体育の「評価」に関する一考察

このアカウントやTwitterの同名アカウントでは、普段から「楽しい運動体験」を前面に出した体育に関する情報発信を続けている。それらの視点やヒントはもちろん私自身の体育実践にも反映され、児童や保護者、同僚からも比較的高い評価をいただいている。アカウントのフォロワーが増えたり、私の情報発信を参考にしてくださっている方々が多くなったりすることは大変うれしいことであるが、それと同時に「これってどうやって評価するんですか?」のような質問も多く寄せられるようになった。

これに関しては私にとっても未だ明確な解が見つからない課題である。そもそも現在の学校教育制度における体育の「評価」の位置づけに疑問がある。もはや評価はいらないのではないかとも思う。しかし、そんな感覚的な言論だけでは到底理解を得られないので、本稿では現在の体育が抱える「矛盾」を指摘し、適切な「評価」の在り方を提案することを試みる。

1.生涯スポーツの4つのスタイル

この論考はゴールから逆算する方が望ましいと考える。したがってまずは体育の”先”にある「生涯スポーツ」の世界から見ていくこととする。12年間の体育を卒業した後も何十年にわたってスポーツを継続する人、あるいは新たなスポーツを始める人は、一体どんな目的やモチベーションをもっているのか。それには4つのスタイルがある。

スポーツマネジメントの概念が発祥したアメリカでは、スポーツは「Egalitarian Sport」と「Elite Sport」という2つに分けられている。Elite Sportとは、いわゆる競技志向のスポーツ活動のことを指す。日本で「スポーツ」の語から連想されるサッカーや陸上競技などのオリンピック種目は「近代スポーツ」とよばれ、大会での好成績を目標とする場合が多い。また、年齢や世代を問わず、大会での「勝利」を追求する者は「アスリート」とよばれる。一方でEgalitarian Sportとは、大会での勝利などの結果にこだわらず、毎回のスポーツ機会に「リラックスや楽しさ」を求めるスポーツ活動である。年齢・性別・運動能力などが様々な集団でみんなで和気藹々と体を動かすもので、日本では「サークル活動」に近いものとしてイメージされる、いわゆるエンジョイ志向のスポーツ活動のことを指す。

また、スポーツをする機会は「目的的な機会」と「手段的な機会」の2つに大きく分けられる。つまり、純粋に楽しむため、または勝負するためにやるスポーツなのか、上達や健康増進などの別の目的のための手段としてやるスポーツなのかという分類である。この「Egalitarian / Elite」「目的的 / 手段的」の二軸で4領域に整理すると、生涯スポーツのスタイルは以下のようになる。

目的的・Egalitarianスポーツ(エンジョイ志向)

この領域は最も遊び感覚に近いスポーツ活動となる。休日のアスレチックや公園レジャー、仲間と行くボウリングや温泉卓球など、とにかく「楽しい時間を過ごす」ことを第一義としたものがこれにあたる。競技的なスポーツと区別するために、この領域は「レクリエーション」や「アクティビティ」などの別の言葉で呼ばれる場合も多い。

手段的・Egalitarianスポーツ(健康志向)

この領域は何か別の目的のために娯楽的に行うスポーツ活動となる。ダイエット目的のスイミングやヨガ、健康増進のためのジムトレーニングやジョギングなどがこれにあたる。また、クラブ会員同士のつながりや毎回同じメンバーでの活動など「コミュニティづくり」としての意味を見出している人も多い。この領域のスポーツ活動は習慣化している場合が多く、スポーツ庁が示している運動例はこれに該当するものが多いと思われる。

目的的・Eliteスポーツ(勝利志向)

この領域は主にアスリートが行っているスポーツ活動である。プロスポーツ選手や部活動・クラブチームの大会など、いわゆる「本番」とされる試合や記録会がこれにあたる。とにかく目の前の試合への勝利や、自己ベストの更新を目指し、結果にこだわって行うスポーツである。この領域のスポーツは一種の興行性をもち、オリンピックやプロリーグなど、これを利用したスポーツ観戦ビジネスやスポーツエンターテインメントにもつながっている。

