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生きてる父の遺影スプリングコレクション。

「もういいよ、おれなんて撮ってどうするのさ」
「いつかの遺影だよ!」

親子でそんなことを言い合いながら、毎年お花見をしている。

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わたしが写真を撮りはじめたのは、大学生のころ。興味を持って家電量販店でカメラ売りの少女になった。少女という歳でもなかったけど、なにも知らぬ新人大学生は、歴戦の強者販売員に囲まれた少女と言っても過言ではなかった、ほんとうに。圧倒的弱者!

未熟ながらも頑張ってカメラを売って、得た知識とバイト代でカメラを買って、とにかくなんでも撮っていた。

初々しい写真を見返すと、大学の友だちや花、風景、街をゆく見知らぬ人が被写体になっている。そのころは、父を撮ろうという気持ちはそこまで強くなかった。写りたがる父でもなかった。社会人になるまでずっと実家に住んでいたのに、父の写真はすくない。

父を意識的に撮りはじめたのは、わたしが社会人になって一年以上過ぎ、からだを壊してからのこと。

病院から「うつ状態・適応障害」の診断書が出されて、大阪の会社を休むことになり、動くことも億劫でただ天井を眺めて過ごしているわたしのもとへ、横浜から父が様子を見に来てくれた。車で。

できる範囲でいいから、外に出ること。からだを動かすこと。そして遊ぶことも大事してほしい。そう医師に言われていたので、父とふたりで、一緒に関西を観光した。

そのときの写真を見ると、父をよく撮っている。

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それまでと、わたしのなかでなにかが変わった。

心細いとき、駆けつけてくれた父。

頑固な父とは衝突も多く、大学生のとき、わたしはどうしても実家を出たかった。入社してすぐ仕事で大阪へ引っ越すことになってうれしかった。

そしてともに暮らさなくなった父の顔を、うつ状態の無防備な自分でまじまじと見ると、彼が歳をとっていることに驚いたのだった。そう長い時間、別々に暮らしているわけでもなかったのに。

老いて性格もまるくなって、諦めも早くなって、体力も落ちてきている。しわも白髪も増えている。

一緒に歩いて父が歳をとったと実感しながら、なぜかむかしの若々しい彼の顔を思い出せないことに愕然とした。

父を撮らないと。

それから、体調が戻ってからも一緒に出かけるたび、父の写真を撮るようになった。もちろん、そんな娘に父は戸惑った。「なんでふつうに公園に散歩に来て、おれにカメラを向けてくるんだ」と不思議がっていたし、ちょっぴり嫌がってもいた。

あるとき、鎌倉の披露山公園で、木漏れ日の中ではにかむ父を撮った。すぐにカメラのモニターで父に見せた。

「ねえ、いい感じに撮れたよ!」
「おお、じゃあそれ、遺影にしてよ」

とくに病気もなく健康な父が冗談めかして言った言葉がその後、わたしの口実になった。

遺影。そう、いずれ遺影が必要だ。だから父の写真を撮らねばなるまい。

「あっち向いて立って」
「はいはい」
「歩いてみて」
「まだやるの?」
「遺影だから!」

父の写真は増えていく。

そんな中でここ数年恒例化したのが、お花見をしながらの撮影だ。これをわたしは『遺影スプリングコレクション』と名付けた。これからも毎年撮らせてほしいから、ちょっとかっこつけて呼んでいる。

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最近の悩みは、父の服装が毎年ほぼ同じで、そこまで変化がないことだ。いつ撮ったのかわからなくなる。せめてお花見の場所を変えるべきだろうか。なんて考えることもあるけど、毎年おんなじような写真を撮れる幸福を感じている。

父はせっかちで、アングルを変えながら遺影を撮り続けるわたしを今年も急かす。早朝にドライブして散歩しに行った桜並木の下、「もういいでしょ」とプンプンしていた。でも動じるわたしではない。こっちには口実があるのだ。

「仕方ないよ『遺影コレクション2020』なんだから」
「そんなにたくさんあっても、遺影は一枚しか使わないでしょ!」
「使うよ! お葬式では、CMみたいに、小田和正の曲をかけて、スライドショーにして何枚も使うから!」

反射的に口から出てきた言葉をイメージしてみる。ら〜ら〜ら〜ららら〜♪と曲が頭には流れているものの、全然、お葬式のイメージは湧かない。父もわたしも、いつか死ぬ。必ず死ぬ。でもイメージできない。

残された時間がどれだけあるのか、それは誰にもわからない。

ただ、『遺影コレクション』を撮っているときは、健康な父と出かけて、話して、シャッターを押せるよろこびを感じている。

つかめない時の流れを、一瞬だけいとおしく撫でられたような気持ちになれるのだ。

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