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秩序を乱す「厄介者」はなぜ生まれるのか?


「厄介者」


この言葉を聞くと、必ず誰かの顔を思い浮かべます。それは、どんな集団にも必ず厄介な存在がいるということです。しかし、それはどうしてなのでしょうか?あなたの「職場」にいる厄介な人は、どこにいても厄介な人なのでしょうか?そんな問いについて考えました。哲学的な考察なので、読みづらいところがありましたらご容赦ください。

「社会」間の行き来

私たちは、常に何かしらの集団に属しています。生まれたその瞬間から「家族」という集団の一員となり、幼稚園、学校、バイト先、会社など常にその集団を移りわたっています。1つの集団にずっととどまることはなく、例えば「家族」→「学校」→「部活」→「家族」と一日の中で何度も集団間を行き来しています。

ここでいう「集団」とは、すなわち「社会」が存在するものです。国が異なれば法律や生活様式、さらには言葉まで様々なように、それぞれの集団には独自のルールや文化が存在します。ルールや文化といったそれらの「創造物」は、それを共有する者の間に秩序をもたらすために生み出され、そうして秩序の保たれた世界を「社会」と呼んでいるのです。

これをより縮小して考えれば、「いえ」にはいえのルールや文化があり、「会社」には会社のルールがあり、「学級」には学級のルールがあり……とそれぞれの「集団=社会」を私たちは行き来していることになります。満員電車に揺られているときだって、車を運転しているときだって、同じタイミングで同じ車両や道路に存在するという”時空間の共有”を果たしている見ず知らずの相手と無意識に秩序を形成しています。つまり、私たちは常に何かしらの「社会」の中に生きているのです。

複数の社会を生きる複数の<自分>

大小さまざまな「社会」を一日中絶え間なく渡り歩いて生きている私たちは、同時に常に何かしらの”変化”を起こしています。「社会」が変われば、当然ながらルールや文化も変わります。「いえ」で許されていることが「学校」では許されないことは往々にしてあるでしょう。しかし、そのような”異空間”にいてもその社会の秩序を乱さずに生きられるのは、私たち自身が”変化”しているからにほかなりません。

「いえ」にいるときは「いえ」の文化に順応した自分であり、「会社」にいるときは「会社」の文化に順応した自分でいるのです。同じことは「学校」でも「満員電車」でも同じです。つまり、<「いえ」にいる自分>と<「会社」にいる自分>は別の存在なのです。ハードとしての存在は同じ個体ですが、中のソフトすなわち意識としての自分をその社会に合わせて入れ替えているのです。これが私たちが起こしている”変化”です。

そして、その”変身”ともいえる変化をコントロールしている<自分>がいます。今置かれている状況とその社会秩序を把握し、それに合わせた<自分>を選択する存在です。<コントロールする自分>は、<「いえ」の自分><「学校」の自分><「会社」の自分>などから、最適とされるものを選ぶ役割を果たしています。

標準としての<自分>

しかし、しばしばその選択にエラーが起こることがあります。例えば、電車の中で化粧をしたり<「いえ」の自分>、居酒屋で飲んでいる友人に対して敬語を使ってしまったり<「会社」の自分>などです。前者のように意図的に選択している場合もあれば、後者のように無意識に出てしまうこともあるでしょう。

このように、今いる社会にはそぐわない<自分>がでてきてしまう場合、その自分は「標準としての<自分>」である可能性が高いと考えられます。つまり、”その自分”でいる時間が最も長いか、あるいは心地よいため、自然と”その自分”を選択する傾向にあるということです。

だれにでも「標準としての<自分>」は存在します。だから<自分>の選択を間違えること自体は悪いとは思いません。注視すべきは、その”場違い”な自分が社会の秩序に及ぼす影響です。

秩序が乱れるのは”場違い”な自分のせい

そもそも本稿で繰り返し述べている<自分>とは、すべてその社会の秩序に順応した存在として定義しています。すなわち、社会に存在する誰かが<自分>の選択を誤らない限り、秩序は乱れないという前提に立っています。前述のとおり、しばしば選択のエラーは発生しますが、必ずしもそれが秩序を乱すことにつながるとは思いません。”場違い”であっても「無影響」な存在だってあるでしょう。

しかし、それでも秩序を乱すほどの影響がある存在も実際には登場します。秩序が乱れるとは、その社会を生きる人間による創造物、すなわちルールや文化、マナーなどが共有されていない状態のことをさします。つまり、秩序が乱れる時は、その社会の文化やマナーを共有しない別の文化が流入してくるということです。

これが実行可能なのは、”場違い”な<自分>しかありえません。複数の社会を行き来している人間は、同時に社会と社会の「接着剤」でもあり、同じ個体の中で複数の社会が混在するカオスでもあるのです。そんな中ですべての社会において適切な<自分>を選択し続けることは決して容易ではありません。

秩序を乱す人は<新しい自分>がつくれない

選択のエラーは、通常「変身できない」ことによって発生します。つまり、別の社会に移ったのに、元の社会の<自分>のままでいるということです。

電車の中にいるのに、まだ<「いえ」の自分>のままだから平気で化粧ができる。
家に帰ってきたのに、まだ<「会社」の自分>のまま不満をもらすから不穏な空気になる。
新しい学級になったのに、まだ<「昨年の学級」の自分>のままでいるから子供から反発される。

このように新しい社会にふさわしい<新しい自分>がつくれないと、その社会の秩序の撹乱を招いてしまいます。そしてそのような人が変身できずとどまってしまう<自分>とは、その人の「標準としての<自分>」でもあります。

逆に言えば、自分が変われずにいると、そのうちどこかの社会の秩序を乱す存在になるということです。

だれかと”時空間”を共有すれば、すべて「社会」になります。オンラインがさらに発達したこれからの時代、相手が見えないまま共有することもあるでしょう。個人が抱える「社会」の数はますます増えることが予想されます。より多くの社会を抱え経験することが、家や学校、職場などそれぞれの社会での生活を豊かにしてくれることでしょう。でもそのためには、どんな社会に入っても秩序を乱さず生きていける「変身」ができることが不可欠となります。絶えず<新しい自分>を探し続けましょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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