手段的・Eliteスポーツ(上達志向)

この領域は主に試合に向けた練習やトレーニングとしてのスポーツ活動になる。アスリートが試合に向けてトレーニングしたり、大会に向けた部活動の練習試合など、少し先の時期に得られる結果のための布石となることを意図したスポーツ活動がこれにあたる。また、子供向けのサッカースクールや大人向けのゴルフレッスンなど、上達を希望して参加するスポーツ機会もここに含まれる。

2.モダニズムとポストモダニズム

もう一つ、体育と評価の関係について言及する前に提示しておきたい視点がある。それが「モダニズム」と「ポストモダニズム」という対立項である。これは哲学的な言論には非常によく用いられるが、初見にはなかなか理解が難しい概念でもある。ここでは両者を比較しながら、それぞれの基本的な物事の捉え方を整理するだけにとどめる。

モダニズムとは

modern(近代的)という時代から生まれたとされるこのモダニズムは、物事を「主体と客体」の図式で捉える。あらゆる対象物が「私=主体」の外側に存在し、私たちはそれを”コピー”するかのように自己の脳内に認識しているという発想となる。この脳内につくられた概念を「主観」とよび、自己の外側に存在している”本来”の姿を「客体(客観)」とよぶ。あらゆる対象物は「私」の存在がなくても常に「同じ状態」として存在することになり、自分と相手が同じものを見ているものとするために定義や一般化をしようとすることはモダニズム的な視点であるといえる。

ポストモダニズムとは

これに対しポストモダニズムは、モダニズム的な視点を否定するためにつくられた言論である。例えば、「いじめ」をモダニズム的に定義しようとすると、「特定の行為=いじめ」としなければならないが、実際には「被害者がいじめと感じた行為すべて=いじめ」とされる。このように、客観的な定義ではなく、あらゆるものは「個人の主観や解釈」で説明されるとするものがポストモダニズムの基本的な立場である。実際にこのポストモダニズム的な視点は社会のあらゆる場面で用いられ、「幸せとは何か?」のような問いを立てて本質に迫ろうとすることもポストモダニズム的な発想である。

3.「学習」や「評価」の再定義

前節で整理したように、「客観的定義」に基づいて物事を捉える視点がモダニズムであるのに対し、「主観的解釈」に基づいて物事を捉える視点がポストモダニズムである。この2つの視点から本稿のメインテーマでもある「学習」と「評価」という2つの語を再定義してみる。

「学習」は、対象なのか行為なのか

まず「学習」とは「対象となる概念を脳内につくりだすこと」と定義できる。これをモダニズム的な視点でみると、学習者の”外側”につかむべき知識が存在し、学習者はそれを見つけ出すことが「学習」とよばれることになる。教科書内の情報や他者がすでに獲得している知識など、学習という言葉を使うときには同時に「対象となるもの」がイメージされている。すなわち、モダニズムにおいて学習とは「対象」を出発点として用いられる。

一方でポストモダニズムでは、客体の存在を否定する、すなわちすべての学習者に共通した学習対象は存在しないという前提から議論が始まる。例えば「同僚と上手く付き合う秘訣」や「速く走るコツ」の答えは常に一定ではない。同じ授業やセミナーの参加者がそれぞれに異なる答えを見つけても、彼らは皆「学習した」ことになるはずである。つまり、ポストモダニズム的な視点でみると、学習とは「問いの答えを探す行為」あるいは「新たな知識を獲得したこと」であり、プロセスを指すことも結果を指すこともあるが一貫して「行為」なのである。

