主体的な者と責任ある者

【主体性】は、現代の学校教育には欠かせないキーワードだが、極めて抽象的な概念でもある。似たような文脈でよく用いられる「自発的」「自律的」「能動的」などの用語とは何が違うのだろうか。主体性の程度を示す「主体的な状態」とは一体どのような姿だろうか。

これが不明瞭のまま観察評価をすると、ただ楽しそうにしているだけの子や(内心めちゃくちゃ不満に思っていても)言われたことをきちんとこなす子がA評価をもらうことになりかねない。主体性が重要であることに疑いの余地はないが、ならば尚更明確な定義が必要である。本稿は、主体性とより関連の深い「責任」の概念を参照しながら「主体性」の定義を試みる。

1.中動的な状態

主体性の定義に必要な周辺領域の整理から始める。今回の目的達成を支援してくれる重要項目の1つが「中動態」とよばれる状態である。これは英文法でよく耳にする能動態・受動態のどちらでもないものとして扱われ、国内では國分功一郎氏によって研究・整理されている概念である。やや難解ではあるが、本稿に必要な部分に限って紹介する。

能動態・受動態とは、「する・される」の関係を表し、行為の所有者とその対象を示す概念である。「I walk」と表現した場合、「歩く」という動作を「私」が所有しているという関係になる。「I am admired by you」と表現した場合、「褒める」動作を所有しているのは「あなた」であり、その対象となるのが「私」という関係になる。では、「私」が所有している行為が「私」を対象に行われた場合、それは能動的・受動的どちらになるのだろうか。

この矛盾を指摘し、能動態の別の対義語として存在するのが「中動態」である。能動態・中動態の対は、「行為が発生する場所」による区別であり、自分が発した行為が自分の上に起こるか、自分の外(相手や環境の上)に起こるかで区別をしている。例えば、「I cut a branch」は「枝を切る」という行為(=枝が切れるという現象)が私の外で(木の上で)発生するため、このような状態は能動態とされる。一方で、「I dream a dream」は「夢を見る」という行為(=夢が再生されるという現象)が私の中で発生するため、このような状態を中動態と呼んでいる。

2.行為の源泉はどこか

中動態とは、行為の発生場所による定義であると紹介した。では、その行為を発生させた要因の所在地はどのように分類できるのか。これも同様に、自分の中なのか、自分の外なのかで区別することができる。自分の中にある要因(内因)とは、意志や内受容感覚などがある。自分の外にある要因(外因)とは、他者の行動や周囲の環境など多岐にわたる。

仮に同じ行為をとっていたとしても、この内因と外因のバランスは常に流動的で個人差も大きい。それを理論フレームとしてまとめたのがDeciによる「自己決定理論(self-determination theory)」である。

自己決定理論における4分類

例としてドッジボールに参加するときのモチベーションを比較する。最も内因の影響が強い内的調整の場合、とにかくドッジボールがやりたい!という意志に従順な行動選択である。遊びを選択式で決めるとしても、選択肢の中にドッジボールがあること期待するくらいの心理状態である。次に内因の影響が強い自己同一化的調整の場合、選択肢の中からドッジボールを選んで行うというものになる。この中からドッジボールだなと、まずは環境(選択肢)に依存してから意思決定をする。

外因の影響が強くなる取り入れ的調整の場合、希望はしなかったが結果的に決定したドッジボールを受け容れて参加する行動選択になる。あるいは出された選択肢の中から消去法でドッジボールを選ぶという状況もこれにあたる。最後に最も外因の影響が強いのが外的調整である。これは「ドッジボールをやりたくない」という逆方向の意志が強く存在するが、その意志(内因)に従えないほど大きな影響が外因によってもたらされる場合である。

このグラデーションの中で、自分の「ドッジボールへの参加」という行為が内因・外因どちらによって決定されたのかを判別することができる。本稿は「主体的」がテーマであるが、この時点であなたの考える「主体的な行動決定」とはどこに位置付けられるだろうか。

3.「責任」の本当の意味

次に「責任」という概念を検討する。責任という言葉は、よく自分の行為に向けられた言葉として用いられる。自分の意志でとった行動には責任を持てという使われ方をよくするが、果たしてそうだろうか。

