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「自分とは何か?」「他人のつぎはぎだ。」

 自我に対しては好きとか嫌いとかない。お風呂が好きとかそういう感じで「自我が好き」とは言えない。それは、自我という言葉のイメージが人それぞれで、はっきりコレと言えないからだろう。よく分からない概念だ。
 でも、「自我」という言葉は、どちらかと言うと嫌い。と言うのも、「自我」はアイデンティティとか人格という言葉と似たような感じで使われることがある。そこから、「自我」と言うと何か単一の素材でできた塊を想像させられる。その単一性のイメージが感覚に合わない。

 人間は多面的だ。だから、自我も多面的で、複数性を内包している。家族といる私、友達といる私、会社で働く私、『AKIRA』を読む私、飛行機を目で追う私。私、私、私、それらすべての私には一貫性がない。それぞれの他者(=他人、環境、モノ、漫画、言葉などなど)に応じて、対応する「私」が生まれていく。

 自我は他人のつぎはぎだ。

 他人(正確には「他者」だが、「他人」の方が直感的でいい)に応じて現れる「私」は、一人ぼっちの私からは生まれないし、他人を切り離して「私」を考えることはできない。自己認識はいつも、他人ありきだ。他人を介してしか私を解せない。ゆえ、私の一部である「私」は、他人のお下がりみたいなもんだ。お下がりのボロ布。という、部分部分の「私」。数々のボロ布のつぎはぎ、ごわごわの塊が、私という自我の全体像なんだろう。そう思うのが、しっくりくる。
 そこから、個性というものを考えると、個性とはパッチワークの妙だとも思える。あらゆるボロをリメイクして確立される、どこまでも未完成な自我は、完成途上であっても個性的だ。
 
 自我に多彩な色合いを認めると、アイデンティティという概念の足場がなくなる。多様なアイデンティティを持つ私、というのは矛盾してるし。
 アイデンティティは、単一の価値観を持つ共同体の内部にあって初めて、意味をなす概念なんだと思う。

 多様化した社会。価値観は部分部分しか共有されなくなった。私という存在のリアリティは、相手にすんなり届かない。届かないゆえに、実感が薄れる。誰も彼もが遠い存在に見え、自分の立脚する地平が共有されていない不安を感じることもある。
 しかし、自我を他人のつぎはぎと捉えれば、人との違いもあまり気にならなくなる。違いに悩んで、自分が分からなくなるよりも、何かしら思い付いたこと、気が向いたことをなんとなくしていく。取り留めのない些細な行為の中に、何気ないリアリティがある。
 地上、生活を蔑ろにして、観念(情報?)ばかりを弄るのは無限や虚無を呼び寄せるだけだ。頭ばかりで、五感を自分の部屋に忘れているようではいけない。身体に基づいて、身の回りの何気ない生活をよりよくしようとする。それだけで、いいじゃないか。

 なんか、観念的になりすぎた。あっ、やっぱり足元が、いつもより薄くなってる。「あらまあ。
」(私一同)

 次回は、「靴下」でやります。

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