愛情と性欲が結びつかない話

今回はわたしがアセクシャルとクワロマンティックを自認する根拠となった感覚について綴っていこうと思います。
本当はラブ・ランゲージのお話をしようと思っていたのですが、せっかくなのでネットのまとめだけ見て書くのではなく原著である愛を伝える5つの方法を読んでから要約と感想を書けたらな〜と思い後回しにしました。

さて表題通りなのですが、わたしは愛情と性欲が結びつきません。好き、愛しいという感覚はあります。嬉しいときや愛おしいときにハグしたい感覚にはなります。しかし、好き可愛いカッコいい、だからセックスしたい…とはならないのです。
性欲はあります。自慰行為もします。月経前後は性欲が高まるので、「もやもやするな。よし、スッキリしとくか」の感覚で自慰をします。気持ち良い感覚はあります。性欲の感覚は分かります。ただ、それが他者に向くことがないのです。

「好きだから手を繋ぎたい」
「可愛いから抱きたい」
「最近レスで不安。もう愛されてないのかな」

これらの感覚がわたしには理解できません。
わたしの感覚では、愛と欲は別物です。例えばなのですが、飼っている猫が可愛くて愛おしいからって多くの人は欲情しないですよね。母が子を愛していたとして、セックスしたくならないですよね。わたしにとってはその感覚が誰に対してもあるのです。

友達が大好きです。母親を敬愛しています。弟が可愛いです。パートナーが大切です。
わたしにとってそこに明確な差はないのです。
これを上手く言語化していらっしゃるのが、俺の嫁ちゃん元男子というブログのクワ(クォイ)ロマンティックの回です。
本当に4コマで良くまとめていらっしゃるなあと感心します。友情と愛情と信頼がグラデーション的に交わりあっていて好意になっている。その好意を恋愛かその他かに分ける必要があるのか??まさにその感覚です。

あと他者に性欲が向かないので、恋愛とその他を分ける指標がないんですよね。友達にも嫉妬することはあるし、自分が性欲と愛情を結びつけて考えられないから風俗に対する嫌悪感もない。パートナーが利用していても友達が利用していても「そうなんだ」って感じです。自分にはない感覚だけれども性欲が溜まると辛いらしい、理性を解放して欲に溺れることで得られる快感があるらしいという知識はあるので、ウチはウチ、ヨソはヨソという感覚です。性嫌悪はありませんし知的好奇心が強いので、相手が嫌がらなければ細かく聞きたいなと思います。自分の分からない世界を知りたい。性病には気を付けてねって思うけど。

少し前にパートナーに「どこからが浮気だと思う?」って聞かれて、「わたしより優先したい人ができたらかな」と答えました。わたしより大切にしたくて、尊重したくて、この人と生きていきたいと思う人ができたらそのときは別々の人生を歩んで行けば良いのでは?と思います。パートナーが人生で何回変わっても問題ない。そのときの最善を尽くしたなら、惰性で共にいるよりずっと良い。

浮気とか言われても正直よく分からないです。嘘を吐かれるのは嫌ですし、わたしより大事にしたい人ができたのにそばに居られるのも嫌。浅はかな行為をするような人は嫌いです。
例えばパートナーが、プロでないわたし以外の人とセックスをしたとして、浮ついて悟られるようなお馬鹿さんなら嫌悪するでしょうが、気の迷いでバッサリ切ったなら「しょうがない人ね」と流せると思います。要はわたしに対するリスペクトがあるかどうかですかね。プライオリティがわたしにあるなら問題ないです。
この感覚は、クワロマンティック・アセクシャルだけでなく個人的なものかもしれないですね。人は間違えたり踏み外すこともあるし、不変ではない。わたしはパートナーを尊重していて愛情も向けているつもりでいるので、それでも離れてしまうならしょうがないかなって。自由でいたいし、パートナーにも自由でいてほしい。多くの選択肢の中で、ともに居ることを選び続けられたら素敵ですよね。

少し話が逸れてしまったので、今回はここまでで。
わたしの駄弁が、誰かの心に触れれば良いなと思います。

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