも組織の存続には合理的だといえる。もちろんバランスは考慮すべきだが。
 またニューヨークフィルが顧客の創造のために演奏に加えてエデュケーションを行っているように、サッカー界でも教育的な活動が今後必要であろう。その意味では最近の副音声での解説ブームやJリーグジャッジリプレイは良い試みといえる。今後はオーケストラでも多く行われている子ども向けのプログラムのような、子どもたちにスタジアムで観戦することの面白さを伝えたり、そもそもサッカーをすることの楽しさを体験してもらう活動に期待したい。

おわりに

 以上、山岸の著作からオーケストラから学べる点をいくつかピックアップした。特に3つ目はスポーツビジネスが叫ばれる昨今、なぜ重要なのかを考える上で、改めて意識する必要があるだろう。なぜビジネスが、なぜマネジメントが必要になっているのか。組織の目的を再認識する必要がある。クラブはDAZNではなく、その奥にいる顧客とコミュニケーションしていることを忘れてはいけない。
 類似点を比較してきたが、当然ながら異なる点も多い。たとえばサッカー選手には引退があるが、演奏家には基本的に引退がない。それゆえ演奏家人口が増える一方で、顧客の創造だけでは彼らを支えるだけの基盤がもう作れないのかもしれない。コーエンが実演芸術においてプロセスのイノベーションの必要性を主張したのも納得がいく*15。
 「組織」という切り口から、サッカーとその他を比較することには可能性があると感じた。サッカーは組織なのだ。いつか病院とサッカークラブのような分析を、誰かが書いてくれることを期待したい。

参考文献

*1:P.F.ドラッカー(2007)『ポスト資本主義社会』上田惇生訳,ダイヤモンド社,PP.108-113.
*2:山岸淳子(2013)『ドラッカーとオーケストラの組織論』PHP研究所,p.38.
*3:P.F.ドラッカー(2007),p.66.
*4:山岸淳子(2013),P.42.
*5:P.F.ドラッカー(2007),P.110.
*6:山岸淳子(2013),P.143.
*7:平野将弘(2018)「サッカーにおけるゲームモデルとは何か?UEFAライセンス授業で学んだこと」https://note.mu/footycoachjp/n/n87fc40bf6caa
*8:河内一馬(2018)「日本にナーゲルスマンが居ない理由」https://note.mu/kazumakawauchi/n/nfd229d323a2f
*9:同上.
*10:同上.
*11:山岸淳子(2013),P.136.
*12:山岸淳子(2013),P.267.
*13:P.F.ドラッカー(2007),p.73.
*14:山岸淳子(2013),P.263.
*15:Cowen, T. And R. Grier (1996). Do Artists Suffer from a Cost-Disease. “Rationality and Society” 8(1),pp.5-24.


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