明治生まれの女傑。 祖母のこと

今の滋賀県、甲賀や信楽や水口あたりから、18になるやならずで嫁に来た。嫁いだ相手は、元は庄屋で集落の顔役だった旧家の跡取りだった。それがどんな縁だったのか、今は知る人はもういない。

父母を早くに亡くしたので、嫁いでまもなく、弟と妹もやってきた。舅は豪放磊落な事業家で、小作人に田を任せ、自分は油屋や酒屋の株を持っていて、これも遠縁に店を任せていたようである。こだわって建てた家屋は、縁側を貼るのに職人が半月をかけたという。今日は仕事をしないのかと言われた職人が、煙管をふかしながら「今日はそういう天気ではない」と答えたとか。

夫は後妻の子で、先妻の忘形見の娘がいて、自分のきょうだいもいて、若い嫁には苦労の多い家だったそうだ。

夫は教師になりたかった。けれども戦争へとゆっくり傾いていく世の中はそれを許さず、師範学校を諦めて海軍へ行った。それでも先進の気概と商売気は父親に似たのか、鶏を飼って卵を取り、その卵を雛にかえすという「種鶏ふ卵業」を始めることにした。呉に行っている間は嫁が仕事を引受け、五男一女を育てながら働いた。

女手ひとつで家を支えるうちに、地所や田畑や商売は少しずつ人手にわたって行った。それでも六人の子どもを高校へやり、鶏の商売を続けながら、夫を南洋で亡くして靖国の妻となった。二番目の子が私の父である。

舅、姑で苦労した靖国の妻は、自分が姑となった時、自分以上の努力と気概を嫁に求めたらしい。長男の嫁は令和になって亡くなったが、晩年、忘れてしまうことが多くなった中で、姑に言われた罵詈雑言はしっかりと覚えていて、何度も「あれは嫌だった、辛かった」とこぼしていたそうである。長男は母よりも嫁を選んだ。大阪で一旗挙げると家を出た。この時、残っていたわずかな田畑を売って長男にまとまった金を渡し、その後も度々大阪を訪れては、商売の手伝いをしていた。嫁にしてみれば面白くなかっただろう。

後年、この長男である伯父が亡くなった時のこと、三男の叔父が葬儀の後、兄弟に怒りとともに打ち明けたのが、「母は兄貴のことばかり大事にして、自分たちは兄貴の小間使みたいなものだった」という話だ。この叔父は生涯独り身で、文字どおり兄貴のためにいくつもの仕事をして、兄貴を見送って間も無く亡くなった。ヒヨコの性別鑑定という珍しい仕事で海外を飛び回っていた人だった。この叔父のことはまた改めて書きたい。

父の兄弟の中で「兄貴」「兄さん」と呼ばれたのはこの長男だけで、あとは互いに名前で呼び合う兄弟だった。この伯父は書も絵も達者で、満洲へ従軍した時、上官に「字の上手い者は前に出ろ」と言われ、一か八かで名乗りを上げたところ、それ以後は後方で専ら記録係をしていたそうだ。そのために命をながらえたと笑っていたが、彼の太腿にはずっと銃弾がひとつ残ったままだった。

さて祖母のことである。戦時下に商売をやりながら子どもを育て、田舎の付き合いもこなさなければならなかった。弱音を吐いては負ける、弱みを見せては付け込まれる、鎧のように強さをまとって生きることが習性になった。歯に衣着せぬ物言い、遠慮を知らない態度、煙管から細く吐く煙の合間に、人の言葉の裏を読んで言葉を吐く。他人よりも身内に対して、その言葉はいっそう厳しかったそうだ。

長男の嫁はいびり倒して追い出したが、次男の嫁は職業婦人であった。しかも自分と同じような「靖国の妻」が姉妹二人を小学校教師と県職員という堅い仕事に就かせた、その妹の方だったので、この次男の嫁も負けん気では負けていなかった。それが私の母である。母は嫁いで来たころ、近所の女衆に「辛くないか、いじめられていないか、あんたは逃げ出さずに本当によくやっている」と何度も囁かれたと言っていた。

書き始めると、いろんなことを思い出して、あれこれ書きたくなるものですね。おじ達のことや父のことも少しずつ。


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