さらに、両者では「学習者によって獲得された知識」をもたらした主語が明確に異なる。モダニズムで捉えた場合、指導者は学習者に獲得させたい知識を予め準備し、それを獲得しやすいように学習環境を調整する。すなわち、その獲得された知識は「指導者によってもたらされた」ものとなる。一方、ポストモダニズムで捉えた場合、学習者が何を獲得するかは指導者には予測不可能であり、干渉することができない。何らかの学習場面を設定して「学習行為」を促すことはできるが、どの知識が獲得されるかは学習者個人に依存している。すなわち、その獲得された知識は「学習者によってもたらされた」ものとなる。

「評価」は、客観的到達度か主観的解釈か

まず「評価」とは、一言でいえば「対象の状態を把握する行為」である。対象のある特定の一面(=評価対象)について、事前に設定された特定の基準(=評価基準・クライテリア)に沿って診断し、ラベルを付けていく作業のことを指す。指導する立場にあるかに関わらず、すべての人は他人や商品に対して常に評価をし続けている。しかし、この評価という行為も2つの視点からそれぞえ捉えれば異なる様相を浮かべる。

モダニズムでは、先述のとおり「主体と客体」の図式をとる。そしてほとんどの場合で主体よりも客体の方が”正しい”とされ、プライオリティが高い。つまり、個人の主観的な解釈と、客観的な指標に基づいた評価は区別され、後者をより信憑性の高いものとして求められる。したがって、「評価の正しさ」は「評価基準の正しさ」に依存し、複数の対象に同一の評価基準を適用する場合は、その基準の妥当性が強く問われる。

では、指導者が学習者を評価するとはどういうことか。一人の指導者が、自ら指導するすべての学習者に対して掲げる観点は「学習したかどうか」である。モダニズムにおいては、学習とは「対象となる知識を獲得すること」であるため、この観点は「対象となる知識を獲得できたかどうか」と置き換えることができる。指導者は各学習者に対して、どの程度知識を獲得できたかを測るのだが、方法としては学習者に知識をアウトプットさせ、その”正しさ”を検証することとなる。つまり、客観的なものが重要とされるモダニズムでは、評価対象も評価基準も客観的であることが求められ、どちらも言語化されたものが扱われる。そして、指導者が言語化した評価基準に学習者が言語化した対象を乗せ、一連の「評価」という作業が指導者の「外側」で行われる。

これをポストモダニズム的な視点で捉えたらどうなるか。ポストモダニズムは、あらゆる物事を個人の中に創られた解釈に基づいて捉え、すなわち世界は人間の脳内にあると考える。異なる個人の脳内にそれぞれ創られるそれぞれの世界は決して同一ではなく、しかしどちらも真であるとする。まずこの時点で指導者が学習者を「正確に評価する」ことは不可能とわかる。

では、ポストモダニズムにおいて「評価」とは何を意味するのか。評価とは「解釈・認識」と同義である。対象となる人はどんな能力を持つのか、どんな感情を抱いているのか、どんな意図を持って行動しているのかなど、対象者の振る舞いや表現から評価者自身が「対象者のイメージ像」をつくり上げるプロセスこそがそのまま「評価」なのである。そのイメージ像が対象者の”実態”と一致しているかは問わない。そもそもポストモダニズムでは、すべての主観そのものがその対象の”実態”であると考える。

指導者が学習者に対して「学習したかどうか」を評価する場合、学習を「知識を探求し獲得する行為」と捉えるこの視点では、この問いは「知識を探求していたか、獲得できたか」と置き換えられる。さらに、実際に学習者がそれをしていたかは問題ではなく、評価者にとって「知識を探求しているように”見えた”か、獲得できたように”見えた”か」で十分なのである。

このように、モダニズムとポストモダニズムそれぞれの視点から「学習」と「評価」を捉え直すと、両者がまったく異なる行為として映ることがお分かりいただけるだろう。また、現在の学校教育では「学習」に関しては2つの考えが適宜用いられるのに対し、「評価」に関してはモダニズム的視点しか用いられていないことが見えてくるはずである。つまり、このモダニズムとポストモダニズムの混在がひずみを生んでいる可能性が十分に予想できる。実は、体育が扱う「スポーツ・運動体験」もまた、この2つの視点から捉えるとまったく異なるものとして映ることがわかるのだ。

