ヤマノテ・ループ・ライン(1)
乗客1:東京〜目黒
ラッシュ避けてもこれかぁ、と思わずため息が漏れた。
東京駅4番線、山手線外回りのホームはそれなりに混雑していて、ベビーカーを押して進むには、無理ではないけど厳しい。
子連れの帰省はただでさえ大変だから、混みそうな時間は避けたつもりで、新幹線は狙い通り空いていたけど、さすがは都心の大動脈だ。
1本見送って、先頭で電車を待つことにしよう。
ホーム上の表示を確認した。
「すき間を狭くしてあります」
今山手線を走る電車にはフリースペースがある。
今まで優先席があった場所のうち1ヶ所が、主には車いすが乗り込んだ時の場所なるように、座席のないスペースがあるのだけど、先客がいなければベビーカーにもありがたいスペースだ。
その中でも、ホームに「すき間を狭くしてあります」と表示されている箇所は、ホームと電車の段差と隙間を埋める工夫がしてあって乗り込みやすい。
ホームに電車が滑りこんできた。
開いた扉から多くの乗客が降りてくる。
乗客の何人かは、ベビーカー連れの私に視線を送る。
恐ろしいほど無表情な男性の視線が刺さる。
もちろん、その男性がどんな思いで私とベビーカーに視線を送ったかはわからないが、思わず強い目線を返すと、その男性は無表情のまま視線を前方へと戻した。
それにしても、ほんの5年くらい前、結婚すら考えていなかった頃に、電車でベビーカーを押す母親に辟易していたような自分が信じられない。
あの頃は、ベビーカーのまま電車に乗り込む親に対して、「ベビーカー畳んで抱っこしろや」と念を送っていた。
ベビーカー乗車を容認した国土交通省に反発すらしていた。
今はわかる。
ベビーカーを畳んで抱っこして電車に乗ることがどれだけ大変で、かえって場所も取るし、何より危険であることが。
やはり、人間、自ら経験したことしかわからないのだ。
電車にベビーカーで乗り込むと、時には厳しい目線を向けられる。
あからさまに舌打ちしたり睨んできたりと態度で示す人までいる。
少し辛いし、心が折れそうにもなるけど、でもそれは、5年前の自分でもある。
あの無表情の男性が向けた眼差しを、私がベビーカー連れに向けていたのだ。
知らないだけなのだ。
知らないから思い至れないだけなのだ。
そんなことをぼんやり考えているうちに、電車は新橋に到着していた。
開いた扉から、銀座でランチをしてきたと言われたらすんなり納得してしまう風情のご婦人が、杖をつき乗り込んできた。
あいにく車内の座席に空きがなく、ご婦人はフリースペースの方へとやってきた。
低い位置にある手すりに捕まって立つためというのはわかっているが、ベビーカーを邪魔に思ってはいないかと妙に身構える。
ご婦人は、私の近くに来ると、とても穏やかな表情と仕草でベビーカーを覗き込んだ。
そして慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、「何ヶ月?」と聞いてきた。
意味もなく緊張してしまい、「ろ、6か月です」としどろもどろに答えると、「かわいいわねぇ。ごめんなさいね、急に」とさらに微笑んだ。
「あ、はい」などと中途半端に答えてしまうが、ご婦人が優しい微笑みのまま「お母さんも大変でしょうけど、身体だけは大事にね。あとはだいたいでいいんだから」と言ってくれたので、不覚にも目が潤んでしまった。
電車が浜松町に着くと、斜向かいの座席でうたた寝していたサラリーマンが飛び起きて降りて行った。
席が、とご婦人に言おうと思ったと同時に、近くに立っていた学生らしい男子が、その空いた席に自分のリュックをドサリと置いた。
何てことをするのかと訝しんでいると、その男子は大股でご婦人に寄ってきて、「席が空きました」とやっと聴こえる声量で言った。
ご婦人は「まあ!」と顔を綻ばせ、私に「じゃあね」と声をかけ、男子に「ありがとうねぇ」とお辞儀をして、男子がリュックをどかして空いた席に腰を下ろした。
男子は、ご婦人が席に着いたのを見届けると、首だけでコクリとお辞儀に応え、そそくさと扉を挟んだ反対側、私の向かいの位置へと移った。
リュックを前に抱えた男子の背中がとても温かく感じられた。
世の中も捨てたものではないのだ。
品川で多くの乗客が降り、同じくらい乗ってきて、扉が閉まって出発した。
ご婦人はまだ乗っていて、眼鏡越しに読書に耽っている。
男子もまだ乗っている。
ご婦人はどんな人生を歩んで、どのように穏やかな歳を重ねてきたのだろう。
私があのご婦人になるためには、どんな人生を歩めばいいんだろう。
男子はどんな人生を歩みながら、あの優しさを身に付けたのだろう。
ベビーカーで眠る私の子が、あの男子のような優しい人になるために、母親の私がしてあげられることはなんだろう。
独り身の時は、今その時で精一杯だったのに、結婚して出産したら、来し方行く末に思いを馳せることが増えた気がする。
それが親になるってことなんだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたら、電車が降りる駅である目黒に到着するというアナウンスが聴こえた。
車内の混み具合からすると、降りるのに難儀するほどでもなさそうだけど、それでも少し緊張する。
目黒のホームが窓越しに流れ、流れは次第に速度を落とし、止まる。
ドアが開くよりやや早く、「降ります!」と宣言した。
今日は車内に邪魔になる人はおらず、みんな嫌な顔せず避けてくれた。
視線の先には、さっきの男子が私の前を降りていく姿があった。
同じ駅だったかぁと呑気に思っていたら、男子はホームで乗車を待つ人の列の前に立ち、私が降りる道を塞がらせまいとばかりに盾となっていた。
あまりに恐縮し、声も出せずにペコペコしながら開けた道をそそくさと降りる。
左にその男子を見たが、右には車いすの男性が見えた。
よかったと胸を撫で下ろす。
車いすの人とかち合ったら場所を譲らなければならない。
そうならずによかった。
しかし直後、そんな風に思ったことがすごく恥ずかしく思えた。
困っているのは、大変なのはある意味お互い様で、車いすの人はベビーカーよりもどうしようもないのに、まるで迷惑な存在として扱ってしまったような罪悪感と羞恥心に駆られた。
一度立ち止まって深呼吸する。
すると、後ろからきたさっきの男子が通り過ぎるところだった。
「あの」
声をかけてから戸惑ってしまった。
自分は何を言うつもりなのか。
男子は私以上に戸惑った表情で、でも足を止めてこちらを向いてくれる。
「あ、あの、さっきはありがとうございました」
高校生の頃、好きな人に声をかけた時ぐらい緊張したかも。
その緊張が伝染ったのか、男子は顔を赤らめながら、「いや、別に、はい。ども」と呟いて早足で立ち去った。
男子から吹いた気がする爽やかな風を勝手に浴びながら、改札へ向かうエレベーターを目指した。
乗客2に続く
(全5話)
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