見出し画像

現状と、相対的現状

前回の投稿から約1ヶ月。

状況としては大きな変化はないが、強いて言うなら担当医が代わって1度診察を受けた。

方向性としては病巣の表出前にリンパ輸注をするということには変わりなく、その予定で今後も進んでいくことが想定される。

数少ないアップデートされる情報としては入院期間が前回と同じ約1ヶ月半が想定され、輸注の回数も3回になるということだろうか。

2週間に1度輸注され、その間様子見ということである。

この治療が正しいかどうかということについては、正直誰もわかることではない。

ただ現時点では、未来の私が「あのとき輸注をしておけばよかった…」という後悔がもっとも起きそうであることを考え、行きたくはないが家族の元を離れて入院しようと考えているところである。


▼ 現状を1年前の自分と比べて

現在の見方を客観的に考えると前述の通りであるが、一方で1年前の私との比較による相対的な評価をすると『とてつもなく幸せ』ということが言えると思う。

去年のデータを見ていると、1年前の同時期の私は「歩くこと」はもちろんのこと「字を書くこと」「自分で食事を摂ること」もままなっていない状況であった。

昨年の6月の末にICUから一般病棟に移り、寝たきりで食事排泄も誰かの助けを借りなければいけない状況…。

そこから見れば自分で食事を摂り、完全ではないが会社に行って仕事をし、一人では叶わなかったが人の力を借りて出張にも行き…という1年前の私が見ればありえないであろう行動をしているわけだから、これ以上何を言おうかというような気持ちである。

たとえそれが突発的な消化管全体の痛みに襲われようが、突然の蕁麻疹に襲われようが、口内炎だらけで食事を摂ることが困難になろうが、相対的に見ればもはや『幸せ』ということ以外に何の言いようもない。

▼ しつけと親のエゴの境界線

仕事はもちろんであるが、4歳を超えた息子の子育ても今の私の生きる意味になっている。病気によって失われた時間を取り戻すように向き合っているのであるが、その度に色々と思うところが出てくる。

様々なことを思うのであるが、おそらく「普通」という観点から見ると少しずれているような気がしている。

例えば、子供が何かしらの好き嫌いをしたとする。どこの家庭でもありえることだと思うが

「好き嫌いをしてはいけない」
「ちゃんと食べなさい」
「大きくなれないよ」

そんな言葉をかけながら親の都合に調整していくのは、ある意味大多数のことではないかと思う。

だが、私は正直そんなことを望んでいない。

以前Noteにも書いたのだが『生きると善く生きる』という観点から見ると、息子に「元気に育って欲しい」という視点以外の物事の考え方は、私から見るととても贅沢のように思ってしまう。

「どんなものでも食べるようになって欲しい」とか「全ての人に優しくして欲しい」とか「頭が良くなって欲しい」とか、普通の人が生きるにあたって「命がある」という前提に基づいた+αの部分が、どうしても私の心の底に納得感をもたらすことが出来ない。

…いや、人間が生きていくにあたって一般論の考え方は至極当然のことであると思うのだが、大病をした私からすると「そんなことは元気で生きてくれれば…」に比べれば、取るに足らないことだと思ってしまう。

それでも時々子供に「こうして欲しいなぁ」とか「こうなって欲しいなぁ」という思いが出てくることから、完全に「ただ元気で生きて欲しい」という根本にある欲求以外に欲が出てきているんだなと思う部分もあるので、今後この考えはどうなっていくのだろうかと少々先が見えないところもある。

私の病気が再発した時にどう思うのだろうかと考えるが、きっと「元気に過ごして欲しい」とただひたすら願うのではないかそう思う。

「取るに足らない小さなことにこだわらず、のびのび生きて欲しい」と切に願う姿が、今の私から想像される…。

▼ 子供とともに大きくなる自分でありたい

もう少し子供の話をする。

私の息子は新しい事に対する警戒心や抵抗感が少し強いようで、特に新しい場所はあまり得意な様子ではない。

その中でもトイレの環境が変わることを特に強く恐れていて、幼稚園でもトイレで用を足すということがなかなか難しいところがある。

普通の考えであれば、トイレトレーニング的なことを真っ先に思うのであろうが、最近の出来事で考えさせられることがあった。

「トイレが自由に出来ないと、旅行にも行くことが出来ないよ」という名目で、様々な形でトイレを自力でさせようと試みてきたのであるが、結果的に外出先でひたすらトイレを我慢する息子の姿を見ることになった。

通常であれば、数時間のトイレの我慢は小さな子供にはとても難しいことであると思う。

…おむつをしていれば安心して用出すことが出来るだろう。だが、息子はある程度の時間の外出はトイレを我慢するようになってしまった。

そして、家に帰ると安心したかのようにトイレに行って用を足す。

その姿を何度か見ていたときに、トイレが出来るとか出来ないとかではなく、トイレを我慢して何か体に変調をきたすことへの不安の方が明らかに大きくなってしまった。

親のエゴや世間体…いやしつけと世の中は呼ぶのであろうが、その結果子供に何かあるなんてあってはいけないことだと私は今確信している。

それからはなるべくトイレを促すことはするが、出来るだけ外出等の時に子供が気にせず安心して日々を過ごせるように様々な取り組みをしているところである。

「周りと違う」とか「親は何してるんだ」とかそんな小さなことは、もう本当にどうでもいい。

失われた時間を必死になって取り戻す私からすれば、本当にそんなことどうでもいい。

そう考えを改めてからは、まだ万全ではないが小さな旅行もすることが出来るようになってきた。

写真嫌いの私が写真もたくさん撮るし、自分も写真にも写るし…という形で思い出の瞬間を切り取るようにしている。

また入院すればこういうことも出来なくなるわけで…というよりかもう二度と出来ないかもしれないという思いで日々を過ごしている。

…この時間を、無駄にするようなことは決してしたくない。

▼ さいごに

入院まで残された時間はあとどれぐらいあるのかまだわからないが、おそらく年内にまた私は入院することになる。

家族とまた、離れることになる。

今のこの時間が、きっとどれだけ大切なことだったのか、かけがえのないことだったのか思い知る時間がまたきっとくる。

常日頃その思いを噛みしめながら、この残された時間を大切に生きていきたいと改めて思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?