4.4つのスタイル×2つの視点

冒頭で示した生涯スポーツの4つのスタイルも、それぞれモダニズム・ポストモダニズムのどちらかの視点に基づいている。端的にいえば、それは「客観的な指標」と「主観的な価値」のどちらに基づくかということになる。

結論を先に述べれば、Elite Sport=モダニズム、Egalitarian Sport=ポストモダニズムとなる。すなわち、「勝利志向・上達志向」はモダニズムであり、「エンジョイ志向・健康志向」はポストモダニズムである。なぜそのようにいえるのか。

「勝利」や「上達」は、どちらもすべての人に共通する客観的な優劣基準が存在する。どんな大会でも金メダルと銀メダルの価値が逆転することはないし、メダルを獲得することが一定の社会的地位の向上を同時に意味する。また、上達とはより難しいとされているスキルの獲得や客観的に数値化されるプレイヤーステータスの向上を意味するものである。いずれにしても「強い」「速い」「すごい」などの基準が多くの他者と共有できるため、客観的な指標に基づいて評価もしやすい。このような特性から、勝利志向や上達志向のスポーツは共通の目標を持ったメンバーが集まりやすく、チームビルディングなどの団結をイメージしたアプローチが取られやすい。その反面、技術的な優劣が顕在化しやすく、淘汰やドロップアウトが発生しやすいという特性もある。

一方で「エンジョイ=楽しい」や「健康」は、個人によって定義が異なるものである。「楽しい」とはその人の期待が満たされることとほぼ同義であり、何がそれを満たすのかはその人の価値基準によって変わる。健康についても同様で、改善・維持・増進など微妙な表現の違いが個人のニーズの多様さを示している。このような主観的な充足を目指すスポーツ活動は、何が「良い」とされるかを一律に述べることができず、個人の裁量で最適な参加方法を選べるものとなっている。また、参加者同士にヒエラルキーがなく、全員が同じ立場であることが好まれ、指導者などの他者に「決められる」ことを嫌う傾向にある。

5.スポーツスタイル・学習・評価の「一体化」

ここまで「スポーツのスタイル」「学習」「評価」の3点について、モダニズムとポストモダニズムの2つの視点から検討してきた。かなり前段が長くなったが、いよいよ体育の話題に入る。しかし、もうすでに体育についての検討も半分以上は済んでいる。なぜなら、体育という教科は「スポーツや運動」を扱う「学習」であり、それを教師が「評価」するものだからである。つまり、ここまでみてきたものはすべて体育を構成する各要素だったのである。

改めてここまでの検討を整理すると、次のようになる。
【モダニズム(MDN)】
スポーツスタイル:勝利志向・上達志向
学習:対象となる客観的知識の獲得
   指導者によって用意されたもの
評価:言語化されたものを通して客観的な基準に照らす
   全員に同じ基準を設定することが可能

【ポストモダニズム(PMD)】
スポーツスタイル:エンジョイ志向・健康志向
学習:知識探求の行為やプロセス
   学習者自身によって創造されたもの
評価:指導者の主観的なイメージや解釈
   目的の達成条件が異なるため全員に同じ基準を設定できない

このように並べたときにみえてくることがある。現在まで一般的に行われてきた学校体育は、そのほとんどが「上達志向(MDN)」であり、学習指導要領やカリキュラムによって順序だてて整理された運動に関する知識や技能(MDN)を、獲得しやすいように教師がデザインし(MDN)、その収穫を何らかの形で言語化させ(MDN)、達成度を同一の基準に照らして評価する(MDN)ものである。つまり、扱うスポーツのスタイル・学習の定義・評価の方法がすべて一貫してモダニズムで統一されていたのである。

