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ヤマノテ・ループ・ライン(2)

乗客2:目黒〜高田馬場

レバーを静かに前に倒し、車内へと進む。

こんなに気持ちよく電車に乗り込むのは久しぶりかもしれない。

1本、場合によっては2本見送って先頭で待っていても、追い抜かれたり反対側で待つ乗客に遮られて乗るのに難儀することの方が多く、そんな時は駅員のサポートを頼まなかったのを少しだけ後悔するものだ。

しかし、今日は降りて来た青年が盾となるように道を開けてくれた。

おかげでスムーズに乗車できた。

その上、今すれ違って先に降りて行ったベビーカーが使っていたのか、フリースペースが埋まっておらず、そこに立っていた乗客も、車いすの僕の姿を見るとスッと場所を空けてくれた。

ペコリペコリと頭を下げながら進み、何回か細かく方向転換をしてフリースペースにまっすぐ収まると、ブレーキをかけ、コントローラーの電源を切った。

そうしている間に目黒を出発した電車は進み、渋谷では多くの乗客が入れ替わった。

学生時代、幾度と乗った乗車区間。

あの頃はまだ先代の車輌で、フリースペースはなかった。

目黒から大学の最寄駅である高田馬場まで、ずっと同じ方向の扉が開くのなら、開かない方の扉に寄せて停まれば迷惑にならない。

以前、何かの用で上野から東京まで山手線に乗った時、その間の全ての駅で進行方向左側の扉が開くので、ずっと右側の扉を背にしていれば邪魔にならず、安心して乗っていられた。

しかし、目黒から高田馬場の区間では、開く扉が左へ右へと入れ替わってしまう。

線路の配置上仕方ないのだけれど、扉の隅に立っていられない車いすユーザーにとっては忌々しくも思える事実だった。

以前、電車の中で扉の脇の手すりの位置を「狛犬ポジション」と呼ぶんだと、鉄道が趣味の学友が教えてくれた。

僕が、「車いすだと狛犬にはなれないな」とこぼしたら、「狛犬を従えて正面にいるんだから、むしろ神なんじゃね?」と返ってきて吹き出したことがあったな。

山手線の車内にフリースペースができ、他の乗客の乗り降りの邪魔にならない居場所ができたとその学友に伝えたら、「そうか、神棚ができたか」と関心していた。

面白いヤツだ。

今日は、卒業後に職員として母校である大学に務め、施設のユニバーサル・デザインを推進する部署に携わることになったその学友に呼ばれ、久しぶりに母校に向かうところだ。

学友は、ユニバーサル・デザインの観点で見た現状の到達点や課題の洗い出しと、職員研修としてユニバーサル・デザインについての講演を、僕に頼んできたのだ。

僕は僕で、自分の経験や経歴を活かして、企業や団体にユニバーサル・デザインについての講演をする会社に勤めているから、依頼内容としてはよくあるものだが、依頼者が友人だったため少しためらった。

僕自身は喜んで引き受けたいが、周りの目がどう考えるか。

お互いに友人の伝手で仕事を融通しあって、相場より高い、あるいは反対に低い報酬で請け負っていると疑われはしまいか。

迷った末、僕は正直に学友にその懸念を打ち明けた。

学友は朗らかに「変わってないなぁ」と笑うと、こう続けた。

お前は周りの目を気にしすぎなんだよ。しかもネガティブにね。車いす生活ゆえに周囲の目が気になるのは、今の日本の社会では仕方ないかもしれない。でも、だからこそ、少数弱者が変な目を向けられないような社会に、俺たちが変えるんじゃないか。
俺は単にお前が車いすに乗っているからこの仕事を頼むんじゃない。
友人だから頼みやすかったのは事実だが、その上で、お前が今の会社でどれだけの講演なんかの実績を積んでいるか、評判はどうか、報酬が予算に見合うかをきちんと検討したうえで、きちんと筋を通して依頼している。それはお前だってわかっているはずだ。
だいたい、うちの職場だって、卒業生ってだけで簡単に依頼先を決めるほど緩くない。いたってビジネス的にはドライなんだ。
契約書だってちゃんとある。報酬だってきちんと決められた正当な額が、正当なルートで支払われる。
やましいことなど何もないのに、俺とお前の関係性ゆえにそんな悩みを抱くのは、俺に対してかえって失礼になるんだぜ。そうだろ?

