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運動会の「二層構造」を解き明かす

昨年度は多くの自治体が運動会の中止や縮小を余儀なくされた。新年度になって、新しい運動会の形を模索する必要に迫られている。「新しい様式」への変革が言われるようになって早一年が経ったが、本質を残したまま上手く「フォルムチェンジ」できた運動会はどれだけあるだろうか?本質を理解していない人が勝手に表面だけをいじくり、結果的に「骨抜き」状態で身もふたもない運動会になってしまった学校はないだろうか?

新しい運動会の姿を模索する前に、まずは「運動会」という年1回の特別な行事が持つオリジナリティーを明らかにしたい。結論から言えば、それは「二層構造」である。本稿では、運動会の二層構造とはどういうものか?それが参加する子供たちにどのような影響を及ぼしているのか?を解明することを目指す。

イベントの基本形は「二層構造」

運動会に限らず、あらゆるイベントの基本形がこの「二層構造」になっている。そのためより一般的な二層構造の解説から始める。

「二層」とは、イベントを構成する人々を内側の層と外側の層に分けたものを指す。内側には、スポーツ選手や演者など、何かしらのパフォーマンスをしている人が当てはまり、外側には、いわゆる観客が当てはまる。このように「内=パフォーマー(する人)」「外=観客(みる人)」の共存が、イベントの基本構造となっている。

なぜ二層構造がイベントの基本なのか?サッカーの試合で考えるとわかりやすい。日常的な練習は「内=選手」のみで行われるが、大会や公式戦となると「外=観客」の存在が増え、二層構造になる。そして、日常的なサッカーが、外側の層の存在により非日常的な空気を帯びる。この非日常感こそがイベントの本質であり、その独特な雰囲気は「二層構造」によってもたらされるのだ。

では、ここでいう「独特な雰囲気」の正体とは何か?それは、外=観客の体験を捉えることでわかる。サッカーの試合の観客は、自らサッカーをプレーしないが、サッカーを楽しんでいる。つまり、「外から内を楽しむ」という体験をしている。その具体的な現象を詳細に記すと次のようになる。

①内で行われている競技に期待や関心を持つ(チームや選手の応援・結果の予想など)
②内で起こる結果への緊張感が高まる(ドキドキ感)
③結果を肯定的に受け止め、喜んだり称えたりする(外→内のつながり)
④②や③の感情を観客同士で共有する(外⇆外のつながり)

このように、観客は内側のサッカーに外側から関与している。すなわち、2つの層をまたぐように意識やエネルギーを出している。そして、内側の選手も日常にはない視線や声援といった外からのエネルギーを感じ取り、特別感を味わいながらプレーができる。この2つの異なる層でのインタラクションこそが、「独特な雰囲気」を創り出しているのだ。

外側⇆内側のインタラクション

インタラクションについてもう少し述べておく。インタラクションとは相互作用ともいうことができるが、要するに、観客(外)がいた方が選手(内)は頑張れるし、選手(内)が頑張った方が観客(外)は楽しめる、ということだ。なぜそんなことが起こるのか?

”体験による満足度は、本人がそこに向けたベクトルの大きさに比例する。”

より前のめりに観戦するほど、「観戦者自身」の満足度が高まり、
より一生懸命プレーするほど、「プレーヤー自身」の満足度が高まるのだ。
さらに人は、他者に見られていると手を抜けなくなることや、期待を感じると応えようとする心理特性があるため、観客の存在が、選手の「プレーへのベクトル」を大きくする機能を果たす。また、選手が懸命にプレーすればするほど、観客からのベクトルを跳ね返す「反射率」が高くなり、より強いベクトルが内から外へ跳ね返るようになる。内側からの強いベクトル(元は自分が外側から送ったもの)を受けた観客は、強い興奮や感動を味わい、再び内側へのベクトルを出そうとする。

つまり、内側と外側のインタラクションとは
①観客が「外から内へ」ベクトルを向ける
②それを受けた選手の頑張り度が増す(=反射率UP)
③選手の懸命な姿が「内から外へ」ベクトルを跳ね返す
④それを受けた観客が興奮し、さらに強いベクトルを出す(→①へ)
というスパイラル効果のことなのだ。

