白いのが気分なのかな。

実家でゆったり起きた。ここ2年ちょっと実家に住んでいた妹が引っ越して、なんだかがらんと広く感じるリビング。父は久しぶりにひとり暮らしになった。じぶんのためだけに食事をちゃんとつくるか心配だけど、家事はなんでもできるひとなので、そこは大丈夫だと思いたい。

父がこのあいだネット通販で買っておいてくれた、白いスニーカーをプレゼントしてくれた。パジャマのまま、履いてみる。

身につけるものを厳選している最中だから、「それ、いま買ってくれなくてもいいのに」というわがままな娘としての気持ちがゼロではなかった(父よ、ごめんよ)。だけど、ちょっと前に山田ズーニーさんのコラムを読んでいたから、「ありがとう」とストレートに言えた。

もっとスペシャルに共感しなくちゃ、
もっと全力で寄り添わなくちゃ、とりきんで、
いま悩んでないのに、いま悩んでるとすりかえた。

「りきんだらダメだ。」

りきんだから、自分の表現は出来ない。
私がいつも表現教育で言ってることではないか。

人は、正直な想いを表現できているとき歓びを感じ、
偽れば、微量でも疲れる。ストレスが溜まる。

たまの里帰りで、
自分以上に良い人間にふるまおうとして、
無自覚にりきんでしまっていた。

りきめば不自然になり、不自然は偽りに通じ、
微量でも偽れば、積もり積もって互いに疲れる。

「実家でこそ平常心、自然体、正直でいること大切。」

Twitterでそんなようなことをつぶやいたら、
「ひさびさに実家に戻ったわが子が、
自然体でいてくれたら、何より親は嬉しいのではないか」
とコメントをくださった方がいた。

ちょっと泣きそうになった。

子が気を遣えば親も使う。
こんどこそ、自然体のいつもどおりの私を
実家で生きようと思う。
そうだ、大切な人のことだからこそ、
親孝行という名のエゴに突っ走りがちな私だからこそ、

立ち止まって、考えなければならない。

それには、書くことだ。
どんなにりきんでうわすべってるときでも、
書けば、考えることができる。

「私たちには、
書くという想いをカタチにする装置がある。」

考えて出た言動は、つくづく本意が表れて、
気持ちいいなあ! と私は思う。

このふたつのコラムを読んで、胸が痛くなった。

父はわたしに「与えたい」のだ。ひとりで、最近使い慣れてきたスマホでスニーカーを選んでおいて、わたしに「これ買ってあげる」と会ったときに言うのを待っていた。そして、実際に買って、靴ひもをきれいに通して待っていてくれた。

「うん、いいじゃん」

パジャマのままフローリングの上で試し履きしたわたしに、父がうなづく。

「汚しちゃわないかな」
「いいよ、汚したって」

白いスニーカーは、父に「これを買おうと思う」と見せられたときには、そんなにほしいと思っていなかったのだけれど、履いてみたらいまの気分にぴったりだった。

白い。まっさらな気分。

家に帰ってきたら、おととい買った百合のつぼみが、黄緑からうっすら白くふくらんでいた。明日には咲くだろうか。

この百合も、百合がほしいとは言ったものの、白百合を選んでくれたのはお花屋さんの店主さんだ。

白いものが集まってくる。わたしがそういう気分ってことなんだろうな。

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