責任とは、英語でresponsibilityと訳される。この語は「応答 response」+「可能 ability」の2つが合わされたものと捉えることができるが、ここで1つの疑問が浮かぶ。日本語で責任といえば「自分の意志(内因)」に結び付けられるのに対し、英語の語幹をみれば「応答」が基盤となっている。つまり、行動のスタート地点が日本語では自己の内側なのに対し、英語では自己の外側を指しているのだ。これが一体何を意味するのか。

responsibilityの意味を語幹どおりにとれば、環境や他者からの刺激に適切に応答すること、となる。これは自己決定理論における「自己同一化的調整」や「取り入れ的調整」に近い状態となり、外因からの要求にうまく意志(内因)を織り混ぜながら行動を選択することを意味する。これをそのまま「責任」と訳すのであれば、責任とはまず環境などの外因に依存することで成立することになる。つまり、責任の拠り所は意志(内因)ではなく環境(外因)だといえる。

4.受動的ではなく中動的

外因に依存するのであれば結局受動的なのではないかと感じた人がいたかもしれない。しかし、それは誤りである。なぜなら、行為のきっかけは外因であるが、それへの応答の仕方を選んだのは紛れもなく自分自身だからである。自分の意志に関係なく相手の行為の対象となった場合が受動態であり、環境に”誘導”されながらも最終的には自分の意志で行動選択をしている場合は中動態として考えられる。

すなわち、自己決定理論の4分類を整理すると
①内的調整 = 能動態
②自己同一化的調整 = 中動態
③取り入れ的調整 = 中動態
④外的調整 = 受動態
とすることができる。また、自己同一化的調整と取り入れ的調整の差は、外因に対する前向きな応答か、消極的な応答かという点にある。前向きに応答する自己同一化的調整の方が、よりポジティブな感情を伴いやすく、行動の結果にも満足感を得られやすい。

5.主体性の定義

いよいよ本題である「主体性」の定義へと向かっていく。現在の学校教育が期待する子どもの「望ましい姿」は、
①その教科の学習にいきいきと取り組んでいる
②(教師が描いた)授業のゴールに積極的に向かおうとしている
③自分自身で課題を見つけ、それに向けて取り組んでいる
④他者との関係を大切にしながら学習に取り組んでいる
などの表現ができるのではないだろうか。

これまでの検討の結果を踏まえると、それぞれの項目は対教材、対学習課題、対人などの学習環境との関係性の中でみられる振る舞いとなる。いずれも外部環境の方がスタート地点となり、提示された課題への適切な応答(=すすんで取り組む)、協働する他者への適切な応答(=協調性)、自己の現状への適切な応答(=自己分析・向上への努力)がみられることを期待している。

すなわち、教師らが描く子どもの「望ましい姿」とは、「自己同一化的調整に位置付けられる中動態であり、責任ある者として振る舞うこと」である。これをそのまま「主体性」として定義できるだろう。

6.まとめ

子どもが自らすすんで学んでいる状態と、子どもが自分のやりたいことをやっている状態は、どこか似て非なるものであると感覚的にわかる人は多い。本稿の言葉を借りれば、前者は中動的で、後者は能動的であると区別できるだろう。なぜ能動的ではいけないのか。それは、能動的(またはその対極の受動的)は自分の意志が出発点となり、外部環境がそれを許さないときに非常に大きなストレスを感じることになるからである。

ゲームを楽しんでいるとき、中動的な子は約束の時間でそれをやめることができる。だが能動的な子はそれができない。理由は簡単である。ゲームをするという行為を、時間という外因に従っているか、欲求という内因に従ってるかの違いがこの差を生んでいる。約束の時間になってもゲームをやめられない子を「主体的」とよぶことはできないだろう。

環境に依存しながらも、目の前の状況に応じて自己実現に向けた最適な行動を選択できる人こそ真に主体性の高い人間であり、すべての子どもにそれを目指すことが求められている。まずは教師自身がこのことを理解し、自分自身を主体性の高い人間にするところから始めてみてはいかがだろうか。きっと今までよりもストレスなく、ウェルビーイングな人生になるだろう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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