2つの層をつなぐ「支える人」

しかし、このスパイラル効果も必ず発生するわけではない。観客の満足度は、選手のプレーなどの「コア・プロダクト」と観覧環境や試合環境などの「周辺要素」の両方に左右されるといわれている。つまり、どんなに選手がプレーを頑張っても、その他の要素が劣悪では観客は満足せず、内側へのベクトルを出そうとはしない。

そこで、選手や観客がより楽しめるように周辺要素を整えるのが、運営(支える人)である。運営には、会場の音響担当など人目につかない場所で仕事をする人や、スタジアムのビール売り子やマラソン大会の給水ボランティアなど、直接的に選手や観客に関わる人もいる。この「支える人」も「内=する人」や「外=みる人」とのインタラクションを引き起こし、互いの満足度を高めているのだ。選手からの「ありがとう」の一言で給水スタッフが満足感を味わったり、受付スタッフの”神対応”で観客が喜んだりすることもある。

ここまでの内容をまとめると、

内側の層=パフォーマー・選手【する人】
外側の層=観客【みる人】
二層構造のフレーム=運営・ボランティアスタッフ【支える人】

という二層構造の中で、互いの層をまたいだインタラクションを生むことが、イベントが醸し出す「非日常感」なのである。

学校では子供を「内側」に置きたがる

ここで話題を学校の中に戻そう。学校では、基本的にこの二層構造が発生しない。なぜなら、多くの場面でほぼすべての子供を「内側=する人」に置いてしまうからだ。そして教師は「支える人」としての役割を果たそうとするため、「外側=みる人」が学校には存在しないことになる。

しかし、いくつかの場面では、二層構造が発生する。それは、運動会、音楽発表会、送る会などの「全校行事」である。子供が学年ごとに順番に「内側」に入り、それ以外の学年は「外側」で観る。そして、教師や一部の子供は二層構造の「フレーム」を作る役割を担う。年に1回しかない特別な行事のほとんどが、学校では貴重な二層構造を持ったイベントになっている。

そしてほとんどの場合、そのようなイベントでは子供は「内側」よりも「外側」にいる時間の方が長くなる。つまり、行事全体の満足度への影響は、「内側」での体験よりも「外側」での体験の方が割合が大きいのだ。しかし残念なことに、子供の「みる人」としての体験を意識して行事運営をしている教員を見たことがない。それでは構造としては成り立っていても、外と内のインタラクションは発生しない。

「無観客運動会」の失敗

実際に新しい運動会の在り方を問われ、苦肉の策で実施した学校も数々ある。しかし、そのうちほぼすべての学校が「どんな競技・種目をやるか?」を考えることに終始したことだろう。だが、本稿のこれまでの話を理解できていれば、これに違和感を覚えるはずである。競技や種目、あるいは運営について考えることも重要だが、それは「内側」や「支える人」にしか目を向けていない。つまり、「外側」の存在を考慮していないのである。運動会が貴重な二層構造をもった行事であることに気づかず、その構造を無意識のうちに壊してしまっている。

その結果、「無観客運動会」という最悪の形をとってしまった学校も少なくないだろう。ここでいう「観客」とは、決して保護者ではない。ある学年の競技の時、他学年の子供を「観客」と捉え、子供に「観客」としての運動会の楽しみ方を味わわせようという視点が抜けているのである。大声での応援はできないが、トラックを囲むように校庭全体に広がり、数百人という子供で「外側」を作るだけで、「内側」の子供にも非日常感が感じられ、いつもの体育とは違う感覚で運動することができる。

普段の「体育」と年1回の「運動会」の一番の違いは、二層構造であるか否かである。もっと端的に言えば、観客がいるかいないかである。従来の運動会でも、子供は応援や観戦といった「観客」としての体験に特別感を見出していたことも間違いない。「する体験」と「みる体験」両方がそろって初めて「運動会」としての体験になるのだ。未だ厳しい状況は続いているが、新しい運動会でも「みる体験」も含めた二層構造のある運動会を作っていくべきだと考える。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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