しかし、この上達志向の運動学習は過剰な能力主義に陥り、体育嫌いやスポーツ離れを大量に生み出す結果となった。技能偏重であるとして改善を求める声が相次ぎ、能力開発的な体育から運動を長く続けてもらうためのモチベーション開発的な体育へのシフトが喫緊の課題となった。それによって、運動スキルへの依存度が低い「エンジョイ志向(PMD)」や「健康志向(PMD)」というEgalitarian的なスポーツへと、体育が扱うスポーツのスタイルの変更が余儀なくされた。

ところが、扱うスポーツのスタイルがポストモダニズム的にシフトしたのに、学習の定義や評価の方法は依然として従来のモダニズム的なままなのである。「みんなで楽しく運動しよう(PMD)」というテーマを掲げながら、「この運動のコツは何か」という共通解を探求する課題(MDN)を設定したり、「〇〇ができたらA」という共通の評価基準(MDN)を設けたりしている。先述したとおり、やはりこの2つの視点の混在が体育と評価の不調和を生み出しているのだ。

モダニズム的なスポーツ活動の場合、指導者と参加者の目標は常に一致している(この試合に勝利したい、このスキルを身につけたい、もっと上達したい・させたいなど)。しかし、ポストモダニズム的なスポーツ活動の場合は、参加者はそもそも「指導」に依存せず、両者の目標が一致することは非常に少ない(あるとすれば、指導者が参加者のニーズに応えようとした場合のみである)。つまり、参加者が「エンジョイ志向」の体育を望むのであれば、教師も「エンジョイ志向」とならなければならない。学習についても「〇〇を学ばせよう(MDN)」から「楽しんだ結果何かしらに気づくだろう(PMD)」にシフトしなければならない。評価についても「どこまで理解できたかを客観的に測る(MDN)」のではなく「どれだけ楽しんでいるかを主観的に観察する(PMD)」ようにしなければならない。このようにポストモダニズム的な視点ですべてを統一することが必要なのである。

先日、スペインで運動指導プログラムを開発し、そのメソッドをグローバルに展開している団体の方と話す機会があった。その団体のメソッドは「エンジョイ志向」を軸に毎回運動を楽しませ、その中で協力やチャレンジといった道徳的価値に”気づかせる”ことを主たる目的としている。また運動能力の開発は決してメインテーマではなく、そのための特別なアプローチもとらないという。そこで思い切って「日本の体育では常に知識や技能などの到達度を客観的な指標に基づいて評価する傾向にあるが、それはみんなで楽しもうとするスタイルと相性が悪いのではないか?」と質問をしてみた。その方の回答は、「どうすれば楽しめるかを模索することも重要な学習であり、運動のコツを理解することもまた重要な学習である。指導の上で大切なのは、ひたすら楽しむことを目指す回と運動のコツを探求する回を明確に区別することだ。」だった。まさに運動の目的と指導や評価の基準の”ミスマッチ”を指摘したものであり、どちらでもよいから必ず片方に統一せよという教えだった。

さらにいえば、知識や技能の評価を主たる目的とする場合は、あくまでも「確認的な意味」で行えばよいとのことだった。算数など他教科の学習のように、毎回新しい知識の獲得や技能練習を重ね、最後に「定着」を測るためにテストをするという方法では、単元を通して常に「上達志向(MDN)」な体育しか登場しないことになる。ベースを「エンジョイ志向(PMD)」にして楽しむことを第一に考えた体育を繰り返しても、その中で自然と戦略的な発見や運動のコツの体得は見込めるものであり、その「自然な獲得」がどれほどあったかを確認するために言語化やチェックテストをするという方法で十分であると教えてくれた。このアドバイスは、私にとって重要な気付きを与えるものになったと確信している。

本稿は非常に長文となってしまったが、体育における評価について私なりの考察をつづったものであった。本稿を一貫して用いた2つの視点を実際の授業に反映させることはすでに実現しているが、これを「指導案」にどのように反映させていくかが次なる課題であると感じている。指導案や評価基準そのものが非常にモダニズム的な概念であるため、そこにポストモダニズム的な視点を差し込んでいくことは決して容易ではないと思われるが、ここまでまとめられた以上はチャレンジしてみたい。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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