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表現運動のゴールとして「発表会」は必要なのか?

「表現運動」や「ダンス」の単元は、多くの体育指導者の頭を悩ませるものである。何を指導すべきかわからない、どのように指導すべきかわからない、そもそも自分が踊れない…など、現場が抱える問題も広く、深い。

したがって、これまでは運動会の表現種目の練習をそれに充てて「しのいで」きた。学年や学団など大勢の子供が音に合わせて一斉に踊るその様は、たしかに「映える」ものだし、観る者には大きな感動を与える。しかし、当の子供たちには一体どのような体験が残っているのだろうか?練習を重ね、最後に「発表」をするという活動が、果たして「生涯スポーツへの動機づけ」としてどのような価値を持つのか?
本稿は、この点を掘り下げて、表現運動における「発表会」の意義を再考する。

「表現・ダンス」は、生涯スポーツではどのように存在するのか?

体育における活動の在り方を考える際には、必ず「それは体育の”外”でどのように存在しているのか」を考えることから始めなければならない。なぜなら、体育とは社会に存在するスポーツの楽しさを「再現」する場であるからだ。つまり、「体育における表現運動の楽しさ」は、「表現運動(またはダンス)を学校の外で満喫している人が感じている楽しさ」とイコールでなければならない。

では、それは具体的にどのようなものなのか。まずは社会の中にある「表現」や「ダンス」をする場面を分類すると、大きく3つに分けることができる。1つは、バレエ、新体操、ヒップホップなどのストリートダンスといった「習い事」としてできる表現・ダンス体験がある。2つめに、舞台や演劇といった「演技(ロールプレイ)」をする表現体験がある。そして3つめが、ディスコやカラオケ、ライブなどで音楽やリズムに身をゆだね「グルーヴ」を味わう体験である。

①「習い事」としてできる表現・ダンス体験
幅広い年齢層がこの「習い事」として表現体験をしている。子供のころからバレエやダンスを習い、学生時代のダンス部・ダンスサークルの活動に青春をささげる人も少なくない。それらは社会人になってからも続けられるものだし、中高年代になってからフラダンスを始め、長く続ける人もいる。このような習い事としての活動は、ほとんどが「発表会」を定期的に開催し、観客の前で練習の成果を披露している。

②「演技(ロールプレイ)」をする表現体験
このジャンルの表現体験は、基本的に「BGMがない」中で行うものである。いわゆる”役者”とよばれる人々が行っているものであり、特定の人物像や対象のイメージを脳内に広げ、それを体現するという表現活動をしている。これも原則として「見せる」ための表現であり、舞台のように観客の目の前で行うものと映画やドラマのようにスクリーン越しに披露するものに分けられる。

③「グルーヴ」を味わう体験
「グルーヴ(Groove)」とは、音楽のリズムや調子に合わせて「ノる」ことを意味する言葉である。ライブ会場でアーティストの曲を聴きながら、体を揺らしたりペンライトを振ったりすることがこれにあたる。他にもカラオケで友人とノリノリで歌ったり、鼻歌をうたいながらつま先でトントンとリズムをとったりすることもグルーヴである。特に何かしらの振付があるわけではないが、無意識に自然と体を動かしてしまうのが、このグルーヴの特徴ともいえる。

「見せている」意識があるかどうか

ほとんどの人がこの3つの分類のいずれかを生涯を通して満喫していることだろう。しかし、その内訳を考えると、③>①>②の順で人口に差があると考えられるのではないだろうか?では、どうして③はより多くの人にとって満喫できるものなのか。

答えは、「見せている意識がないから」である。
③が①②と根本的に異なる部分は、本人の意識の違いである。①は「発表会」、②は「作品」という場を通して、観客に「見せる」ために表現をしている。それに対して③は、リズムにノって表現している姿を他者に「見せている」という意識は全くない。カラオケやライブ会場など、場面によっては実際には他者から「見えている」のだが、本人は「見られている」意識はない。このように内向意識が優位になっている状態の表現体験は、多くの人にとってハードルが低く、楽しみやすいものとなる。

ところが、ここに「見られている」という外向意識が入り込んできた途端に、本人の中に「羞恥心」が芽生える。そうするとグルーヴ感が一気に薄れ、表現体験を楽しむことができなくなってしまうのである。では、①や②の体験をする人々はどうして「見られている」ことを楽しめるのか?

「発表」とは好意的なフィードバックを期待して行うもの

①や②における表現やダンスは、観客に「見せる」ためのパフォーマンスとして行われるものである。「見せる」ということは、観客からのフィードバックがある。客席からの盛大な拍手や「感動しました!」などの声かけ、あるいはリピーターやファンの増加といった間接的に感じられる評価もある。ダンスなどに限らず、自分が「発表」を行うときには、必ずこれらのフィードバックがくることを想定しており、好意的なフィードバックを期待している。すなわち、自ら「発表したい」というモチベーションになるときは、好意的なフィードバックがもらえる自信があるときであり、発表は承認欲求に基づく行為となるのだ。

①や②で表現やダンスを発表する人々も、観客に向けて「さぁ見てくれ」という強い外向意識を伴って披露している。そして、「表現すること」よりも、拍手や称賛など、その跳ね返りとしての「好意的フィードバック」に満足していることが多い。

こうして比較してみると、③と①②では楽しむポイントが明確に異なることがわかる。周囲の人々、すなわち観客の存在を意識しないグルーヴでは、表現の「最中」を楽しんでいる。一方で、観客の存在を意識している発表では、表現した「結果」に満足することを目指しているのだ。この違いはまさに「Egalitarian Sport」と「Elite Sport」の二分と同一である。まずは結果を気にせず行為そのものを楽しむ Egalitarian Sport を満喫できるようになってから、「希望者」だけが結果を求める Elite Sport の領域に進出すればいいのだ。①②と比べて③の人口が圧倒的に多いのも、③だけが Egalitarian で①②は Elite の領域に属するからである。

体育での表現運動に「発表会」は必要なのか?

ここでようやく体育の話にもどる。しかし、ここまでの話を読んでいれば、体育における表現運動の「発表会」がどのような意味を持つかは自明だろう。体育における表現運動やダンスで味わわせるのは「表現することそのものの楽しさ」であり「表現やダンスでほめられる気持ちよさ」ではないはずだ。ならば、「ほめてください」といわんばかりの「発表会」を設定する必要などないのである。

まだ表現やダンスをすることに慣れていない子供たちにとっては、「見られている」意識はむしろハードルを上げるネガティブな要因となってしまう。表現やダンスの充実を妨げる最大の要因は、子供たちの「羞恥心」である。ならばそれを「克服」させるのではなく、それを「発生させない」ような環境で行わせることが重要なのだ。だが実際には、多くの現場で「褒められることは子供にとって重要だ」という声も根強くある。これは非常に押しつけがましい。羞恥心を抱えてダンスを発表し、仮に褒められたとしても、本人に最も強く残るものは「恥ずかしかった」である。ダンスを披露することに恥ずかしさを覚えない子供にとってはじめて、発表会は意義のある活動となるのだ。

本稿が最も伝えたいことは、学校の外では大多数の大人が③を楽しんでいるのだから、学校では子供にも③の楽しさを再現していくのが本来の体育の意義だということである。私が常々述べている「体育をよりよくするヒントは体育の外にある」とは、まさにこのようなことを意味している。運動会の新たな形が模索されている今だからこそ、ダンスの発表としての表現運動ではなく、「見せる」がゴールではない表現運動を考案し、実践していただきたい。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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