スケッチブックの行方
カロンという、パリで花屋を営んでいる若い女性から、私は一枚の手紙をもらった。内容は、最近買ったスケッチブックが、無くなってしまったから探してほしい、というものだった。しかしスケッチブック程度、君が探せばいいだろうと、私は返事をした。
すると、手紙はすぐに返ってきた。どうやら、そのスケッチブックは、とても特別で、持ち主の言うことをすこぶる聞かないというのだ。どこがどう、持ち主に対して不忠実なのかというと、例えば、赤を塗ったのに、白のキャンバスに青を写したり、線を真っすぐ引いたのに、よれよれと蛇腹を描いたりするのだという。
そんなのスケッチブックではない、偽物のスケッチブックなぞ、無くしたのならば口惜しくはないだろうと思ったが、どうやら、カロンはそんな意地悪で悪戯なスケッチブックにとても愛着を持っているようで、手紙の文末あたりは、どうして探してほしいのかの理由が事細かく書いてあった。
私は彼女の思いに押され、仕方なく、虫メガネを持って、スケッチブックが向かったという、ボルドーの方に探しに出かけた。
途中、ネコに話しかけられた。
「奴はボルドーには行ってない」
「君は何の話をしているんだ?」
「スケッチブックの事だろう? 君の持つ、ホラ、手紙にそう書いてあるだろう? 私の友人の黒猫も、あいつに手を焼いてね。随分嫌な思いをしたらしい。で、追いかけまわしたら、奴はボルドーに向けていた踵を反対方向にして、リールの方に逃げたそうだよ」
「スケッチブックに踵などあるか」
「君程度に足があるのならスケッチブックにも足があったっていいだろう?」
「バカにしやがったな」
「猫なので」
そこで私は不思議に思った。
「それと何故、スケッチブックと猫が関わりを持っているんだ」
「絵を描くのはいつだって人ばかりじゃない」
「でも、一体全体猫はどうやって絵を描くんだ?」
「鳴き声だよ。ホラ、ニャーゴー。ニャーゴ」
私は呆れて、リールの方に向かった。
途中、フランス国旗を折りたたんで、それを棒きれにひっかけて回し始めた床屋に呼び止められた。
「よお、どこ行くんだい」
「少し探し物をしているんだ。君は、ひねく者のスケッチブックを見なかったか?」
「見てないね。でも、そんな不思議なスケッチブック、探して何になるんだっていうんだい」
「持ち主が恋しがっててね。持ち主は遠くには行けない。だから、私が代わりに探してあげることになったというのだ」
「じゃあ、もし僕がそのスケッチブックを見つけたら、僕は君になれるのかい?」
「そういうことにするよ。それじゃあ」
床屋は寂しくなった頭を少し撫でながら「いってらっしゃい」と声をかけてくれた。私は風に消えそうになっていた男の声に、わざと聞こえないふりをした。
しばらくして、私はアミアンの大聖堂についた。そこには、走り疲れて、壁に寄りかかるあのスケッチブックがいた。ページとページの間から、針金みたいに細い足が生えていて、表紙と裏表紙からはウクレレの弦ぐらいに弱い腕が飛び出してぴょこぴょこと踊っている。
「君か。カロンの言っていたスケッチブックというのは」
「なんだ。お前、カロンの事を知ってるのか」
「私は君の主人に頼まれ、君を回収しに来た」
「なるほど。カロンは随分退屈な奴だな。私をもう少し散歩させていれば、それこそ、ゴッホやフェルメール、ゴーギャンを越えた、素晴らしい絵画を描くことが出来たというのに」
「ほお」
スケッチブックは、私と、カロンを挑発するような口ぶりをした。私は話に興味を持ったので、少し身を乗り出してみた。バラ窓の回転に、目がぐるぐるしそうになったが、私はこっそり持っていた気付け薬で元気を出した。
「私はね、随分屁理屈に聞こえるだろうが、勉強が好きでね。こうして、色々な所を旅してまわって、そこの景色を描いては自分の知識に変えていくのさ。君だって、カロンがあの花屋から出て行けないことは良く知ってるだろ? 話すにも、手紙を使わなきゃいけないだろ? 彼女は不十分なんだ。私で描くにしては、あまりに筆の腕が鈍っている」
「では、彼女のために悪戯して、家の外へ出て冒険をしようとしたというのか」
「君がそう解釈するなら」
「言い訳じみて聞こえるなあ。私には。なにより、君がカロンの所有物になり、家に出られない事情も、話せない事情も、描く筆の鈍さについても理解しているのならば、余計、君はそこから出たくはなかったはずだ」
そう言うと、スケッチブックは黙ってしまった。あまりにしゅんとするので、私は言いすぎたかと思って、一つ咳をしてみて、反応を伺った。私の乾いた声が、大聖堂にこだますると、神様とよく似た格好の人が私の右横から出てきて、ふいに頷いて見せた。
「確かに、君の言うとおりだ。カロンは、いろんな事情があって、パリの花屋から出て行くことが出来ない。君が、世界の全てを写してそれをカロンに見せたというのであれば、何故初めから、事情を彼女に話さなかったんだい」
「恥ずかしかったのでも言うのか」
私と、神様に似た人の二人でスケッチブックを責めると、スケッチブックはペラペラと真っ白なページをめくって見せた。そこには、彼が写したと思われる絵画の数々が記されていた。私は、一瞬しか絵を認めることは出来なかったが、その出来に感動を覚えた。確かに、彼の言うとり、あと一味あれば、ゴッホもフェルメールも、ゴーギャンも越えられるかもしれない。
「私は己を見出した。私はスケッチブックという生物であることを理解して生まれることが出来た。ならば、独立した意識を持ち、独立した行動をすることだって、許されるはずだと信じた。恥じらいといえば近いかもしれない。だが、これに後ろめたさはなく、これが私の成すべき行為であったとして、胸を張れる」
「君は紙だがね」
神様に似た人はそう言うとこっそりと私の後ろに隠れて、家に帰ってしまった。
「なので、許してほしい。私はもう少し北へ行く。ロンドンを越え、ヘルシンキへ行こうと思っている。満足できなければ、ロシアを周って、パリに帰るつもりだ。代わりに、私のこのページを渡そう。あの花屋の窓から見えた、向かいの、彼女が恋をしている若い革職人の横顔を写した絵画を一枚渡す」
「まるで賄賂だな」
「理解してくれるか」
私はスケッチブックの渡してきた紙を受け取った。確かに、私の知る、あの革職人の横顔がそこにはあった。私はカロンのことを少し考えたが、このスケッチブックの事情も、そこに組み込んでみた。
「分かった。カロンには、君の事情について伝えておくよ」
「ありがとう。助かるよ。ところで」
スケッチブックは立ち上がって私に尋ねた。
「さっきの人は誰だい?」
「さあ」
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