返す言葉は何もなかった。

学友の言うとおりだった。

振り返れば、親が頑張って通わせてくれた小学校の頃に受けた好奇と憐憫の眼差しが、この「考えすぎ」の根源だ。

その眼差しに耐えられず、中学からは国立大学付属の特別支援学校に通った。

小学6年生の時の担任が、「サポートさえしっかりしてやればもっとうまくやれたのに… すまない」と詫びてくれたのは、今思えば数少ない救いだったが、あの時はそれすら申し訳ない思いにしかならなかった。

大学進学後に抱いた、また同じ好奇と憐憫の眼差しを浴びるのではないかという懸念を、しっかりはねのけてくれたのが、件の学友だ。

常に対等な目を向けてくれた。

電車の話で僕を神様扱いしたのも、見方を変えればネガティブにもポジティブにもなるという学友の信念そのものだった。

その学友は、僕との交流を通して、今の仕事に進むことを決めたと語った。
素直にうれしかった。

そして僕も、学友の励ましがあって今の仕事に就くことができた。

当事者にしかわからないことは、当事者が語るしかないんだ。
遠慮はいらない。遠慮してはいけない。

学友が僕に語ったこの言葉が、今の僕を築いた。

いい奴だが、ちょっと気障なのかもしれない。あまりそういう感じはしないが。

電車は新宿に到着した。
多くの乗客が入れ替わった。

ホームから、女性な男性が乗り込んでくる。
耽美的で退廃的な美しさを感じ、思わず視線を送る。

そして目が合った。

オカマが差別語でいけないことはわかっているが、ニューハーフはいいんだっけ?ゲイとは言い切れないよね?じゃあ彼?彼女?をどう表現すればいい?

そんな思いが胸に去来することがあまりに失礼に感じられ、今度は一気に目を逸らす。

逸らすと、今度はそのことがとても失礼なことのように感じられ、もうどうしていいかわからなくなる。

そして、それが自分が受けて傷ついてきた、好奇と憐憫の眼差しと同じ類のものであることにも気付いている。

つまりは、人間は自分とは異質なものをすんなりとは受け入れられないものなのだ。

異質ゆえに珍しく感じられ、異質を抱えることを不憫に思うのだ。

しかし、自分自身が少数弱者である僕が、別の種類の少数弱者にその視線を向けるのは根本が間違っているのではないか。

僕だって、この方だって、趣味趣向で少数弱者になっているわけではない。

少数弱者同士で互いに牽制しあったり、貶めあったりする先に、ユニバーサル・デザインやダイバーシティがあるはずもない。

そういえば、学友はなぜ僕を初めから対等な関係として扱うことができたのだろう。
見る限り多数派に属する学友が、僕のような少数弱者と対等に関わることができるのはなぜか。

それを解明することこそが、ユニバーサル・デザインやダイバーシティのヒントになるのでないか。

今日の仕事が終わったら、そんな話を持ち掛けてみよう。
どんな名言が飛び出すか、今から楽しみだ。

そんなこんなに思いを馳せていたら、電車は高田馬場に到着していて、まさに扉が開こうとしていた。

しまった。出遅れるかも。

着く前には降りる姿勢を見せ、扉が開くより早く「降ります」と宣言するのが、つつがなく電車を降りるコツだと、勝手に思っていた。

とはいえ仕方ない。息を吸って、思い切り宣言する。

「降ります!」

周りの乗客が一斉に僕に視線を向け、「え?」という顔をする。気がする。

すると、人垣をかき分けて現れたのは、さっきの美しい男性…いや女性…いや、まああの方だ。

「この人が降りるって言ってるじゃない。キョトンとしてないで開けなさいよ!」

周りの乗客は、その迫力に気圧されるように道を開けた。

まるでモーゼが海の水を分けて道を開けたかのようだった。

「ありがとうございます!」と、僕はモーゼに礼を言う。

「礼なんていらないわよ!気をつけなさいよ!」とモーゼが言う。

なんでもかんでも行き過ぎた礼をすることはないんだよ。
こんなの、みんなが互いに当たり前にやってることを当たり前にやりあってる範疇なんだから。
軽く「サンキュ」だの「悪ぃね」だの、なんならニコッと会釈するだのでいいんだよ。

以前学友が言った言葉がよみがえる。

こんなに気持ちよく電車を降りたのは久しぶりかもしれない。

今日は、いい一日になる。

乗客3に続く


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